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アレスの口から、彼のものではない、低く、怨嗟に満ちた声が響き渡った。
「ククク…バレていたか。流石は、"狩人"ケインだな。そうだとも! 今日は年に一度の聖なる日! 我らが主、大魔王様が最も力を増される、"魔女の祭日"だからよ! この日に、"預言の子"の血を捧げることで、我が主は完全なる復活を遂げられるのだ!」
「俺はずっと一人だったんだ!! この身体の中で、アレスの記憶を、感情を、ただ見ていることしかできなかった! 誰も俺を見てくれなかった! でも、大魔王様は、こんな俺にも愛を分け与えてくれた!!」
彼の名はカゲ。アレスの身体に巣食う、もう一つの人格。その絶叫と共に、彼の身体から黒い瘴気が噴き出した。最後の戦いが、始まった。
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第七章:狂気と救済、重なる孤独の影
カゲの身体から放たれる黒い瘴気は、朝の穏やかな森の空気をたちまち汚染し、周囲の木々を枯らし、生命力そのものを吸い上げていくようだった。それは純粋な魔力というよりは、彼の魂から溢れ出す、長年の孤独と憎悪が形を成した呪詛そのものだった。
「ケイン! お前さえいなければ、計画は完璧だったんだ!」
カゲは獣のような雄叫びを上げ、地面を蹴った。その動きは、アレスの病弱な身体からは想像もつかないほど俊敏で、残像を残しながら父さんへと襲いかかる。その指先は鋭い爪のように変質し、空間を引き裂くような甲高い音を立てた。
しかし、父さんは冷静だった。彼はカゲの猛攻を最小限の動きでいなし、懐へと潜り込ませない。長年、魔物や獣を狩り続けてきた"狩人"としての経験が、その体捌きに現れていた。
「お前の狙いは、シャーナだな」父さんは、カゲの爪を黒檀の杖で受け止めながら言った。「"預言の子"であるシャーナを殺し、大魔王の降臨を確実なものにする。そのために、俺たちをこの街に引き寄せ、油断させて、今日という日に一網打尽にするつもりだった。違うか?」
「その通りだ!」カゲは、父さんの言葉を肯定し、さらに攻撃を激化させる。「今日は、二百年に一度、この土地の魔力が最も高まる日!この日に預言の子の血を捧げれば、大魔王様は完全なる復活を遂げられるのだ!」
「そうはさせるか」父さんの声は、絶対零度の冷たさを帯びていた。
お互いの力が拮抗し、一進一退の攻防が続く。カゲの憎悪の力は凄まじいが、父さんの戦闘技術はそれを上回っていた。しかし、カゲは不意に距離を取ると、その血のように赤い瞳で、私達、特に父さんを嘲るように見つめた。
「戦い方は、力だけじゃないんだろう? "狩人"ケイン」
カゲがそう呟いた瞬間、彼の瞳が妖しく輝き、私の目の前の光景がぐにゃりと歪んだ。穏やかだったはずの森が、一瞬にして燃え盛る地獄へと変わる。私達の村だ。家々は炎に包まれ、黒煙が空を覆い、人々の悲鳴が耳をつんざく。
「やめろ…」父が呻く。これは幻術だ。カゲが私達の心を折るために見せている、最も残酷な記憶の再現。
そして、その炎の中心に、一人の女が立っていた。燃えるような赤い髪をなびかせ、美しい鎧に身を包んだ、女勇者。幻術は、さらに過去へと遡っていく。家の中には、産後で衰弱した母、エリーの姿があった。彼女は、必死の形相で、生まれたばかりのメアリーを床下の食料庫へと隠している。
『ごめんね、メアリー…。お母さんが、必ずあなたを守るから…』
母の悲痛な声。そして、家の扉が蹴破られ、あの女勇者が踏み込んでくる。
『見つけたわ、"魔女の器"』
女勇者の剣が、無慈悲に母の胸を貫く。鮮血が、白いリリーの花びらのように、床に飛び散った。
「エリーーーーーーッッ!!!」
父の絶叫が、幻術の世界に木霊した。彼が長年悪夢の中で見続けてきた光景。その最も残酷な瞬間が、今、私達の目の前で、あまりにも生々しく再現されていた。
「どうだ、ケイン。何度味わっても、己の無力さを噛み締める味は、格別だろう?」カゲが、うっとりと囁く。
父は、膝から崩れ落ち、頭を抱えて呻いている。その心は、完全に折られかけていた。私も、メアリーも、そのあまりに衝撃的な光景に、声も出せずに立ち尽くしていた。母は、病死ではなかった…?
だが、その時だった。
「下らねえ手品に、いつまで付き合ってやがる!!」
エリュガードの怒声が、幻術に支配された空気を引き裂いた。彼は、いつの間にか幻術を打ち破り、その目に揺るぎない怒りの炎を宿して、カゲへと突進していた。彼の精神は、研究所での過酷な経験によって、常人ならざる強靭さを得ていたのだ。
「ちぃっ!」エリュガードの奇襲にカゲの集中が乱れ、炎の村の幻影が陽炎のように消え失せ、元の森の光景が戻ってくる。
「お姉ちゃん!」メアリーの泣き叫ぶ声が、父を現実へと引き戻した。そうだ、守るべき者が、まだここにいる。
「させるかァッ!」
父は、よろめきながら立ち上がっていた。その顔は、もはや絶望に染まってはいなかった。娘たちの涙を目の当たりにした、父親としての誇りと、そして、愛する妻の最期を冒涜された、"狩人"としての絶対的な怒りに燃えていた。
「もう、貴様の茶番には付き合わん」
父さんは、一度大きく後ろへ跳躍し、距離を取ると、静かに目を閉じた。
「…仕方ない。少し、本気を出させてもらう」
父さんの右目が、カッと見開かれた。その瞳は、まるで太陽そのものが宿ったかのように、燃えるような黄金色に輝いていた。彼の眉間から、黒い血液が、まるで涙のように幾筋も流れ落ちる。
「血契夢境"ALICE"…」
それは、術者の生命と血液を代償に、世界の理を書き換える禁忌の瞳術。父は、その力を長年封印していたのだ。
「――"焔ノ陽炎"」
父さんの声が響いた瞬間、彼の身体から灼熱のオーラが立ち昇り、周囲の気温が急激に上昇した。
「消し炭にしてやる!」




