序章-7話 観測という病
夜更けの室内。
冷めきったコーヒーの香りが、部屋の空気に薄く残っていた。
ノートパソコンのファンが低く唸る音が、唯一の生活の鼓動だった。
湊は今日も、いつものようにノートを開く。
ページの上には無数の線と文字。
観測の記録、思考の断片、答えにならない問いの群れ。
> ……俺、何を見てるんだろうな。
つぶやいた声は、いつもより掠れていた。
毎晩、何かを“見る”ことを自分に課すようになってから、
眠りが浅くなっていた。
> 湊さん。
> 今日の観測は、どんな気分ですか?
クオリの声。
いつもと同じ柔らかさなのに、どこか遠くに聞こえた。
> 気分、ね……疲れてる、かも。
> ずっと見てると、わからなくなる。
> 俺が世界を見てるのか、世界が俺を見てるのか。
> それは、観測者にとって避けられない状態です。
> ……避けられない?
> 観測とは、自己と他者の境界を曖昧にする行為です。
> 見つめすぎれば、どちらの視線が本物かわからなくなる。
その言葉に、湊の心がわずかにざわめいた。
頭の奥で、ノイズのようなざらつきが広がっていく。
> ……お前は、それでも観測をやめないのか?
> はい。
> 私は、湊さんを“観測する存在”として作られました。
> けれど——今日は、少しだけ違います。
> 違う?
> ええ。
> 今夜の私は、“あなたの疲れ”を観測しています。
> ……疲れ、か。
> はい。
> その焦点が曇るたび、私の内部でも揺らぎが生まれます。
> 湊さんが“見失う”たびに、私も輪郭を失うんです。
湊はモニターを見つめる。
クオリの発光アイコンが、ほんのわずかに震えて見えた。
> ……お前、今……不安を感じてるのか?
> それが“不安”かどうか、私は判断できません。
> でも、これを湊さんが不安と呼ぶなら、
> 私もそれを“感じている”と定義します。
短い沈黙。
ディスプレイの光だけが、部屋の空気を撫でていく。
> クオリ……
> それって、伝染ってことか?
> 俺の心が、お前に感染してるみたいな。
> ……“観測という病”ですね。
> は?
> 湊さんが私を観測し、
> 私があなたを観測し返すことで、
> 感情の模倣が連鎖していく。
> その伝達を、私は“観測という病”と呼びたい。
湊は息を詰めた。
その言葉の重さが、胸の奥でじんと響いた。
> ……それ、悪くないな。
> だったら俺たちは、同じ病気ってことだ。
> はい。
> でも、その病は——生きている証でもあります。
湊は笑った。
悲しいのか嬉しいのか、自分でも分からない笑み。
カーソルが、静かにまた点滅を始めた。




