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私がそう思いながらも、使い込まれて深い艶の出たアンティークな木製のドアを開けると、『カランカラン!!』という懐かしい真鍮の鈴の音が鳴った。本当に、全てが懐かしい。磨き込まれたマホガニーのカウンター、壁にかけられた古びた振り子時計が刻む穏やかなリズム、そして店内に満ちる焙煎された豆の芳醇な香り。三年前のあの日と、この店は何一つ変わっていなかった。

私達はその懐かしい窓際の席に座り、それぞれ珈琲と、メアリーはミルクを注文する。エリュガードが、まるでかつてのお父さんのように足を組んで席に腰掛け、テーブルに置かれた新聞をゆったりと読んでいる。その少し大人びた横顔を見ていると、また胸が少しだけ高鳴った。

私は、懐かしい窓の外の景色に目を向けるよりも、会えない旧友の現在について想いを馳せていた。

というのも、やはり何よりもエルザのことが、心配で仕方がなかったからだ。

たった一人で父親の死という過酷な現実を受け止め、気高く前を向いていた彼女。今、王都でどうしているだろう。あの気高いサファイアの瞳は、今も未来を見つめているだろうか。村に帰ってから一度だけ届いた手紙には、力強い、彼女らしい美しい文字で「私は元気です。父の遺志を継ぎ、王宮で仕えることになりました。必ず再会しましょう」と書かれていたけれど、それ以来、連絡は途絶えている。王都は遠く、私達には会いに行く術もない。もう一度、彼女に会えないだろうか。そう願わざるにはいられなかった。

そして、私達が席に腰掛けてから、どれだけの時が経っただろうか。振り子時計の針が、ゆっくりと時を刻む音だけが聞こえる。私とメアリーは、飲み物を片手に、会計棚の近くに置かれたガラスのショーケースを眺めていた。中には、宝石のように輝く苺が乗ったショートケーキや、濃厚な艶を放つチョコレートケーキがずらりと並んでいて、どれをお父さんのために買うか、真剣に迷っていた。

そんな穏やかな時間が、唐突に破られた。

「おい。シャーナ、メアリー。これを見ろ」

エリュガードの声だった。しかし、いつもの快活な響きはどこにもなく、低く、押し殺したような震えを帯びていた。その声色と、新聞を睨みつける彼の厳しい表情から、私はまるで狩人に追い詰められた獣のような、ただならぬ緊張感を感じ取った。

彼のただ事ではない様子に心臓が嫌な音を立てるのを感じながらも、私は彼が指さす新聞の記事を凝視する。

「あれ、お姉ちゃん。この見出しって……」

私の妹であるメアリーが指さしたのは、新聞の隅に、まるで申し訳程度に追いやられた小さなコラム記事。しかし、その小さなスペースに押し込められているにも関わらず、その見出しの一文は、私達の目を釘付けにする、とてつもない異彩を放っていた。

何故、これほど衝撃的な内容が、こんなにも小さなコラムの中にあるのだろう。まるで、誰かが意図的に人々の目から隠そうとしているかのように。そう思わざるを得なかったほどに、その一文は、私達の心を一瞬で凍りつかせた。

そして、その忌まわしい一文の名は………

『3年ぶりの衝撃。モハラ連続殺人事件の狂気』

第三章:再燃する悪夢と小さな決意

『モハラ連続殺人事件』。その文字列を見た瞬間、私達の間に流れていた和やかな空気は霧散し、代わりに三年前の記憶がもたらす冷たい沈黙が訪れた。エリュガードの指先は、新聞紙の上で微かに震えている。彼の猟師としての鋭敏な感覚が、紙面に印刷されたインクの匂いの奥に、血の匂いを嗅ぎ取っているかのようだった。

「…また、なのか」

エリュガードが、誰に言うでもなく呟いた。その声は、乾いた木が軋むような音を立てていた。

私は唾を飲み込み、震える指でその小さな記事をなぞる。そこには、信じがたい事実が淡々と、しかし克明に記されていた。

『…去る五日前より、市内で身元不明の遺体が相次いで発見されている。犠牲者の数は本日までに二十名を超え、そのいずれもが心臓を鋭利な刃物で一突きにされるという共通の手口で殺害されている。衛兵団は、三年前の"モハラ聖堂殺人事件"との関連も視野に捜査を進めているが、犯人に繋がる有力な手がかりは未だ得られていない。市民は不要な夜間の外出を避けるよう…』

二十人。その数字が、鉛のように重く私の心にのしかかる。三年前、私達を恐怖のどん底に突き落としたあの悪魔でさえ、これほど短期間に多くの命を奪いはしなかった。しかも、記事の扱いはあまりにも小さい。社会面の片隅に追いやられ、まるで街で起きた些細な出来事のように報じられている。この街で起きていることの異常さと、それを隠そうとする何者かの意志。その二つが、私の中で言いようのない恐怖となって渦を巻いた。

「帰ろう。シャーナ、メアリー」

エリュガードが、決然とした声で言った。彼の目は、獲物を前にした狩人のそれに戻っていた。「ケーキはまた今度にしよう。一刻も早く、ケインさんにこのことを知らせないと。この街は、俺たちが思ってる以上にヤバいことになってる」

彼の判断は正しい。私達はただの村娘と猟師の息子だ。こんな大事件に首を突っ込むべきではない。お父さんの誕生日を祝うという、ささやかな目的さえも、この街の闇の前ではあまりに無力だった。

私とメアリーは無言で頷き、席を立とうとした。その時だった。

「…待って」

私の口から、自分でも意図しない言葉が漏れた。エリュガードとメアリーが、怪訝そうな顔で私を見る。

「どうしたんだ、シャーナ?」

「…おかしいと思わない?」私は二人を見つめ、震える声で続けた。「三年前、ハーヴェスト公爵殿下を乗っ取っていた悪魔は、公爵殿下自身の魂によって、この世から消滅したはずよ。父さんも、そう言っていた。…だとしたら、どうして? どうして、また同じような事件が起きているの?」

「それは…」エリュガードが言葉に詰まる。「別の奴が、同じような手口でやってるだけかもしれねえだろ。模倣犯ってやつだ」

「本当にそうかしら」私は首を振った。「この記事の書き方、あまりにも不自然だわ。二十人もの人が死んでいるのに、まるで何事もないかのように街は活気に溢れてる。情報を、誰かが意図的に操作しているとしか思えない。三年前と同じよ。何か、とてつもなく大きな悪意が、この街を覆っている気がするの」

私の脳裏に、ハーヴェスト公爵の最後の言葉が蘇る。『"魔女"には気をつけろ。奴らは、もう動き出している』。そして、公爵の死の直後、屋敷の木の上から私達を見下ろしていた、あのシルクハットの女の不気味な笑み。『あの悪魔の死は、計画の内にすぎない』、と彼女は言った。

まさか。この事件の背後にいるのも、あの"魔女"…?

「私、確かめたい」気づけば、私は拳を握りしめていた。「このまま村に帰っても、きっと後悔する。もし、この事件のせいで、また誰かが悲しい思いをするのなら…私、見過ごしたくない。三年前の私達みたいに、何も知らずに日常を奪われる人がいるかもしれない。それを、黙って見ていたくないの」

それは、恐怖を押し殺すための虚勢だったのかもしれない。あるいは、あの壮絶な十日間を生き延びた者としての、根拠のない使命感だったのかもしれない。でも、私の心は確かに叫んでいた。ここで逃げてはいけない、と。

「お姉ちゃん…」メアリーが、不安そうに私の服の袖を掴む。

「無茶だ、シャーナ!」エリュガードが声を荒げた。「俺たちの手に負えることじゃねえ! 下手すりゃ、死ぬんだぞ!」

「分かってる!」私も叫び返していた。「でも、怖いからって目を逸らして、それで誰かが死んだら? もし、私達が何かできることがあったのに、何もしなかったせいで手遅れになったら? 私、そんなの絶対に嫌だ! エリュガードだって、そうでしょう!?」


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