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公爵の亡骸は、屋敷の主寝室に静かに横たえられていた。


悪魔の禍々しい形相は消え失せ、その顔には死闘の末の安らぎさえ浮かんでいるように見えた。



しかし、自らの手で心臓を貫いたその姿は、あまりに痛ましく、凄惨な真実を物語っていた。


降り注ぐ朝の光が、部屋の埃をきらきらと照らし出し、死の静寂をより一層際立たせている。


まるで、世界から色が失われてしまったかのような、灰色の夜明けだった。


私達は、誰一人として言葉を発することができなかった。父、ケインは壁に寄りかかり、虚空を睨んだまま微動だにしない。


その目は深く落ちくぼみ、一夜にして十年も歳をとってしまったかのようだった。


友を、師を、その腕の中で失ったのだ。


いや、正確には、彼が歌った子守唄が、師に自決を選ばせた。


その罪悪感は、彼の魂を内側から蝕んでいるに違いなかった。


震える指先で、彼は何度も懐の羊皮紙に触れた。

友が命を賭して守ろうとしたもの。悪魔が渇望した「鍵」。


それは今や、鉛のように重い、呪いの遺品と化していた。


エリュガードは、壊れた家具の残骸のそばに立ち、窓の外を鋭く監視していた。


彼の猟師としての本能が、この静寂こそが嵐の前の不気味な凪であると告げているのだろう。


その背中には、年不相応な緊張感が張り詰めていた。 メアリーは、私の腕の中で小さな体を震わせ、しゃくりあげていた。


昨夜の恐怖と、敬愛していた「黒いおじさん」の死が、八歳の心にはあまりに重すぎたのだ。


その重苦しい沈黙を破ったのは、この悲劇の最も大きな被害者であるはずの、エルザだった。


彼女は、一晩泣き明かしたのだろう、目は赤く腫れていたが、その背筋は驚くほどまっすぐに伸びていた。


彼女はゆっくりと父の亡骸に近づくと、その冷たくなった手にそっと自分の手を重ねた。


「お父様…」 凛とした声が、静かな部屋に響く。


「あなたの娘であることを、誇りに思います。あなたの戦いは、あなたの光は、私が必ず受け継ぎます。だから…どうか、安らかにお眠りください」


涙は、もう流れていなかった。


そのサファイアの瞳には、悲しみを乗り越えた先にある、鋼のような決意の光が宿っていた。


彼女は、父の死を悼むだけでなく、その死の意味を理解し、自らの宿命として受け入れたのだ。


”魔女”の血を引く者として、父が命を賭して守ろうとした世界のために戦うことを。


その気高い姿に、私達はただ圧倒された。父が、ゆっくりと顔を上げた。


「エルザ嬢…すまない…。俺が…俺がもっと早く気づいていれば…!」


「いいえ、ケイン様」


エルザは静かに首を振った。


「あなたは、父の魂を救ってくださった。悪魔の慰みものになることから、父の誇りを守ってくださったのです。心から、感謝しています」


その言葉は、父の心を救うにはあまりに優しすぎたが、それでも、凍てついていた彼の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


「…帰ろう」 父が絞り出すように言った。


「すぐにでも、村へ。ここは、もう私達がいるべき場所ではない」


誰もが、その言葉に無言で頷いた。このモハラという街は、私達からあまりに多くのものを奪い去っていった。


エルザとの別れは辛いが、彼女には彼女の戦うべき場所があり、私達には帰るべき場所がある。父は、私達子供たちを守ること、それだけを考えているようだった。


「出発の準備をしよう」


父の言葉を合図に、私達は重い体を引きずるようにして、この忌まわしい屋敷を去るための支度を始めた。


しかし、胸の中の果てしない喪失感が、灰色の朝の光の中で、じっとりと心を濡らしていた。


****


荷造りは、黙々と進められた。


と言っても、元々が短い旅のつもりの軽装だ。


すぐに終わってしまう。 その手持ち無沙汰な時間が、かえって私達の心に重くのしかかった。


会話はない。


ただ、衣類を畳む音、革袋の留め金を閉める音だけが、虚しく部屋に響いていた。


私は、エルザの部屋のドアをそっとノックした。彼女もまた、一人で身の回りの整理をしているようだった。


「シャーナさん…」


私を見ると、彼女は少しだけ微笑んだ。その気丈な笑みが、私の胸を締め付ける。


「もう、行ってしまうのね」


「うん…。お父さんが、一刻も早く村に帰るって」


私達は、窓辺の椅子に並んで腰掛けた。


窓の外では、モハラの街がいつもと変わらない喧騒を始めている。


昨夜、この屋敷の一室で、世界の運命を揺るがすほどの死闘が繰り広げられたことなど、誰も知らない。


実の父親が死んだ。 その宿命は、十四歳の少女が背負うには、あまりに過酷な宿命だった。


私は、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。


「シャーナさん」


エルザは、私の手をそっと握った。


「あなたの中には、とても大きな力を感じる。それは、私が持つ魔法の才能とは、また違う種類の、もっと根源的な力。ただ、まだ眠っているだけ。…今は、その力を無理に目覚めさせないで。あなたには、私のような生き方をしてほしくない。村に帰って、メアリーやエリュガードと、幸せに生きてほしい」


その言葉は、私の心の奥底にある秘密を優しく包み込むようだった。


「ありがとう、エルザ。でも、もし何かあったら…絶対に、一人で抱え込まないで。私達は、友達でしょう?」


「ええ、もちろんよ」


エルザは、サファイアの瞳を潤ませながら、力強く頷いた。


私達は、短い間だったけれど、同じ悲劇を乗り越え、確かに魂で繋がったのだ。


階下では、父とエリュガードが最後の準備をしていた。


エリュガードは、父の消耗しきった様子を心配そうに見つめていた。


「親父さん…本当に大丈夫か? 少し休んだ方が…」


「平気だ」 父は短く答えた。


「お前こそ、ありがとうな、エリュガード。お前の洞察力がなければ、俺達はもっと早くに奴の罠に落ちていたかもしれん。…これからも、シャーナとメアリーを、頼む」


「当たり前だろ」


エリュガードはぶっきらぼうにそう言うと、顔を背けた。彼の耳が少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


「……そういや、親父さん。エデンの夢についての子守唄について…話があるんだけど、良いか?」


「……あ、ああ」


私は、どうしてエリュガードが、そんな子守唄なんかに関する話を持ち出したのか見当もつかなかった。


私は、2人がいなくなったのを確認して、無邪気にもエルザと一緒に首を傾げた。


****


やがて、全ての準備が整った。


私達は、屋敷の重厚な鉄の門の前に立った。


エルザが、見送りに来てくれた。


別れの時が来たのだ。


「さようなら。シャーナさん。みんな」


父は、黙ってそれを受け取ると、深く頭を下げた。


「メアリー、元気でね」


エルザが屈むと、メアリーはわっと泣き出し、その首に強く抱きついた。


「エルザお姉ちゃん…! 死んじゃいやだよお…!」


「大丈夫よ。私は、死なないわ」

エルザは優しくメアリーの背中を撫で、そして、最後に私の方を向いた。


私達は、言葉を交わす代わりに、強く、強く抱きしめ合った。温かい体温と、かすかな花の香りがした。


「必ず、また会おうね、シャーナさん」

「うん。必ず」


私達は、固い約束を交わした。


これが、今生の別れにならないことを、心の底から祈りながら。エルザに背を向け、私達はモハラの喧騒の中へと歩き出した。


蔦の絡まる屋敷の門の前で、たった一人、気高く立ち続けるエルザの姿が、だんだんと小さくなっていく。


さようなら、私のたった一人の、特別な友達。どうか、あなたに光の導きがありますように。


****


エルザと別れた私達は、村へ帰るための合乗り馬車が発着する広場へと向かっていた。


モハラの大通りは、相変わらずの活気に満ち溢れていた。行き交う人々の陽気な話し声、荷馬車の車輪が石畳を叩く音、露店の呼び込みの声。


それらの全てが、まるで違う世界のできごとのように、私達の意識の表面を滑っていく。十日間の悪夢が嘘だったかのように、世界は日常を続けていた。


その、どこか現実感のない喧騒の中を歩いていると、ふと、メアリーが私の袖を引いた。


「ねえ、シャーナお姉ちゃん。村に帰ったら、エリュガードのお母さんのパイが食べたいな。それから、川で水遊びもしたい。お父さん、またお魚たくさん釣ってくれるかな?」


そのあまりに無邪気な言葉が、張り詰めていた私達の心を、ほんの少しだけ解きほぐした。父の口元に、微かな笑みが浮かんだ。


「ああ、もちろんさ。腕によりをかけて、お前たちが食べきれないくらい釣ってやろう」


「本当? やったあ!」


メアリーの歓声が、灰色の世界に、ほんの一瞬だけ色を与えた。そうだ、私達には帰る場所がある。ささやかでも、幸せな日常が待っている。


もう二度と、危険なことには関わらない。  父も、きっとそう決意しているはずだ。エリュガードも、少しだけ安堵したように肩の力を抜いた。


****


それから、私達は何事もなく、私達の帰るべき村に帰った。 モハラ殺人事件の情報を、何者かによって知らされていた村のみんなは、私達を心配してくれて出迎えてくれた。


私達……とりわけお父さんは、その何者かという言葉を恐れたけど、それでも何が起こるわけではなく、何気ない日々はただ過ぎ去るように、流れていく。


麗しき森に囲まれていて、この地域特有の鳥のさえずりがこだまする美しい木造りの家の中で、いつも通りの幸せな日々が、1年…また1年と流れていった。

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