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第七章:深夜の潜入と疑念の渦
エルザの言葉は、静かな書斎に投げ込まれた爆弾だった。
二つの手がかりは、互いに矛盾し、絡み合い、私達の頭の中を混乱の渦に陥れた。公爵の推理通り、ドッペルゲンガーが父に警告を送ろうとしていたのだとすれば、なぜわざわざ公爵の名前を隠す必要があったのか。
屋敷の空気は、その日から鉛のように重くなった。
父さんは、自室にこもって考え込む時間が増えた。机の上には、公爵から受け取った羊皮紙の暗号文と、ドッペルゲンガーの警告文のメモが並べられている。師であり、命の恩人でもある公爵への信頼と、その公爵への疑念を煽るような謎のメッセージ。二つの情報が、彼の頭の中で激しく衝突していた。
滞在六日目の夜、私は父の部屋を訪ねた。ランプの灯りに照らされた父さんの目は、ひどく淀んでいた。
「…何もかもが、分からん。殿下は、この羊皮紙が”魔女”を封じるための秘宝のありかを示していると言った。だが、ドッペルゲンガーは、俺に警告を残した。そして、奴の遺品には殿下の名前が…まるで、殿下自身が危険だとでも言うように…」
その言葉に、私の頭の中で、これまで感じていたいくつもの小さな違和感が、一つの形を結び始めた。エリュガードの忠告、メアリーの無邪気な質問、公爵自身の奇妙な言動。点と点が、繋がり始める。
「お父さん」私は、意を決して言った。「ドッペルゲンガーが残した警告文…『ヤツはニセモノ』っていうのは、ドッペルゲンガー自身のことを指してるんじゃなくて…今、私達と一緒にいる、ハーヴェスト公爵殿下のことだとしたら?」
その言葉が放たれた瞬間、父さんの顔からサッと血の気が引いた。
「馬鹿なことを言うな、シャーナ。殿下は、俺の命の恩人であり、かつての師だぞ…」
「でも、考えてみて」私は続けた。「ドッペルゲンガーは、お父さんに警告を残そうとしていた。もし彼が本当に味方だったとしたら? そして、遺品に『ザック・ハーヴェスト』の名前があった。それは、彼が『ザック・ハーヴェストこそが敵だ』と、私達に伝えたかったからじゃないの?」
父さんは、言葉を失っていた。私の突飛な仮説が、彼の長年の経験と直感の中で、無視できない一つの可能性として、急速に芽生え始めたようだった。
「…証拠が、いる」しばらくして、父さんは絞り出すように言った。「確たる証拠がなければ、殿下を疑うことなどできん」
彼は立ち上がると、窓の外の闇を見つめた。「衛兵団の検死報告書…。ドッペルゲンガーの死因が分かれば、何かが掴めるかもしれん」
「でも、どうやって?」
「俺に考えがある」父さんの目が、”狩人”の鋭さを取り戻した。「今夜、動く。シャーナ、お前はここで待っていろ」
父さんは一人で行くつもりらしかった。しかし、彼の部屋のドアが静かに開き、そこにエリュガードが立っていた。
「俺も行く」彼の声に、迷いはなかった。「二人の方が、やれることは増える。あんたが囮になって、俺が潜入する。その方が確実だろ」
父さんは一瞬ためらったが、エリュガードの真剣な瞳を見て、静かに頷いた。
その夜更け、父さんとエリュガードは闇に溶けるように屋敷を抜け出した。私とエルザ、メアリーは、ただ祈るようにして彼らの帰りを待つことしかできなかった。
衛兵団の兵舎は、街の隅の物々しい一角にあった。石造りの壁には松明が掲げられ、槍を持った歩哨が定期的に巡回している。父さんは、わざと物音を立てて歩哨の注意を引きつけ、その隙に、エリュガードが獣のような身軽さで壁を乗り越え、影から影へと飛び移って敷地内へと侵入した。
記録保管室は、兵舎の最も警備が手薄な裏手にあった。古びた南京錠を、手製の針金で器用に開ける。中はインクと古い紙の匂いで満ちていた。月明かりを頼りに、膨大な書類の山の中から「検死報告」の棚を探し出す。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
『ザック・ハーヴェスト』の名が記された報告書を見つけ出した、まさにその時だった。廊下の向こうから、複数の足音が聞こえてきた。見回りだ。エリュガードは報告書を懐にねじ込むと、咄嗟に机の下に身を隠す。
ドアが開き、二人の衛兵が入ってきた。「おい、何か物音がしなかったか?」「気のせいだろ。早く見回りを終えて一杯やろうぜ」
心臓が凍りつくような時間。衛兵たちは部屋の中をざっと見回すと、欠伸をしながら出て行った。九死に一生を得たエリュガードは、再び闇に紛れ、無事に屋敷へと帰還した。
書斎に戻った父さんとエリュガードの顔は、緊張で強張っていた。父さんが、震える手で報告書を広げる。そこに書かれていた一文を見て、その場にいた全員が息を呑んだ。
『…死因は心臓への一刺しだが、特筆すべきは心臓の状態である。臓器は毒物により、どす黒い紫色に変色。これは、古文書に記される高位の悪魔が、人間の魂を喰らった際に見られる特徴と酷似している…』
父さんは、報告書を握りしめ、わなわなと震えていた。そして、決断した。
「…エルザ嬢には、急用ができたとだけ伝えろ。事情は、後で話す。今すぐ、この屋敷から離れるんだ」
父のその決断は、私の仮説が、恐ろしい真実であったことを物語っていた。
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第八章:悪魔の正体
嵐の前の静けさのように、その日の夕食は穏やかに進んだ。偽りの公爵は、何も気づいていないかのように上機嫌でワインを嗜み、私達の輝かしい未来について語っていた。
食事が終わり、一同が暖炉のある談話室で寛いでいた、その時だった。
父さんが、静かに立ち上がった。その顔には、もう一切の迷いが消えていた。彼は、ゆっくりと、まるで舞台役者のように、暖炉の前に立つ公爵の前まで歩いていく。
「殿下」
父さんの静かな呼びかけに、公爵はにこやかに顔を上げた。「どうした、ケイン。改まって」
「長年、あなたに仕えてきました。あなたは、私が心から尊敬する、唯一無二の師でした」
父さんは、一呼吸置いた。そして、凍てつくような、しかし絶対的な確信に満ちた声で、言い放った。
「だからこそ、分かる。…お前は、ハーヴェスト公爵殿下じゃねえな?」




