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第五章:偽りの安息と調査の始まり
公爵のセーフハウスでの生活は、奇妙な均衡の上に成り立っていた。外界から完全に遮断された豪奢な屋敷は、襲撃者たちの脅威から私達を守る揺り籠であると同時に、美しい鳥籠のようでもあった。窓の外に広がるモハラの街並みは、まるで手の届かない絵画のようで、私達がもはやその日常の一部ではないことを痛感させた。
朝、昼、晩と、私達六人は律儀にダイニングの長いテーブルについた。しかし、その食卓はいつもどこか歪だった。使用人のいないこの屋敷では、食事の準備はエルザと私が中心となって行った。厨房には潤沢な食料が魔法によって保存されており、私達は村では見たこともないような食材を前に、戸惑いながらも協力して料理を作った。メアリーはその手伝いをしながら楽しそうにはしゃぎ、エリュガードは薪割りをしたり、不器用に野菜の皮を剥いたりした。父もまた、ぎこちない手つきで皿を並べた。それは、一見すればどこにでもある家族の風景だった。
ただ一人、食卓の主であるはずのハーヴェスト公爵を除いては。
彼は決して、私達が作った料理に手をつけようとはしなかった。彼の前にはいつも、年代物の赤ワインが注がれたグラスと、湯気の立つ紅茶のカップが置かれているだけ。私達が食事をする間、彼はただ黙ってワインを口に運び、時折、値踏みをするような目で私達、特にエルザを眺めているのだった。
ある日の夕食の席で、メアリーが不思議そうに首を傾げた。「ねえ、公爵様は、どうしてエルザお姉ちゃんのことを『エルザ』って呼ばないの? いつも『娘』ばっかり」
その無邪気な一言に、食卓の空気が凍りついた。公爵はワイングラスを持つ手をピタリと止め、エルザは顔を青ざめさせる。父が慌てて「メアリー、殿下は公の場ではそうお呼びになるのが慣例なのだ」と取り繕ったが、公爵の目が一瞬、不快そうに細められたのを、私とエリュガードは見逃さなかった。
昼間の時間は、それぞれのやり方で過ぎていった。父と公爵は、ほとんどの時間を書斎にこもって過ごした。扉の隙間から漏れ聞こえてくる声は、常に緊張を孕んでいた。
「…やはり、封印地点はこの龍哭山脈のどこかだ。六年前、我々が失敗したあの場所…」
「奴らの情報網は我々の想像を上回っている。内通者がいると考えた方がいい」
子供である私達は、その緊迫した議論から意図的に遠ざけられていた。エルザは、そんな私達を気遣ってか、彼女の知る様々なことを教えてくれた。特に私が心を惹かれたのは、魔法の話だった。
「魔法の根源は、世界に満ちるマナの流れを感じ、それを自分の意志の力で編み上げることにあるのよ」
エルザはそう言うと、手のひらの上に、小さな光の蝶を舞わせてみせた。その幻想的な美しさに、私とメアリーは目を輝かせた。
「シャーナさんの中にも、豊かなマナの流れを感じるわ。ただ、その流れを制御する方法を、まだ知らないだけ。少し練習すれば、きっと素晴らしい魔法が使えるようになる」
エルザは私に、マナを感じるための簡単な呼吸法や、精神集中のコツを教えてくれた。彼女の指導は的確で、数日もすると、私は自分の指先に、微かな温かいエネルギーが集まってくるのを感じられるようになった。
その一方で、父の苦悩は日に日に深まっているように見えた。夜、屋敷が静寂に包まれる頃、私は何度か、父の部屋から漏れる呻き声で目を覚ました。そっとドアの隙間から覗くと、彼はベッドの上で身を捩り、冷や汗をびっしょりとかいて悪夢にうなされていた。
「…エリー…すまない…俺が…俺があの時…」
母の名を呼び、何かを悔いるうわ言。その声はあまりに痛々しく、私は何もできずに、ただ固く拳を握りしめることしかできなかった。父は、母の死に関して、何か私達に言えない秘密を抱えている。
そして、屋敷での生活が五日目の朝を迎えた時、事態は動いた。
朝食の後、公爵が、書斎に全員を集めたのだ。重々しい空気が、部屋を支配する。テーブルの上には、一つの古びた革のトランクが、まるで不吉なオブジェのように置かれていた。
「これは、俺のドッペルゲンガーが持っていた遺品だ。衛兵団内部の協力者に、極秘に回収させた」
公爵の言葉に、空気がさらに張り詰める。父さんが息を呑んだ。
「奴は、一体何者だったのですか? 我々の仲間だったのか、それとも…」
「分からん。だが、敵であることは間違いないだろう」公爵は、忌々しげにトランクを一瞥した。「奴らは、"魔女"に与する者たちだ。この遺品の中に、奴らのアジトや目的を探る手がかりが残されているかもしれん」
トランクの中には、ありふれた旅人の所持品が、無造作に詰め込まれていた。数日分の着替え、擦り切れた数冊の本、インクの染みがついた安物の万年筆、そして鈍い銀色の光を放つ懐中時計。一見しただけでは、何一つ特別なものは見当たらない。
「手分けして調べよう」
父さんの提案で、私達はそれぞれの品を手に取った。謎解きの始まりだった。それが、私達を待ち受ける、さらなる深淵への入り口であることにも気づかずに。
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第六章:二つのメッセージと長い一日
革のトランクから放たれる、古びた匂い。私達はそれぞれの品を手に取り、そこに隠された意味を探し始めた。
メアリーは子供らしい好奇心で着替えのシャツの匂いを嗅ぎ、「変な匂いしないよ! ちょっと汗くさいだけ!」と無邪気に報告して、張り詰めた空気をほんの少しだけ和ませた。父は、そんなメアリーの頭を優しく撫でながらも、その目は専門家の鋭さで、衣服の仕立てや生地を丹念に調べていた。
私は、数冊の本を手に取った。有名な恋愛詩人が編んだ詩集と、ツングースカ王国の風景画集。ページを一枚一枚、光に透かすようにして調べていくが、何の手がかりも見当たらない。
一方、エリュガードは、銀の懐中時計を手に取り、じっと耳に当てていた。
「…おかしいな」やがて、彼が訝しげに呟いた。「この時計、針はとっくに止まってる。なのに、中から、かすかに音がするんだ。カチ、カチって音じゃねえ。もっと不規則な…何かが擦れるような、小さな音が」
彼は器用に爪を裏蓋の隙間に差し込むと、それをこじ開けた。裏蓋の内側。磨き上げられた銀の平面に、米粒ほどの大きさの、ごく小さな傷が、いくつも、まるで何かの符号のように規則的に並んでいたのだ。
「モールス信号か…?」父さんが呟き、紙とペンを取ってその符号を書き写し始めた。
その隣で、エルザは万年筆を手に取り、その構造を調べていた。
「お父様、この万年筆、インクカートリッジが妙ですわ」彼女の澄んだ声が、静かな部屋に響いた。「普通のガラス製ではありません。魔力を通しにくい、特殊な合金で作られているようです」
彼女がそのカートリッジに軽く自身の魔力を込めると、淡い青白い光を放ち、その内側に、まるで蜘蛛の糸のように微細な、螺旋状の文字が浮かび上がった。
「解読できそうか?」公爵の問いに、エルザは静かに頷いた。「時間をいただければ…これは、非常に複雑な術式で守られています。無理にこじ開ければ、中の情報は消滅してしまうでしょう」彼女はそう言うと、万年筆を両手で包み込むように持ち、目を閉じて精神集中を始めた。
それからが、苦難の始まりだった。父さんが書き出したモールス信号は、ただの『A-Z-T-H-O-T-H』という無意味な文字列にしかならなかった。
「クソッ、何なんだこれは!」父さんは苛立たしげに髪をかきむしる。
私達は、二冊の本に何かヒントがないか、それこそページの染み一つ、紙の繊維の僅かな違いまでも見つけ出そうと、何時間も格闘した。しかし、成果はゼロ。時間はただ過ぎていき、書斎の空気は焦りと疲労で重く淀んでいった。
「もうダメかもな…」夕食後、ランプの灯りの下でエリュガードが弱音を吐いた。「何かの間違いだったんじゃねえか?」
「諦めるな」父さんはそう言ったが、その声にも疲労の色は隠せない。
皆が黙り込んでしまった、その時だった。一日中退屈そうにしていたメアリーが、私達が調べていた恋愛詩集を手に取り、ソファの上で寝転がりながら、抑揚なく読み始めた。
「『あした、もし晴れたなら。ぜったいに君に会いに行こう。とおく離れていても。ほしの輝きが道を照らす。おもいではこの胸に。すべての愛を君に捧ぐ』…へんなのー」
その、あまりに無邪気な呟き。しかし、その瞬間、私と父さん、エリュガードの三人は、電撃に打たれたように顔を見合わせた。
「…メアリー、もう一度読んでくれ!」父さんが震える声で言う。
「だから、『あした、もし晴れたなら…』」
「それだ!!」
父さんの目に、閃きの光が宿った。彼は、メアリーが指さす詩のページを食い入るように見つめ、その頭文字を紙に書き出していく。
「アナグラムだ! この詩の頭文字が、解読のヒントになっているんだ!」
しかし、謎はまだ解けない。詩の頭文字と『A-Z-T-H-O-T-H』をどう組み合わせればいいのか。私達は再び頭を突き合わせ、ああでもない、こうでもないと様々な文字列を組み立てては、首を捻った。
夜が更け、皆の集中力が切れかけた時、黙って考え込んでいたエリュガードがぽつりと言った。
「なあ、ケインさん。獲物を追う時、一番大事なのは何だと思う?」
「…気配を消すことと、相手の習性を読むことだ」
「違う。俺が親父から教わったのは、『一番分かりやすい道こそ、一番の罠だ』ってことだ」彼は、紙に書かれた文字列を指さした。「俺たち、この文字列をそのまま使おうとしすぎじゃねえか? もし、これが逆だったら?」
逆。その一言が、私達の凝り固まった思考を打ち破った。父さんは、エリュガードの言葉に導かれるように、アルファベットを逆から並べ替え、詩のヒントと組み合わせていく。
そして、ついに。震えるペン先から紡ぎ出された言葉を見て、父さんの顔がみるみるうちにこわばっていった。
彼は、震える声で、その解読結果を読み上げた。
『ヤツはニセモノ カギはケイン』
部屋が、水を打ったようにしんと静まり返る。
「鍵…? 俺が、鍵なのか…?」
父さんの声が震えていた。その時、それまで黙って成り行きを見守っていた公爵が、ゆっくりと口を開いた。その声は、全てを予期していたかのように、妙に落ち着き払っていた。
「ケイン。喫茶店で、お前に渡した、あの封筒だ」
父さんはハッとして、懐からあの分厚い封筒を取り出した。
「ドッペルゲンガーは、俺がお前に何かを渡すことまで読んでいたのかもしれん。そして、お前が持っている”それ”こそが、奴らが狙う”鍵”だと勘違いした。だから、お前への警告を残したのだ」
公爵の推理は、あまりに理路整然としていた。しかし、丸一日を費やして解き明かしたメッセージの重みが、その単純な結論に「待った」をかけていた。
混乱する私達をよそに、公爵は父さんに封筒を開けるよう、顎で促した。父さんが震える手で封蝋を剥がし、中から取り出したのは、一枚の古びた羊皮紙だった。びっしりと難解な古代文字で暗号化された文章と、中央に金で箔押しされた荘厳な王家の紋章。
「これは、六年前の”モハラ聖堂殺人事件”の真相に繋がる、唯一の手がかりだ。殺された神官は、王家に古くから伝わる秘宝のありかを、この暗号に残した。その秘宝こそ、"魔女"を完全に封印するための、最後の希望…」
公爵の言葉が、クライマックスに差し掛かった、その時だった。ずっと万年筆のカートリッジの解読に集中していたエルザが、か細い、しかし部屋の全員の耳を捉えるには十分な声を上げた。
「…解けました」
彼女の額には玉のような汗が浮かび、その顔は青ざめていた。
「カートリッジに封印されていたのは…一つの名前でした」
彼女は、震える声で、その名を告げた。その名は、この場にいる誰もが予想だにしなかった、あまりにも衝撃的なものだった。
「”ザック・ハーヴェスト”……お父様の、名前です」




