表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/16

07

その瞬間、談話室の空気が凍った。

公爵の顔から、笑みが消えた。いや、消えたのではない。その形を、ゆっくりと変えたのだ。歪で、底知れない愉悦に満ちた嘲笑へと。

「…なんのことかな? ケイン。長旅で疲れているのではないかね」

「とぼけるな」父さんは、懐からあのボロボロになった検死報告書をテーブルに叩きつけた。「昨夜、少々骨を折って、これを拝借してきた。お前のドッペルゲンガーの心臓は、悪魔に魂を喰われたそうだな。お前が、本物のハーヴェスト公爵を殺し、その魂を喰らったんだろう?」

偽の公爵は、肩をすくめた。

「クク…ククク…アハハハハハハハハハ!」

甲高い、耳障りな、狂気に満ちた笑い声が、部屋中に響き渡った。公爵の姿が、陽炎のように揺らめき始める。その瞳は、もはや知性的な人間のそれではなく、地獄の業火を宿したかのような、燃えるような紅蓮の光を放っていた。

「気づくのが遅すぎたなァ、ケイン! 十日間も猶予をくれてやったというのに! まったく、出来損ないはいつまで経っても出来損ないよ!」

声色も、口調も、もはやハーヴェスト公爵のものではなかった。

「き、さま…! いったい何者だ!」

偽物の公爵――その正体である悪魔は、心底楽しそうに唇を舐めずりした。

「我がか? 我は、"魔女"が憎くてたまらない、ただの悪魔よ。我が偉大なる主の復活を邪魔する、ハーヴェストの血筋が、鬱陶しくてならなかっただけだ」

彼は、絶望に顔を染めるエルザを一瞥した。

「この娘の魂は、極上の味がするだろうなァ。"魔女"の血を引く、最後の器だからなァ。それを根絶やしにするためならば、公爵の一人や二人、喜んで喰らってやるともよ」

悪魔の体から、黒い瘴気がゆらりと立ち上る。圧倒的な力の差。私達は、まんまと悪魔の巣に、自ら誘い込まれたのだ。

「そしてケイン。お前が持つ、その古びた羊皮紙…。それこそ、我が主が探し求める、この世界を絶望に染め上げるための、最後の鍵よこせ」

悪魔は、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。

父が私達の前に立ちはだかり、命を賭して時間を稼ごうとするのが分かった。しかし、もう逃げ場はない。

ささやかな幸せを願っただけの私達の日常は、こうして、本物の絶望によって、完全に喰らい尽くされようとしていた。

...父が私達の前に立ちはだかり、命を賭して時間を稼ごうとするのが分かった。しかし、もう逃げ場はない。

ささやかな幸せを願っただけの私達の日常は、こうして、本物の絶望によって、完全に喰らい尽くされようとしていた。

悪魔は、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。その指先が、空間そのものを歪ませていくのが見えた。だが、その冒涜的な力が私達に届くよりも早く、父が動いた。

「シャーナ! エリュガード! メアリーとエルザ嬢を連れて下がっていろ!」

父の言葉が、悪魔の嘲笑によって打ち砕かれる。「下がってどこへ行くというのだ? この屋敷は、もはや我が胎内。貴様らは、我が晩餐の皿に載せられた、哀れな子羊に過ぎん!」

その言葉を証明するかのように、談話室の豪奢な調度品が、まるで悪夢の一場面のように命を吹き込まれた。重厚なオーク材のテーブルが蜘蛛のような足を生やして床を走り、壁に飾られていた鹿の剥製の首がぎろりとこちらを睨みつけ、革張りのソファが巨大な口のように開いて私達を飲み込もうと迫ってくる。

「ホォ…? やる気か、人間。この我を相手に。面白い。存分に足掻いてみせよ。貴様の絶望が、この娘の魂をより一層美味くする!」

悪魔が指を鳴らすと、家具たちが一斉に牙を剥く獣と化し、私達に襲いかかってきた。

「させるかァッ!」

父が右手を前に突き出す。詠唱はない。ただ、圧倒的な意志の力だけで、彼の前に不可視の障壁が展開された。猛然と突進してきたテーブルや椅子が、見えない壁に激突し、けたたましい音を立てて砕け散る。しかし、父の額にはたちまち汗が滲み、その足は床に深くめり込んでいた。悪魔の力は、あまりに強大すぎた。

「ケインさん! 魔法だけが能じゃねえだろう!」

障壁の向こうから、エリュガードが叫んだ。彼の両手には、いつの間にか食卓用のナイフが二本、逆手に握られている。その言葉に、父はハッと我に返った。そうだ、彼は魔法使いである前に、狩人なのだ。

「すまんな、エリュガード! シャーナ、メアリーを頼む!」

父は障壁の維持を解くと同時に、床を蹴った。悪魔が操る家具の隙間を、まるで流れる水のように、あるいは森を駆ける影のようにすり抜けていく。その動きは、もはや常人のそれではない。長年の経験によって磨き上げられた、獣を狩るための、究極の体捌きだった。

「小賢しい!」

悪魔が腕を振るうと、黒い瘴気が黒蛇のように形を変え、鞭となって父を襲う。しかし、父はそれを最小限の動きで躱し、着実に悪魔との距離を詰めていく。懐に潜り込みさえすれば、勝機はある。悪魔自身も、この肉体が元はただの人間であり、物理的な脆弱性を抱えていることを知っているはずだ。

父は、滑り込んできたダイニングテーブルの天板を駆け上がると、その勢いのまま宙を舞い、悪魔の死角である背後へと回り込んだ。そして、腰に下げていた狩猟刀を抜き放ち、アキレス腱めがけて閃光のような一撃を放つ。

「グッ…!?」

悪魔が、初めて明確な苦悶の声を上げた。肉体を乗っ取っていても、物理的な損傷による痛みは避けられないらしい。体勢を崩した悪魔に、父は追撃の手を緩めない。心臓、喉、眉間。人体の急所を的確に、かつ一切の躊躇なく、無慈悲に狙い続ける。それは、もはや剣術ではなく、解体術に近い、効率化された殺しのための動きだった。

「この…虫ケラがァァァ!!!」

逆上した悪魔が、その身から全方位に漆黒の衝撃波を放った。私達は壁まで吹き飛ばされ、父も体勢を崩して後方へ跳ぶ。だが、その顔には確かな手応えがあった。

「どうした、悪魔。その程度か? それとも、我が師の体を、まだ完全には使いこなせていないだけか?」

父の冷静な挑発に、悪魔の理性が焼き切れた。

「黙れ黙れ黙れェ! 人間風情が、我を語るなァ!」

悪魔の体から、さらに濃密な瘴気が噴き出す。もはやハーヴェスト公爵の面影はなく、その姿は異形の怪物へと変貌しつつあった。指先が黒く鋭い爪へと変わり、肩からは山羊のような捻じくれた角が生え、そして背中からは、蝙蝠を思わせる禍々しい翼が、肉を突き破って生え始めた。

「まずい…! あいつ、完全に肉体を支配する気だ!」

父の顔に焦りの色が浮かぶ。完全に悪魔本来の姿となれば、物理攻撃も通じなくなるかもしれない。そうなれば万事休すだ。

「決める…!」

父は覚悟を決めた。懐から、銀に輝く小さな十字架を取り出す。それは、神聖な魔力を帯びた、対魔族用の切り札だった。しかし、これに全魔力を込めて起動させるには、ほんの一瞬、全神経を集中させる必要があり、無防備になる。

父が悪魔の隙を窺い、全魔力を十字架に込めようとした、まさにその刹那だった。

「――ヒッ!」

悲鳴は、私の隣にいたメアリーのものだった。

悪魔の姿が、一瞬でメアリーの背後に移動していた。その黒く長い爪が、メアリーの細い首筋に、冷たく突きつけられている。

「動くな、ケイン」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ