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第二部 母親編:愛しき幻影
第一章:癒えぬ傷と偽りの平穏
あの忌わしい事件が、まるで遠い夜の悪夢のように過ぎ去ってから、なんだかんだと大きな波風も立たずに、三年の月日が流れた。
モハラの屋敷で交わしたエルザとの固い約束も、師を喪った父の背中に深く刻まれていた絶望の影も、時間という名の穏やかで、しかし残酷なほど無慈悲な流れの中で、少しずつその輪郭をぼやけさせていった。私達は、三年前のあの悲劇の記憶が、心を抉る鋭利なガラスの破片から、触れても痛まない丸みを帯びた曇りガラスへと変わっていくのを感じていた。それは忘却という名の逃避ではなく、傷跡がかさぶたとなり、やがて薄皮を張っていく治癒の過程に、確かに似ていたのかもしれない。
私達は村に帰った。ハーヴェスト公爵の亡骸は、駆けつけた王都の衛兵団によって丁重に引き取られ、国葬が執り行われると聞かされた。エルザは、私達に深々と頭を下げ、「必ず、また会う日まで」と震える声で約束を交わし、父の棺と共に王都へと去っていった。その気高くも孤独な後ろ姿を、私達はいつまでも見送ることしかできなかった。
村での生活は、以前と何も変わらなかった。鳥はさえずり、川は流れ、人々は畑を耕し、笑い合う。しかし、私達家族の中の何かが、決定的に変わってしまっていた。父、ケインは、以前にも増して寡黙になった。モハラへ行く前は、時折見せるだけだった”狩人”の顔が、今や彼の日常の貌となっていた。彼は毎日のように森へ入り、夜明けから日没まで、憑かれたように獣を狩り続けた。持ち帰る獲物の量は、村の男たちが束になっても敵わないほどだったが、その顔に達成感や喜びの色は浮かばなかった。むしろ、その行為は彼にとって、内なる何かを必死に殺し続けるための、苦行のように見えた。
夜、父は書斎にこもり、あの公爵から託された羊皮紙の暗号と向き合っていた。机の上には、解読を試みたであろう無数のメモ用紙が散乱し、ランプの灯りは夜明けまで消えることがなかった。そして、悪夢は彼を解放してはくれなかった。母の名を呼び、師の名を呼び、そして時には「すまない」と誰にともなく謝罪する呻き声が、壁の薄い我が家では、嫌でも私の耳に届いた。
「…お前のせいじゃない」
ある夜、書斎の前を通りかかった私は、扉の向こうから聞こえてきた父の呟きに足を止めた。彼は、母の肖-像画がはめ込まれた銀のロケットを手に、そこに描かれた母に語りかけていた。
「俺が…俺が弱かったからだ。お前を守れなかったのも、師を救えなかったのも、全ては俺の…」
その声は、自責の念で張り裂けそうだった。私は、父が母の死に対して、単なる病死以上の、何か深い後悔を抱えていることを確信した。しかし、その真実の扉を開ける勇気は、まだ私にはなかった。
そんな父を心配し、私達を気遣ってくれたのが、エリュガードだった。彼は、父が森へ入っている間、黙って我が家の薪を割り、壊れた屋根を修理し、そして時には、何も言わずにただ縁側に座って、私やメアリーの話相手になってくれた。三年の月日は、彼の背を伸ばし、肩幅を広くし、声に深みを与えていた。村の腕白な少年は、いつしか頼もしい青年の顔つきになっていた。
「シャーナ。あまり、思い詰めるなよ」
夕暮れの帰り道、エリュガードは、私の少し先を歩きながら、ぽつりと言った。
「ケインさんは、強い人だ。今は苦しんでるかもしれねえけど、必ず乗り越える。あんたがそんな顔してたら、ケインさんも、メアリーも心配するだろ」
ぶっきらぼうな口調。でも、その言葉には、彼の不器用な優しさが満ちていた。私は、彼の広い背中を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。この三年間、彼の存在がどれほどの支えになっていたことか。
そして、今日。九月の澄み渡る空気が、黄金色に輝く木々の葉を優しく揺らす心地よいその日は、私と、そしてお父さんの、十七回目と五十回目の誕生日だった。
私が十七歳で、お父さんが五十歳。もうお父さんも、世間一般で言えば立派な「おじさん」の年頃になるのかな。最近、少し白髪が増えたことや、笑うたびに目尻に刻まれる皺が深くなったことに気づくたび、時の流れの抗いがたい速さと、その中で父が一日一日、懸命に守ってくれた日々の重みを、私は感じずにはいられなかった。
ともかく、誕生日といえば、特別なごちそうと、そして何より誕生日ケーキが欠かせない。村のお母さんたちが愛情を込めて焼いてくれる素朴な木の実のパイも、もちろん世界で一番美味しい。けれど、たまには街で売っているような、雪のように真っ白なクリームと、宝石のように真っ赤な苺で贅沢に飾られた、夢みたいに綺麗なケーキが食べてみたい。そんな、ほんのささやかな、少女らしい我儘が胸をよぎった。そして、何より、最近笑うことが少なくなった父に、少しでも喜んでほしかった。
「ねえ、メアリー。お父さんの誕生日プレゼント、どうしようか?」
朝食の席で、焼きたてのパンをちぎりながら私がそう切り出すと、十一歳になったメアリーは蜂蜜で輝く瞳を一層きらめかせた。三年の月日は、泣き虫だった妹を、少しだけ大人びた、利発な少女へと成長させていた。
「ケーキがいい! モハラみたいな、おっきな街のケーキ屋さんで売ってる、すっごく甘いやつ! お父さん、きっと喜ぶよ!」
その純粋な言葉が、私の心に芽生えていた計画の、最後のひと押しとなった。だから、私とメアリーは、同じく十七歳になった幼馴染のエリュガードを連れて、お父さんに内緒で、最高の誕生日ケーキを買いに行くことにしたのだ。久しぶりに、あの街を訪れよう、と。
────三年前、私達の日常を根底から揺るがした、あの喧騒と悲劇の大都市モハラに。
第二章:再訪のモハラと不穏な記事
村からモハラへ向かう乗合馬車は、石畳の街道を規則正しく進んでいく。がたん、ごとん、という心地よい揺れと、馬の蹄が立てる軽快なリズムが、眠気を誘った。車窓から見える景色は、見慣れた緑豊かな丘陵地帯から、次第に人の手が入った広大な農地へと変わり、やがてその向こうに、陽光を反射して鈍く輝くモハラの巨大な城壁が見え始めた。あの壁の内側に、私達の運命を狂わせた全ての始まりがあったのだと思うと、胸の奥が微かに痛んだ。
私達が馬車に揺られながら、うとうとと浅い眠りに落ちていると、やがて御者の「着いたぜ! 嬢ちゃん、坊ちゃんたち!」という野太い声で目を覚ました。気づけばそこは、三年前と変わらない活気に満ちたモハラの大広場だった。
その大都市特有の、人と熱気で埋め尽くされた圧倒的な喧騒。焼きたてのパンの香ばしい匂い、鍛冶屋が鉄を打つ甲高い金属音、商人たちの威勢のいい呼び声、そして何千何万という人々の話し声が混じり合った、生命力溢れる音の洪水。その光景に、三年前の恐怖の記憶がちりりと心の表面を焼くように蘇りそうになったけれど、それ以上に懐かしさと高揚感が勝り、私達の口角は自然と上がっていった。
私達三人は、馬車を一日中巧みに運転してくれた御者の方に深く一礼をしてから、村からの運賃である銅貨数枚と銀貨一枚を渡し、活気あふれる街へと降り立った。
「久しぶりだな、この街も。色々あったけど、やっぱり俺は、この街が嫌いじゃねえや。恋しかったくらいだ」
エリュガードが、眩しそうに空を仰ぎながら言う。彼の肩幅は少し広くなり、声も低くなった。もう、村の腕白な少年ではない。一人の青年としての風格が漂い始めていた。
「あの日々は確かに悲劇だったけど、無駄じゃなかった。俺たちは強くなれた。……だよな? シャーナ」
真っ直ぐな、少しだけ照れくさそうな彼の視線が、私の心を射抜く。十七歳になったエリュガードは、少年と青年の狭間で、時折こんな風に不意に大人びた表情を見せるようになった。私はその眩しさに耐えられず、心臓が大きく跳ねるのを誤魔禍すように、わざとそっぽを向きながら「うん、うん」と小さく頷いた。
すると、その一瞬の仕草を見逃さなかった妹のメアリーが、子供の頃と変わらないいたずらっぽい笑みを浮かべながら、私の耳元で囁く。
「お姉ちゃん、もしかしてエリュガードお兄ちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「なっ…!?」
男女の色恋というものを覚えてきた年頃の、十一歳の妹の早熟さに驚きつつも、私は図星を突かれて言葉に詰まる。「そ、そんなことないもん…!」と、エリュガードに聞こえないように、蚊の鳴くような声でメアリーの言葉を一蹴するのが精一杯だった。
だけど、そんな姉の動揺を心底楽しんでいるかのように、メアリーは私のほっぺをむにゅっと、しかし加減を知っている優しさでつねる。
「い、痛い痛い!!」
思わず大声を出しそうになるも、ふと視線を感じて顔を上げると、「どうしたんだ?」と不思議そうに首を傾げるエリュガードの顔がすぐそこにあった。その瞬間、私の顔にぶわっと熱が集まるのが自分でも分かった。きっと、茹でダコのようになってしまっているに違いない。
メアリーはそんな私を見て、勝ち誇ったようににやりと笑い、そして姉である私に決定的な一言を、しかし真剣な眼差しで告げるのだ。
「お姉ちゃん、正直になりなよ。自分の気持ちに。そうじゃないと、実る恋も実らないよ」
その言葉は、私の胸に小さな、しかし確かな棘のように突き刺さった。
そんな甘酸っぱいやり取りの後、私達は目的のケーキを買うために、記憶を頼りにあの喫茶店へと足を踏み入れた。
その喫茶店とは、三年前、私達が初めてモハラの空気に触れた場所であり、そしてエルザや、ハーヴェスト公爵殿下と出会うことになった、因縁の場所「カフェ・アルカディア」だ。
────まさか、またここに来ることになるなんて。まるで運命の糸に手繰り寄せられたみたい。少しだけ、胸騒ぎがする。




