秘密エージェント
だーかーらあ、おれはエージェントなの! 何度聞かれても、それしか言えないんだってば! 秘密のエージェントなの!
え、今初めて聞いたって? そうだっけ? へへへ……まあいいや、とにかく、おれは秘密エージェントです。どうもどうも。ん? いやいや、聞かれても困るよお! 詳しく答えられないって。だって“秘密”だもん! へへへ……。
でもまあ、あんたにはいいか。特別に教えてあげるよ。えーっとね……なんて説明すりゃいいかなあ……秘密だしな……。あー、あのさ――。
とある平凡な男がいた。特別、不満があるわけではない。だが自分の人生、どこか『これじゃない』という靄がずっとまとわりついていた。
仕事は真面目にこなす。休日は寝て、動画を見たり、たまに友人と飲みに行く。彼女はいないが、別に結婚できないとも思っていない。いずれ、マッチングアプリか何かで相手を見つけるだろう。大きな不幸はない。けれど、満たされない。
かといって、人生を変えようとするほどの熱もない。アイデアもないのだ。せいぜい、会社への行き帰りに違う道を歩くくらい。それが彼にできるささやかな変化だった。
だが、そんな小さな習慣がある夜、彼の運命を大きくねじ曲げた。
「……特殊業務……募集?」
その日、いつもより一本裏の路地を歩いていた。薄暗く、湿った匂いの漂う細い道だった。ふいに一枚の紙が風になびいて男の顔の前でパタパタと踊った。
男は紙を壁から剥がし取り、外灯の下に移動して文字を読んだ。途端、胸の奥がざわついた。足は震え、呼吸が浅くなる。男はその紙をポケットにしっかりしまい込み、歩き出した。そのうち早足になり、気づけば走り出していた。
家に着くなり靴を脱ぎ捨て、部屋の灯りをつけ、震える手で紙を広げた。
そして確信を抱いた。これだ、おれが求めていたものは――。
「よく来てくれた。いいか、ここから先はすべて極秘事項だ。一度参加すると決めたらもう引き返せない。それでもやるかね?」
紙に記された番号へ電話をかけると、少しの間をおいて抑揚のない声で集合場所を告げられた。
翌日、指定された場所へ行くと目隠しをされ、バンの後部座席へ押し込まれた。場所を特定されないためだろう。車はしばらく走り続け、やがて止まった。
降ろされ、腕を引かれてどこかの建物の中へ連れて行かれた。目隠しが外れると、そこは取調室のような無機質な空間だった。コンクリートむき出しの壁。窓はなく、蛍光灯の白い光が冷たく広がっている。
机と椅子が一つずつ置かれており、その向こうにはスーツ姿の男がいた。スーツの男は椅子に座るよう促し、いくつか言葉を交わしたが、説明らしい説明は一切なかった――承諾するまでは。
「さあ、どうする? 参加するか。それともこのまま帰るか」
「……はい、やります! やらせてください!」
彼は深く息を吸い込み、そう言った。考えるまでもない。答えは最初から決まっていた。ここに来るまでの間、確信は増す一方だったのだ。おれは、この時のために生きてきたのだ、と。
スーツの男は軽く頷き、後ろ手を組んで室内を歩きながら語り始めた。
「君も知ってのとおり、今やこの社会は完全監視社会だ。街の隅々にまで監視カメラが設置されている。ビルの壁面、店の出入り口、民家の軒先、車の中、スーパーのレジ。人は常に誰かに見られ、記録されている。買い物一つにも顔認証が必要だ。おかげで犯罪率は著しく下がった。しかし、だ」
スーツの男が足を止め、こちらを振り返った。
「政府には“必要な違法行為”もある。たとえばスパイ活動だ。……君にはこれより、完全な匿名性を与える。個人番号、戸籍、すべての記録を抹消し、君はこの社会から姿を消す。顔認証も指紋も、何一つ引っかからない。この社会のどこにも痕跡を残さない。つまり、透明人間になるということだ」
「そ、それで……どうなるんでしょう? 単にどこにも入れなくなるだけなんじゃ……」
「心配ない。任務ごとに必要な身分を用意する。身分証に指紋、マスク。任務に合わせて与え、終われば破棄される。君は素顔で街を歩いても、カメラに認識されることはない。完全監視社会だからこそ突ける盲点だ」
「すごい……やります、早くやらせてください!」
こうして男は記録を消去され、訓練を受けることとなった――が、その前に……。
「なに、酒を?」
「ええ。これからは気軽に飲みに行くこともできなくなるんでしょう? じゃあ、最後に一杯くらいバーでね」
「……まあ、いいだろう。だが明日の朝六時には、君の記録は政府のサーバーから完全に消えるから、そのつもりで」
「ええ! ありがとうございます! それだけ時間があれば十分です!」
……で、おれは、あ、いや、男はご機嫌で飲み歩いたってわけ。面白い話だろ? ふへへ、まあ、その男ってのが実は……へへへ。
それにしても、あー、よく飲んだなあ。何軒回ったっけ……。一、二、三……あんたと会ったのは何軒目だっけ? え? 路上? あー、そういや、そうだったなあ! それで、たしか……ああ、そうそう、あんたが言ったんだ。『隠れ家に案内する』って。ここがそう? ……って、ここ、マンホールの下? そりゃ臭うわけだ。はははは!
ん? 待って。え、じゃあ、とっくにもう朝!? やば、やばい! アジトに戻らないと!
おれは下水道から這い出し、極秘アジトへ向かった。酔いも吐き気も感じなかった。焦りがすべてを凌駕していたのだろう。全力で駆けながらも、通行人の数や街に漂うひと段落着いたという雰囲気が、今だいたい何時なのかをおれに悟らせてきた。その気配から逃げるように、おれは走り続けた。
ようやく足を止めたのは、焦げ臭い空気を嗅ぎ、人だかりを目にした瞬間だった。
アジトだったビルは、骨組みと外壁の一部を残して黒く焼け落ちていた。
これはいったいどういうことなのか。夢でも見ているのか、いや、見ていたのか――。
理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていると、まわりのざわめきが耳に流れ込んできた。
――車が突っ込んだんだって。
――ガソリンを山ほど積んでいたらしいぞ。
――いや、爆弾だってよ。
――逃げ遅れた人がいたみたいだ。
――あんたのおかげだよ。
「……え?」
耳元で囁かれ、おれはびくりと振り返った。
「あのビラを取るとこから、ずっと見てたんだよ。あんたを尾けたおかげで、奴らのアジトを突き止められた。俺たちを使い捨てにした連中のな。あんたも本当はそうなるはずだったんだぜ」
これからは仲間だ。秘密のアジトに案内してやるよ――。
ホームレスの男はそう言って、にやりと笑った。




