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ビタミンη

作者: ミレニアムミトコンドリアコンドミニアム
掲載日:2026/06/20

雨が降ってきた。狭い間取りには女が洗濯物を取り込む姿が筒抜けである。


男は借りた便所から出てくると、テレビ画面に映るパドックと、女がかごに衣類を放り込むのを交互に見比べて畳に座った。


「納戸に座布団があるでしょう」


言われた方向へ視線を送ると、引き戸に紫と青の紫陽花の絵が描いてあって、そこを開けると、樟脳の匂いのする四角い座布団が二つ折りにして収まっていた。


昨夜の記憶では、じゃが芋の皮がついたままで入れられたカレーを食べたから、キッチンを見渡すと鍋が置いてあって、蓋を開けると透き通った味噌汁が満ちていた。


蓋の内側について凝縮した水気がポタポタと垂れると、コンロにシミができていく。

黒い表面が水滴を吸収してさらに黒くなる。男は慌てて蓋を元の位置に戻した。


「ぐっすり寝とったね。あんなに遅くにやって来たから、仕方ないわな。ポットのお湯沸いてるから、温かいお茶でも飲んだら?」


女が窓を閉めてカーテンを引くと、部屋は薄暗くなった。

カーテンの裾がゆらゆらと揺れていて、男は何だか落ち着かない気分になった。


急須に茶筒から茶葉をパラパラと振り入れると、お湯を入れてしばらく蒸らし、女は手際よく湯飲みに注いでいく。

テレビ台に置かれたティッシュ箱は猫のキャラクターの布地に覆われていて、縫い目がほつれて糸が出ている。


男はくしゃみをティッシュで抑えて、鼻を拭ってゴミ箱に捨てると、湯気の立っているお茶を口に含んでため息をついた。


いつの間にかチャンネルが変わっていて、女が好きなのだろうか、バラエティ番組の司会者が何か告げる度に女は肩を細かく震わせて微笑んだ。


「世界一周ってどのくらいかかるのん」


男は直ちに質問を咀嚼することはできなかった。

考えたこともなかった。

世界一周の世界というのはどのコースを回ることなのかとか、時間ではなくて距離、あるいは金額のことを示しているのかとか、そういった疑問が次から次へと溢れてきて、黙っていることにも耐え難く、頭を掻いて顔をしかめるくらいしかなかった。


「行ってみたいわあ」


テンポ良く折り畳まれていくズボンや靴下がどんどん女の脇に積まれていく。

ひと口もつけていない女とは裏腹に、男は二杯目のお茶を啜っている。


ガラス張りの戸棚を見ると、女が図書館から借りてきた本の中に、世界遺産検定の文字を認めた。

立ち上がり男はその本を手に取ると、存外に分厚いことに驚くとともに、表紙をめくると文字の細かさにさらに怖気づいた。


男は難しいことは得意ではなかった。

それは自分が難しいと思ったことはとことんできないためだった。

誰にでも当てはまることだとしても、男はその傾向が強いと自認していた。


恐る恐る本を読み進めると、エジプトの河に建設されるダムの底に沈んでしまうはずだった遺跡の写真が出てくる。

昔の人々が作ったものを、後世の子孫たちが協力して移動させたということらしかった。


「これ、映画で見たことあるかも知れん」


どれ?と女が言うから、男は立ったまま本を反対側に向ける。すると、ああ、それな、と女は目を見開いて、なんやったっけ、首を傾げた。


それから男と女は肩を並べて本を読んだ。

男は初めて女がイタリアに興味があることを知った。

長靴の形をしている国なんだよ、と言われてみたものの、男は地図からイタリアを見つけ出すのに時間がかかった。

それでも女に見守られながら世界を見渡すのは心地が良かった。


雨樋を流れる水の音もやがて止んで、二人で散歩に出ることにした。

念のために傘を携えて、できたての水溜りをかわりばんこに飛び越えた。

あの雲の形はマチュ・ピチュに似ているとか、駅前の公園はコロッセオとそっくりだとか、覚えたばかりの遺産たちを、目の前の景色についつい重ねずにはいられない。


通い慣れた散歩コースが、少しだけ特別になった気がした。

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