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第一部 公爵編:モハラの亡霊
序章:旅立ちの朝
これは、私がまだ十四歳だった頃の物語だ。世界がどれほど広く、そしてどれほど残酷な秘密を隠しているのか、知る由もなかった頃の。
私の名前はシャーナ。ツングースカ王国の東の果て、雄大な龍哭山脈の麓に抱かれた、名もなき辺境の村で生まれ育った。父のケイン、八つになる妹のメアリー、そして物心ついた頃からいつも一緒だった幼馴染のエリュガード。それが私の世界の全てだった。村は、穏やかで、退屈で、そして何よりも安全な場所だった。季節の移ろいは教会の鐘の音と、畑に実る麦の穂の色で知り、人々の営みはゆったりとした河の流れのように、昨日と変わらない明日を約束してくれていた。
けれど、父は時折、遠い目をした。村の男たちが酒場で陽気に語らう輪から少し離れ、一人、西の空を眺めていることがあった。その横顔は、私が知っている優しい父親のものではなく、遥か昔に何かを置き忘れてきた旅人のような、深い孤独と悔恨の色を帯びていた。夜中にふと目を覚ますと、父が悪夢にうなされていることも一度や二度ではなかった。絞り出すような呻き声、そして、たった一つの名前。
「……エリー」
それは、八年前に病で亡くなった母さんの名前だった。母さんの記憶は、私の中ではもう朧げだ。春の陽だまりのような笑顔と、白いリリーの甘い香り、そして、私を抱きしめてくれた腕の温もりだけが、おぼろげな輪郭を保っている。父は母さんのことを滅多に口にしなかったが、彼の書斎の机の上には、いつも母さんの肖像画がはめ込まれた銀のロケットが置かれていた。父は夜な夜な、そのロケットを手に取り、誰にも見せることのない表情で、じっとその肖像画を見つめていた。その瞳に宿る感情が、単なる追憶だけではない複雑な色を帯びていることに、私は薄々気づいていたが、その意味を問うことはできなかった。
エリュガードは、そんな父の姿を見るたびに、私を気遣うように黙って隣に座ってくれた。彼は村一番の猟師の息子で、私よりも少しだけ背が高く、その瞳にはいつも、森の獣のような鋭い光が宿っていた。彼は口数が少なく、少しぶっきらぼうだったけれど、その行動はいつも優しさに満ちていた。私が崖から落ちそうになれば、誰よりも早くその手を掴んでくれる。私が熱を出して寝込めば、夜通し傍にいて、冷たい水差しを取り替えてくれる。彼のそばにいると、不思議と心が安らいだ。
「シャーナ。お前の親父さん、またあの顔してるな」
ある日の夕暮れ、二人で村はずれの丘に座り、茜色に染まる空を眺めていると、エリュガードがぽつりと呟いた。彼の視線の先には、自宅の窓辺に佇む父の姿があった。
「うん……。時々、すごく遠くへ行っちゃうみたい」
「……」
エリュガードは何も言わず、ただ私の隣に座り、同じ景色を見ていた。彼は、慰めの言葉をかける代わりに、いつもそうして静かに寄り添ってくれる。彼もまた、私と同じように、ケインの内に潜む底知れない闇を感じ取っていたのかもしれない。
そんな日々が続いていたある春の日、父は唐突に言った。
「モハラへ行くぞ」
朝食の席で、焼きたてのパンをちぎりながら放たれたその一言に、私とメアリー、そしてその場に居合わせたエリュガードは顔を見合わせた。モハラ。それは、遥か西にあるというツングースカ王国の大都市。村の行商人が時折話してくれる、夢のような場所。石畳の道がどこまでも続き、空を突くような高い建物がひしめき合い、夜でもランプの光で昼間のように明るいという。
「どうして急に?」
私の問いに、父は少しだけ言葉を詰まらせた後、努めて明るい声で言った。
「お前たちに、一度大きな世界を見せてやりたいと思ってな。いつまでもこんな村に閉じ込めておくわけにはいかん」
メアリーは「わーい! 街だ街だ!」と無邪気にはしゃぎ、エリュガードも「面白そうじゃねえか」と口の端を上げた。しかし、私だけは、父の言葉の裏に隠された何かを感じ取っていた。その目は、娘たちへの愛情とは別の、何か焦燥にも似た光を帯びていたからだ。まるで、何かから逃げるように、あるいは、何かを追いかけるように。その旅立ちが、私達の運命を根底から揺るがすことになるなど、その時の私には知る由もなかった。
旅立ちの朝、父は書斎にこもり、長い間出てこなかった。そっと扉の隙間から覗くと、彼は使い古された革のケースから、一本の狩猟刀を取り出し、黙々と手入れをしていた。それは、村で暮らすようになってからは一度も見たことのない、鋭い光を放つ無骨な刃だった。その刀身を磨く父の横顔は、私の知る穏やかな父親ではなく、辺境でその名を馳せたという、伝説の”狩人”ケインの顔をしていた。
第一章:大都市と不吉な記事
村からモハラまでは、乗合馬車に揺られて三日間の旅だった。初めて見る広大な平原、地平線まで続く街道、そして私達が住む村とは比べ物にならないほど大きな町々。その全てが、私の心を躍らせた。メアリーは終始窓の外にはりつき、エリュガードは珍しく饒舌に、街道沿いの森に潜む獣の種類や習性について語ってくれた。父は、そんな私達を穏やかな目で見守っていたが、西へ進むにつれて、その口数は徐々に減っていった。
そして四日目の朝、私達の目の前に、ついにその威容が姿を現した。
「うわあ……」
メアリーが、感嘆の声を漏らす。地平線を分かつようにそびえ立つ、巨大な灰色の城壁。その高さは、村で一番高い樫の木を遥かに超えている。城壁に穿たれた巨大な門をくぐると、そこはまさに別世界だった。
どこまでも続く石畳の道。その両脇には、煉瓦や石で造られた三階、四階建ての建物が、空を奪い合うようにひしめき合っている。人、人、人。貴族を乗せたであろう豪華な馬車、荷物を満載した荷馬車、そして様々な身なりの人々が、まるで巨大な川の流れのように行き交っている。焼きたてのパンの香ばしい匂い、家畜の匂い、香水の甘い香り、そして人々の熱気が混じり合った、むせ返るような喧騒。鍛冶屋が鉄を打つ甲高い金属音、商人たちの威勢のいい呼び声、吟遊詩人が奏でるリュートの陽気な音色、そして何千何万という人々の話し声が、生命力に満ちた音の洪水となって私達を包み込んだ。
「す……すごい……」
圧倒的な光景に、私達はただ立ち尽くすことしかできなかった。父は、そんな私達の肩を軽く叩くと、「まずは、宿を探そう。それから、少し街を散策してみるか」と、少しだけ緊張の解けた声で言った。
父が予約していた宿は、大通りから少し入った、比較的静かな地区にあった。荷物を解き、一息ついた後、私達は父に連れられて、街の中心にある広場へと向かった。その道すがら、父は一つの喫茶店に目を留めた。古びた木製の看板に、「カフェ・アルカディア」と金文字で記されている。
「少し、休憩していくか。俺も、この街の喧騒にはまだ馴染めなくてな」
父はそう言って、照れくさそうに頭を掻いた。
店内に一歩足を踏み入れると、街の喧騒が嘘のように遠ざかり、静かで落ち着いた空気が私達を迎えた。使い込まれて深い艶を放つマホガニーのカウンター、壁にかけられた古びた振り子時計が刻む穏やかなリズム、そして店内に満ちる、焙煎された珈琲豆の芳醇な香り。私達は窓際の席に腰を下ろし、少しだけ背伸びをして、メニューを眺めた。父さんとエリュガードは苦い珈琲を、私とメアリーはたっぷりのミルクと砂糖が入った紅茶を注文した。運ばれてきたカップから立ち上る甘くもビターな香りは、私達を少しだけ大人の世界へといざなってくれるようだった。
テーブルの上には、誰かが読み終えたのであろう新聞が、無造作に広げられていた。活字にあまり馴染みのないメアリーはすぐに飽きてしまったが、私とエリュガードは、珍しさもあってその記事に目を走らせていた。王家の動向、近隣諸国との交易の話、流行の演劇の批評。村の暮らしとはかけ離れた華やかな世界の出来事が、そこには記されていた。
何気なくページをめくっていた、その時だった。ふと、ある見出しが私の目に飛び込んできた。社会面の片隅に、まるで申し訳程度に追いやられた小さな囲み記事。しかし、その小さなスペースに押し込められているにも関わらず、その見出しの一文は、私の心を鷲掴みにする、とてつもなく不吉な響きを放っていた。
『未解決事件"モハラ聖堂殺人事件"――六年目の亡霊』
その文字列を見た瞬間、店の穏やかな空気が、私の周りだけ急に冷たくなったような錯覚に陥った。六年目。その数字が、妙に心に引っかかった。
「お父さん……これ、何?」
自分でも気づかないうちに、声が潜んでいた。指先が、記事の上で微かに震える。
父は私の声に視線を上げると、その見出しを一瞥し、そしてすぐに興味を失ったかのように目を逸らした。
「……ああ、まだ捕まってないらしいな、その犯人」
父さんは気のない返事をしながら、珈琲をすする。しかし、そのカップを持つ指先が、僅かに強張っているのを、私は見逃さなかった。その横顔は、この街の喧騒にまだ馴染めていないというだけではない、もっと深い、何か過去の苦い記憶を呼び覚まされた者の顔をしていた。
記事に目を落とす。そこには、六年前、このモハラで起きた凄惨な殺人事件の概要が記されていた。モハラ聖堂に仕える一人の神官が、何者かによって殺害された。遺体には奇妙な点が多く、まるで儀式的な殺人のようであったこと。犯人は一切の痕跡を残さず、衛兵団の捜査は難航を極めたこと。そして、六年経った今もなお、犯人は捕まらず、事件はモハラ市民の記憶の片隅で、不気味な都市伝説として語り継がれていること……。
私の潜めた声が、かえって静かな店内に奇妙な緊張を走らせたのかもしれない。ふと、隣のテーブルから、重たい視線を感じた。まるで、値踏みをするような、鋭い視線。その沈黙を破ったのは、その視線の主だった。
「ケインか? その声、やはりお前だったか」
声のした方に目を向けると、そこには一人の男が立っていた。黒いシルクハットを目深に被り、漆黒の、寸分の隙もなく仕立てられたスーツに身を包んでいる。その姿は、この庶民的な喫茶店にはあまりに不釣り合いで、まるで舞台の上の登場人物が、間違って現実世界に紛れ込んでしまったかのようだった。コツコツと床を鳴らす革靴の音まで、どこか不機嫌に聞こえる。
まだ八歳のメアリーは、しかし、その人を物怖じせずにじっと見上げ、そして無邪気な、しかし残酷な一言を放った。
「パパ…あの黒いおじさん…だあれ? なんだかこわあい…」
その一言で、父さんの顔からサッと血の気が引いた。彼は椅子を蹴立てるように立ち上がると、声にならないほどの息を呑み、そして、まるで王様にでも謁見するかのように、深々と、背骨が折れるのではないかと思うほど深々と頭を下げる。
「も、申し訳……ありません…! メアリーが大変失礼を…! 何卒ご容赦ください、ハーヴェスト公爵殿下…!」
公爵殿下…? 聞いたこともない爵位だった。しかし、父さんの震える肩が、事の重大さを物語っていた。この国の貴族の中でも、相当に位の高い人物なのだろう。どうしよう、私達、この街から追い出されちゃうかもしれない……。
私の不安が風船のように膨れ上がった、その時。公爵と呼ばれた男――ハーヴェスト殿下は、静かに、しかし有無を言わさぬ迫力で父さんを窘めた。
「ケイン。公共の場で騒ぐなと、昔から教えているはずだが?」
その低い声は、しかし、どこか懐かしむような響きを帯びていた。そして、彼の視線は、恐怖に固まる私と、まだ事態が飲み込めていないエリュガードの上をゆっくりと滑り、そして再び父さんへと戻った。
「久しぶりだな。……六年か」
その言葉は、先ほどの新聞記事の見出しと、奇妙に重なって聞こえた。




