[16] お邪魔虫
まいったな。
多分、今のこの世界で一番頼りにしているのがカイルだ。
その彼があんなことをするなんて。
私は甘く噛まれた唇のうずきを忘れるために、そこをきりりと噛んだ。
ユリウスとは自然な流れだし、彼の気持ちもだいたい分かるのだけど。
過ぎる冗談で流したけれど、そうじゃなかったら困るな。
思い返せば、実はユリウスよりカイルと過ごした時間のほうが長い。
困った時に相談に乗ってくれるのが彼だし、私の教師の一人として時々お茶に招き彼の仕事や王子や王の職務について話を聞いていた。
そのおかげで、今私は、後宮に入らずここ勉強を名目に働かせてもらっている。
彼の私への冷静な態度は、異世界の女であり親友の将来の花嫁、そして時期王妃という目でしか見られてないと思い込んでた。
油断しちゃってたのは、私の失敗。
これをユリウスが知れば面倒だな。
でも、カイルはユリウスと違って馬鹿じゃない。
彼と王との確執だって知ってるはずだし、機微も分かってるし機知にも富んでいる。
経験上、こういうことを言っては駄目な相手にペラっと喋るのは馬鹿な男。
そうそう、ユリウスみたい…
神様、私の相手って本当にユリウスなんですよね?
私は深くためいきをつきかけ、我に返り息を止める。
だめだめ。
ため息をつくと幸せが逃げるというじゃない。
なんの保証もない暮らしの今、ひとかけらの幸せと平和を大事にしたい。
きっと大丈夫よね。
何かあった時はまたその時だわ。
「ユカ様、そろそろお時間ですよ」
「わかったわ。じゃあ、ナナいくわよ」
「本当によろしいんですの、ユカ様。そりゃ常にお側に侍女が侍るものですけど、王子の執務室にあがるなんて恐れ多くて……」
「だからナナなんでしょう。ほら、こっちに来なさい」
私は荷物を抱えたナナを連れて、アザミのレリーフが彫りこまれた扉を開けた。
「おはようございます」
「ユカ!おはよう」
「ユカ様おはようございます」
尻尾を振るように、嬉しそうに立ち上がるユリウス、そしてカイルはいつものように顔だけ上げて慇懃無礼に挨拶した。
よかった、いつも通りだ。
心の中でほっとしながら、後ろでもじもじしていたナナを中にひっぱりこんだ。
「今日からこの子も手伝わせるから」
「なぜですか」
「細かい雑務や検算までカイルがする必要ないわ。時間の無駄よ。あなたは器用だから全部一人でやってしまうけど、その手間が空けばそのぶんだけ別のことが出来るでしょ?私を他部署へのお使いをさせられないなら彼女を使えばいいわ」
意図をはかりかねるようにこちらをみるカイルに、私は笑いかけた。
「今後のためにも、信頼出来るスタッフを増やしていかなきゃね。このナナはお買い得よ。神殿でかなり教育を受けてるの。そしてこれよ」
「ユカさまぁ、今ここでご説明するのですか?」
ナナが私を泣きそうな顔でみている。
その背中をそっと押す。
しぶしぶ彼女は手の中のものを手近な机に置き、細長い包みを開いた。
中から現れたのはソロバンのような…どうみてもソロバンだった。
「王子、カイル様、これは神殿に伝わる神具を模したもので本来は門外不出なのですが、ユカ様のご指示で許可を頂いてきましたので。その、託宣の儀や召喚の間の紋を書く際に用いられる秘具でございます。神官の中でもそういったものに触れる上級神官にのみ伝わり私もおじいちゃ、いえ養父より習いました。それをユカ様が…」
「早い話が、元いた世界では私の国で子どもが一度は習う計算機なのよ」
召喚された日に、神官長のおじいちゃんと話しをしていた時、彼が今まで召喚されてきたものの簡単な図入り目録をみせてくれた。
神具はほとんどが武具か装身具だったが、時々用途不明のものが混じってたという。
それは、扇風機だったり、紙幣の束だったり、傘だったり、片足だけのスニーカーだったり、そしてそろばんなど、元の世界では見慣れた、だけどどう役に立てるつもりと首をかしげるものも多かった。
一部使い方を理解できたものは利用され、そうでないものは祭壇に置かれ、その後はしまい込まれているらしい。
その中で幸運にもなんとか使いこなされていたのが「そろばん」だった。
託宣や召喚が王のための行事になる前、ひっそり宮殿の奥で神官によってのみ行われていた儀式。
小学生が持ち歩くような明るい水色チェックの袋に入ったそれには、図解の使い方の紙が入っていた。
なので、基本的な使い方を把握すると、神事に使われてきたという。
この国の教育では普通の国民は算数は足し算引き算で十分とされ、それ以上は上位教育学校に入らなければ掛け算すら習わない。
複雑な計算が必要な職業は、その職業の中で独自の計算法が伝授されるらしい。
計算の道具は、財務省で使っていると聞いて見学させてもらったが、筆算で追いつかない場合は算板という碁盤のような板と定規と碁石のような丸い木の玉を並べる手法。
あともう少し、百年くらいたてばソロバンに進化しそうな、そんな道具だった。
きっと神様はこの国の学習レベルをもっとあげたかったんだろうな。
だけどまさか門外不出にされるとは思わなかったはず。
私の知るそろばんというには繊細さに欠ける、棒に5つの丸い玉がささったものが並ぶ道具をナナから受け取ると、それをカチャリと鳴らした。
そして軽くパチパチと玉をはじいた。
慣れない形だし触るのも久しぶりすぎて、やりづらい。
「元の世界では何百年も前から読み書きそろばんといって子どもの教育の必須だったのよ。今はもっと便利なものが出来たからあまり使われなくはなったけど、それでも愛用する人は少なくないわ」
私は、経理の牛島フミ子さんを思い出した。
経理部のお局でもある彼女は、通称ソロバンのおフミ。
計算機世代の若い部下の誰より仕事が速い。
ナナにも、ぜひ彼女を目指してもらおうじゃない。
あそこまで貫禄はつかなくていいけどね。
私は社長の領収書を持っていった時に、ずいぶん色々付き返され、粘ろうとしても彼女から立ち上るオーラというか迫力に負けて退散したものだった。
後で聞くと、社長自身も彼女が怖くて私に持って行かせてたらしい。
「こんな小さな子どもの玩具のようなものが、ですか?」
「子どもでも使える、ということよ。だから彼女はきっと強力な助っ人になるわ。それに信用が置ける。そうでしょ?」
彼女の肩に手を置いた私は、次にユリウスに目をやった。
「そしてもうひとつ」
「この娘はまだ何か隠し球を持ってるのか?」
「ユリウスに仕事に集中してもらうためよ。ナナがいればカイルが席を外しても二人きりにならないでしょ?」
「それは名案だ、彼女の席を作らないといけないな」
「おい、そこかよ。そこで納得するのかよ」
「ユカ様、ナナは王子とのお邪魔虫にはなりたくないのです」
二人きりのチャンスがなどと頭を抱えぶつぶつ言うユリウスと、お邪魔虫というポジションにショックを受け固まるナナを放置し、私とカイルは書類の山が出来ている一角の空き机、をナナが使えるように準備する。
皆と机を並べるのは緊張して仕事が手につかないという彼女のために、入り口の側に置た。
ついでに来客の対応もしてもらおう。
廊下にはユリウスの護衛が常に立っているが、彼らはあくまでも護衛が任務。
ちなみにここにいる時私の護衛達は必要ないのでと休んだり訓練など好きに時間を使ってもらっている。
「彼女なら立場的に問題ありませんし、使える人材が増えて私も嬉しいですよ。何より目の前でいちゃつかれなくて済む」
最後の言葉に力を入れ笑みを浮かべるカイルに、私も負けじと唇の端を吊り上げた。
「そうよ、皆しっかり仕事に打ち込まなくっちゃ、ね」




