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08

悪魔の声は、先ほどまでの激情が嘘のように、絶対零度の冷ややかさに満ちていた。

「……メアリーッ!」

父の動きが、完全に止まった。その顔から血の気が引き、"狩人"としての鋭い光が消え失せ、ただ娘の身を案じる、無力な父親の顔に戻っていた。

「おのれ…! 卑怯だぞ!」エリュガードが怒りに震えるが、下手に動けない。

「卑怯? ククク…これが我らのやり方よ。最も効果的な手段を選ぶ。それだけのことだ」悪魔は、メアリーの耳元で囁いた。「良い匂いがするなァ、小娘。恐怖に染まった魂の匂いだ。姉も美味そうだが、まずはお前から喰ってやろうか?」

「いやあああ! お父さあん!」

メアリーが泣き叫ぶ。その声が、父の心を抉った。彼は、ゆっくりと狩猟刀と十字架を床に置くと、両手を上げて完全な降伏の意思表示をした。

「分かった…! 娘には手を出すな。俺の命でよければ、くれてやる。だから、その子を…!」

「命乞いか? つまらんな」悪魔はせせら笑った。「だが、ただ死ぬだけでは芸がない。貴様には、最高の絶望を味わってもらわねばな。貴様が最も恐れるものを、見せてやろう」

悪魔の紅蓮の瞳が、妖しく輝いた。その瞬間、私の目の前の光景が、ぐにゃりと歪んだ。豪華だったはずの談話室が、見慣れた、しかし今はもう存在しないはずの、辺境の村の我が家のリビングへと変わっていく。

「これは…」

父が息を呑む。目の前には、八年前の、あの日の光景が広がっていた。若き日の父、そして、私の記憶の中におぼろげに残る、母・エリーの姿。彼女は大きなお腹を抱え、幸せそうに微笑んでいる。

『あなた、無理はしないで。もうすぐ生まれるのだから』 『大丈夫だ、エリー。お前と、この子のために、俺はなんだってできる』

幸せな夫婦の会話。しかし、次の瞬間、窓ガラスがけたたましい音を立てて砕け散り、そこから燃えるような赤い髪の女勇者が、聖剣を携えて飛び込んできた。

「やめろ…やめろォォォ!!」

父が絶叫する。これは幻術だ。悪魔が見せている、父の心を折るための、最も残酷な記憶の再現。しかし、理屈では分かっていても、目の前で繰り広げられる惨劇に、身体が動かなかった。

女勇者の剣が、無慈悲に母の胸を貫く。鮮血が、白いリリーの花びらのように、床に飛び散った。

『エリーーーーーーッッ!!!』

若き父の絶叫が、私の鼓膜を突き刺す。

「どうだ、ケイン。何度味わっても、己の無力さを噛み締める味は、格別だろう?」悪魔が、うっとりと囁く。

父は、膝から崩れ落ち、頭を抱えて呻いている。その心は、完全に折られかけていた。

だが、その時だった。

「下らねえ手品に、いつまで付き合ってやがる!!」

エリュガードの怒声が、幻術に支配された空気を引き裂いた。彼は、食卓用のナイフを悪魔の顔めがけて投げつけ、その隙に床を蹴って肉薄していた。悪魔は咄嗟に首を傾けてナイフを躱すが、その頬を浅く切り裂き、黒い血が流れた。

「ちぃっ!」

悪魔の集中が乱れ、幻術が陽炎のように消え失せ、談話室の光景が戻ってくる。エリュガードは止まらない。彼は悪魔の懐に潜り込むと、もう一本のナイフで、その脇腹を深く抉った。

「グアッ!?」

「お父様!」

エルザもまた、父の惨状と悪魔の非道に、迷いを振り払っていた。彼女は杖を構え、騎士団で習得したであろう、神聖な光を放つ防御結界を展開し、私達の前に立ちはだかる。

「父の体を弄び、父の名を騙る外道め! このハーヴェストの名において、あなたを断罪します!」

彼女の杖から放たれた光の槍が、悪魔の肩を貫いた。正規の訓練を受けた者の、揺るぎない魔力。それは、父の荒々しい力とはまた違う、洗練された強さだった。

悪魔は、エリュガードとエルザの連携攻撃に、一瞬たたらを踏んだ。その隙に、私は恐怖を振り払い、泣きじゃくるメアリーの手を引いて、父の元へと駆け寄った。

「お父さん! しっかりして!」

「…シャーナ…」

「幻だよ! あんなの、全部嘘だよ!」

そうだ。嘘だ。でも、本当に? あの光景は、本当にただの幻だったのだろうか。私の知らない、父と母の過去に、本当にあんなことが…。

私が混乱していると、体勢を立て直した悪魔が、その怒りを爆発させた。

「小僧も小娘も、まとめて塵にしてくれるわァ!!」

悪魔の体から、先ほどとは比べ物にならないほどの、濃密な瘴気が噴き出した。それは、もはや単なるオーラではない。物理的な質量を持ったかのように、床を削り、壁をひび割れさせていく。

「危ない!」

エルザが防御結界の強度を最大まで上げるが、悪魔の放った瘴気の波は、その光の壁をいとも容易く粉々に砕き、私達へと殺到した。

もうダメだ。そう思った瞬間。

私の身体の内側から、何か温かいものが、奔流のように溢れ出した。自分でも意図しないまま、私は両手を前に突き出していた。私の手のひらから、柔らかな、しかし何者にも砕くことのできない、黄金色の光の障壁が展開される。

ドゴォォォン!!!

瘴気の波が、私の障壁に激突し、凄まじい衝撃と轟音を生んだ。障壁は激しくきしみ、ひびが入る。でも、砕けない。私の背後で、メアリーが、エリュガードが、エルザが、そして父さんが、私を見ている。守らなければ。その一心だけが、私の魔法を支えていた。

「な…!? その力は…!?」

悪魔が、初めて驚愕の声を上げた。その一瞬の隙を、父が見逃すはずがなかった。

「よくやった、シャーナ…!」

父は、よろめきながら立ち上がっていた。その顔は、もはや絶望に染まってはいなかった。娘の成長を目の当たりにした、父親としての誇りと、そして、愛する者たちを傷つけられた、"狩人"としての絶対的な怒りに燃えていた。

「もう、貴様の茶番には付き合わん」

父さんの右目が、カッと見開かれた。その瞳は、まるで太陽そのものが宿ったかのように、燃えるような黄金色に輝いていた。彼の眉間から、黒い血液が、まるで涙のように幾筋も流れ落ちる。

「血契夢境"ALICE"…」

それは、術者の生命と血液を代償に、世界の理を書き換える禁忌の瞳術。父は、その力を長年封印していたのだ。

「――"焔ノ陽炎ほむらのかげろう"」


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