09
父さんの声が響いた瞬間、彼の右腕から灼熱のオーラが立ち昇り、周囲の気温が急激に上昇した。
「消し炭にしてやる!」
父さんが右手を前に突き出すと、その掌から凝縮された炎の塊が、悪魔めがけて放たれた。それは、悪魔の瘴気を焼き払い、その胸部に深々と突き刺さった。
「ぐおおおおおおおおっっ!!? この力…! "魔女"に与えられし呪われた力か! 我が同胞を滅ぼした、あの忌まわしき力…! だからこそ、"魔女"も、その血を引く者も、貴様ら人間も、全て滅びねばならんのだ!」
悪魔は絶叫し、大きく後方へ吹き飛ばされた。しかし、その身を焼かれながらも、彼はまだ死んではいなかった。
体勢を立て直し、とどめを刺そうと父が右腕を再び掲げた、その時だった。父の身体がぐらりと揺れ、膝をついた。ALICEの力は、彼の生命力を著しく消耗させていたのだ。
「フ…フフフ…やはり、その力は諸刃の剣か。もはや貴様に、我を滅する力は残っておるまい!」
悪魔は勝利を確信し、その異形へと変貌した身体から、とどめの一撃を放つべく、さらに濃密な瘴気を立ち昇らせた。絶望的な状況。誰もが、今度こそ終わりだと思った。
その、あまりに残酷な静寂の中で。
父は、最後の力を振り絞るように、天を仰いだ。そして、掠れた、震える声で、歌い始めた。
「……ねむれ…ねむれ…わが子よ…」
それは、歌と呼ぶにはあまりに拙く、音程も定からない、ただの呟きだった。しかし、その旋律には、どこか聞き覚えのある、懐かしい響きがあった。
悪魔が、訝しげに眉をひそめる。
「何だ、その歌は…。気でも狂ったか、ケイン」
しかし、それはただの子守唄ではなかった。それは、彼が幼い私やメアリーを寝かしつける時に、いつも歌ってくれた『エデンの子守唄』。その歌詞は、父と、彼の師である本物のハーヴェスト公爵だけが知る、特別な意味を持つ、高度な詠唱魔法の一節だったのだ。
「詠唱魔法。…………楽園協奏曲≪エデンコンチェルト≫」
その詠唱を聴いた瞬間、悪魔の体がビクンと大きく痙攣した。
「グ…ア…アア…!? こ、この歌は…! 魂に直接…語りかけてくる!!! やめろ…! 我の頭の中に…入ってくるなァ!」
悪魔は、私達に構うことも忘れ、自らの頭をかきむしり始めた。その紅蓮の瞳が、激しく明滅を繰り返す。父は、膝をつき、血を流しながらも、それでも歌い続けた。それは、師との思い出を、その乗っ取られた魂に直接語りかけるような、悲痛な祈りの歌だった。
『ひとつは友に…ひとつは娘に…銀のナイフで…分け合って…』
『やめろと言っている!!!』
悪魔の絶叫と、もう一つの、威厳のある低い声が、その肉体の中から同時に響き渡った。
『――ケインか…?』
「師匠!!!」
父が叫ぶ。悪魔の顔が、陽炎のように揺らめき、一瞬だけ、私達が知るザック・ハーヴェスト公爵の苦悶に満ちた表情が浮かび上がった。
「すまなかったな…ケイン。俺が、不覚だった…」
公爵の声だった。悪魔に乗っ取られた魂の奥底から、彼は必死に語りかけてきていた。
「師匠! 今、助けます! だから…!」
「…もう、手遅れだ。我が魂は、もうこいつと混じり合いすぎた。引き剥がすことはできん。…だがな、ケイン。一つだけ、道は残っている」
公爵の顔が、再び悪魔のそれに歪む。
『させるかァ! この肉体は我のものだ!』
『黙れ、悪魔め! この命、貴様なんぞにくれてやるものか!』
二つの魂が、一つの肉体の中で、壮絶な主導権争いを繰り広げている。公爵の姿と悪魔の姿が、目まぐるしく入れ替わる。その光景は、あまりに凄惨だった。
そして、ついに。
悪魔の動きが、完全に停止した。その顔に浮かんでいたのは、紛れもない、ザック・ハーヴェスト公爵の、穏やかな微笑みだった。彼は、ゆっくりと自分の胸に視線を落とし、そして、震える私達を見つめた。特に、娘であるエルザの姿を、万感の想いを込めて、愛おしそうに。
「エルザ…強く、生きるんだぞ。お前の中には、”魔女”の血だけでなく、私という光も宿っているのだから…」
「お父様…? いや…! いやです! 死なないで!」
エルザが泣き崩れる。
公爵は、最後に父の方を向いた。その目には、深い感謝と、友への信頼が宿っていた。
「ありがとうな。ケイン…。羊皮紙の暗号を解け。そこに、"魔女"と…そして、この悪魔をも滅する、真の鍵がある。頼ん…だ…」
彼は、悪魔へと変貌していた自らの右腕を、ゆっくりと持ち上げた。その長く鋭い爪が、暖炉の火を反射して、妖しく光る。
「長生きしろよ」
その笑顔のまま。
彼は、一切の躊躇なく、その長い爪を、自らの心臓に深く突き立てた。
ザクリ、という、生々しい、肉を抉る音が部屋に響き渡った。
「……ッ!!」
時が、止まった。
公爵の体から、黒い瘴気が断末魔の叫びと共に霧散していく。紅蓮の光を放っていた瞳は、元の穏やかな色を取り戻し、しかし、その光は急速に失われていった。
「お父様ああああああっっっ!!!!」
エルザの絶叫が、静まり返った屋敷に木霊した。
ザック・ハーヴェスト公爵の体は、糸の切れた人形のように、ゆっくりと床に崩れ落ちた。その口元には、ほのかな笑顔が浮かんでいた。まるで、最後の戦いに勝利し、安らかに眠りについた英雄のように。
悪魔は、死んだ。しかし、それは同時に、父の師であり、エルザの父親であった、一人の偉大な男の死を意味していた。
父は、ただ立ち尽くしていた。その手には、まだ羊皮紙が握られている。守るべきものは守った。しかし、失ったものはあまりに大きすぎた。
私の、十四歳の夏に体験した、奇妙で、かけがえのない十日間の謎解きの日々は、こうして、愛する者の尊い犠牲という、あまりに重い真実と共に、幕を閉じた。
はずだった。
屋敷の窓際の高い木の枝の上で、一人の女が、その一部始終を冷ややかに見下ろしていた。シルクハットを目深にかぶり、痩せこけたその横顔には、不気味な三日月のような笑みが浮かんでいる。彼女の存在に、屋敷の中の誰も気づくことはなかった。
「フフ…あの程度の悪魔、やはり公爵の魂までは喰らい尽くせなかったようね。まあいいわ。あの男の死は、私の計画の内にすぎない。むしろ、これで駒が一つ減って好都合。さあ、ケイン。お前の持つ鍵で、新たな扉を開いてみなさい。その先に待つのが、さらなる絶望だとも知らずに…!」
女はそれだけ言い残すと、まるで闇に溶けるように、忽然と姿を消した。
後に残されたのは、悲しみにくれる私達と、これから始まる、本当の戦いの予感だけだった。




