第一話「空虚の薄明」
「空虚の薄明」
〝おはよう、"逸脱者"君。〟
耳障りだが妙に心地の良い声と共に、目を覚ます。聞き覚えはあるのだが、思い出せない。
〝いやーあんな事になるとは想像もつかなかったな〜。〟
なんの話だろうか。僕には思い当たる節が全く無い。
〝真実はいつも君の中にある。さぁ、黎明の時だ。〟
眼前の人影が僕の額に指を当てる。身体にあったはずの浮遊感が、波紋のように拡がり消えていく。漸くこの場所から解放される………………
目を覚まし、身体を起こす。積雪が人の型を取り固まる程、長く眠っていたようだ。静かな冷風が耳を抜ける。肌を刺す痛みを我慢しながら、立ち上がる。腕はぶらんと垂れたまま。
「行か…なきゃ…」
生の為の命令が脳を支配し、鉛のように嵩張った重さに耐えながら脚を引摺る。地平線まで続いていそうな、宛なき彼方への路をのそのそと歩く。何故か、やたらと瞼が重い。頭もズキズキする。
機械的で一定の足音を鳴らす。次へ、次へと出す脚が、じんわりと重くなるのを感じる。路の先を見ていた視界は、やがて白銀の世界に染まった。
「は………はぁ……」
吐息がか細く、大人しくなる。怖い。死ぬのが、怖い。寒い。吹雪が肌を裂き、瞼すら凍らせる。額の汗は冷え切り、身体の温度を奪い取る。また重さを増した両脚。死にたく、無い。もっと、生きて、いたい。少しでも、長く。少し、でも……
「少し…で……も…………」
重さに耐え切れず、左腕を伸ばしたまま、身体は崩れた。白かったはずの世界は、やがて暗黒に包まれた。
途絶えたはずの世界は、また色付いた。見知らぬ木目の空。横から橙の薄明りが照らす、不思議な世界。
「どこ…ここ……?」
「あ!良かった、生きてた!!」
水縹色の短く、綺麗な髪を持つ少女が、眼前に慌ただしく接近する。
「散歩してたら倒れてる人が居てどうしようかと思ったけど…生きてて良かった!!」
「あ、ありがとう、ございます……助けてくれて」
少女は僕に抱き付く。見ず知らずの人をここまで心配出来るとは…彼女は相当なお人好しなのだろう。
「良いの良いの!!私はメルティ・E・ネクター。君、名前は?」
「えっと…ヘクター・レンジア…です」
少女は小首を傾げる。
「レンジア?聞いた事無い苗字…まぁとにかく、よろしくね!!ヘクター」
「は、はい…」
彼女と握手を交わした。
「ほう。メルティ、ボーイフレンドかな」
「お父さん?!」
扉の奥からお父さんと呼ばれた男が顔を出す。年季の入った皺と髭を携えた初老の男性。
「私は、ワグナー・ネクター。この子の父だよ。おはよう、旅人君。よく眠れたかい」
くしゃっとした優しい笑顔を見せる。
「差し支えなければ、この森へやって来た訳を聞かせてくれないだろうか」
「…………分からないんです」
起きた時には雪の国。他の記憶など手中に無い。
「名前しか……分かりません………」
「そう、か……まぁ、深い事情があるのだろうな。ヘクター、と言ったかな。泊まる宿はあるかい?」
「いえ…ありません。なので、出来れば……ここに…」
「良いに決まってるよ〜!!君の記憶が戻るまで、ここに居て良いからね」
「うむ、私も同感だ。外は危険な魔物が多い。特に、この時期はね」
窓は寒そうにガタガタと震え、視界を白粒が覆う。どうやら外は猛吹雪なようだ。
「大昔、とある男が竜の怒りを買い、この森は絶えぬ雨雪に包まれた。今でも雪嵐は尽きず、森を蝕み続ける。魔物達は竜の力に当てられ凶暴化、そして繁殖。今年は大人しい方だがね」
「家に入って来た時はどうしたものかと思ったよ〜」
二人は懐かしそうな笑みを浮かべる。
「ところで、詮索しているようで悪いけれど。君、旅人じゃないだろう?」
何故か、僕を睨む。
「そのローブだよ。何度見た事か、焼き付けた事か、恨んだ事か!!!」
肩を掴み、壁に叩き付ける。棚上にあったアルバムが転倒する。
「良く似ている。いや、お前もそうなんだろう?」
「何の……話だ…!!」
首まで締めてくる。呼吸がままならず、涎が喉を通過しない。出口を無くした涎はやがて唇の端から垂れ落ちる。
「あの日、父さんを殺し、レシピを奪ったのは誰だ!!答えろ!!!」
「止めて!お父さん、止めてぇぇぇ!!!!」
顔が紅潮する。違う、僕じゃ無い。僕はやってない。関与もしていない。違う。違う。違う。
「僕じゃ……無い………!!」
不意に、フードが落ちる。窓から刺す日光が、僕の顔を照らす。彼は焦って首から手を離す。自由になった口から、満遍なく、有りっ丈の空気を吸う。
「本当に申し訳なかった。突然君の首を絞めるなんて、正気じゃなかった。どうか、許して欲しい」
息が整って、ワグナーを見遣る。彼は深々と頭を下げ、謝罪していた。彼の顔には、先程までの怨恨など欠片も無かった。僕は首を振り、彼を許した。
「いえ、良いんです。僕が覚えていないだけで、その恨んでいる人と関わっている可能性だってありますし。取り敢えず……」
彼は顔を上げ、感謝を述べた。傍らで泣きじゃくるメルティの背をそっと撫で、僕の事情を聞いてくれていた。
「……あなたの話、聞かせてもらえますか?」
彼は笑顔を浮かべたまま、窓辺を眺める。どこと無く切なさというか、形容しがたい暗さを持っていた。空は黒く、雪風を強く押していた。
「三十年前。この村は、雪ではなく栄光に包まれていた」
彼の口は低く、淡々と語る。
「“神酒ネクター”。それが村の希望だった。私の父、モルシュワ・ネクターが造る美酒は、不老不死の霊薬とも呼ばれ、幾つもの国を渡ってまで来る者も居た。……だがある夜、全ては滅びた」
語尾が僅かに震え、窓に伸ばした手は力んでいた。
「刃物で滅多刺しにされて、父は殺された。金庫からはレシピが奪われていた。血塗れの父に逃げろと言われて、がむしゃらに逃げるしかできなかった。本当に臆病で、惨めだった」
気付けば彼の手は、肩から垂れたまま強く握り締めていた。ヘクターは黙って立ち上がると、棚から落ちたアルバムを拾い上げ、埃を払う。そこには平和そうに笑う幼い頃のワグナーと、その父と思しき者の姿があった。
「辛かった……ですね……でも、貴方は生きている。それって素晴らしい事だと思います。貴方の父にとって、貴方の存在は一家を懸けた霊酒よりも大事だった。父はそれだけ、家族が大切だった。そう言う事なのでしょう?優しいお父さんですね」
「そうでも無いさ。不器用で、仕事一筋な頑固モンだよ……」
「それでも、貴方は優しい人だ。貴方が愛を持って育てたからこそ、メルティは優しく、慈悲深い子に育ち、僕を助けた。彼女が居なかったら、僕はあのまま凍え死んでいたから」
メルティの方を見れば、顔を背け、少し照れ臭そうにしている。ワグナーは俯き、重い口を開いた。
「ヘクター君と言ったかな?ありがとう。君のお陰で、少し楽になったよ。……ご飯にしようか、メルティ」
彼は、以前の元気な笑みを浮かべ、頷く。
「うんっ。ご飯にしよ、ヘクターも一緒に作ろう!」
三人は台所で各々の仕事を熟していた。煮立った鍋の湯気が、仄かに甘い香りを運んでくる。三人で使うには狭く感じたが、僕等にはそれが丁度良かった。するとふと、僕の頬を何かが伝った。
「あれ?ヘクター、泣いてる?」
「え……あれ、ほんとだ……」
袖で頬を拭い、僕は微笑む。
「何でも無い。よし、続きをやろう」
賑やかで、温かな時間。雪は止み、若干の明るみを帯びた空は、薄ら暗かった部屋を照らしていた。
――森のどこか。巨大な渓谷の中には隠れ家があった。
「姉貴ー、また依頼来てたよ」
片手で手紙を回しながら放る琥珀色の目をした少年。受け取った銀髪の女性はそれを開き、目を通す。すると間髪入れずに舌打ちをした。
「白銀嶺の探索依頼か。全く、寒いし危ないんだから勘弁してほしいね」
「今回は生命反応があったと思しき地帯の散策だって。もし隠れ貴族が居たら…」
「殺しなさい。許可は得ているからね」
二人の腰には、獅子を模した小さな紋章が揺れていた。その紋章の下には、"イゾルデ盗賊団"と記されていた。
ヘクターとメルティは、雪が散りばむ森に足跡を刻む。朝はこうして、二人で散歩するのが日課なのだ。そうして見つけた自然や誰かの痕跡を見つけては、笑い合う。そんな毎日。だが今日は珍しく、人が倒れていた。目立つ金髪の青年。雪床に顔から埋もれていて、顔は見えない。
「死んで…はなさそう。少し気を失っているだけだね。」
見たところ、そこまで雪は積もっていないし、まだほんのり温かい。
「どうする。連れて帰る?」
「うん。困っている人は、少しでも助けてあげたいもん」
「分かった。なら早く帰ろう。遅くなる前に」
男を背負い、早足で帰る道中。
「やぁ、そこの少年とお嬢ちゃん。随分と大荷物だね」
眼前の木立から二人が現れた。一人は深く帽子を被り、気持ち長めなコートを着る、木に凭れながら立つ銀髪の女性。もう一人、その背後に居るのはパーカーに似た防寒具を着た、琥珀色の目をした少年。
「何か用でもあるの?私たち急いでるんだけど」
「こんな白昼堂々と誘拐なんて、肝が据わってるなと思ってね」
銀髪の女は揶揄うように言う。
「違う。僕達はこの人を助ける為に、家へ送るまでだ」
僕はそう返すと、今まで黙っていたパーカー男が口を開いた。
「悪を許さない。それが俺たちイゾルデ盗賊団の掟だからな。どっちにしても、男はこっちで預からせてもらうぜ」
「イゾ…ルデ……?!」
メルティは心当たりがあったのか、反応を見せる。顔を青ざめさせ、口を手で覆う。
「大悪党じゃない!!窃盗、暴力、人攫い、何でも有りの組織。盗賊は盗賊でも、とんでもない人たちと出会っちゃったかも…」
「姉貴、俺たちこんな悪行してたっけ」
パーカー男は首を傾げ、銀髪女の方を見ながら言う。
「きっとバカ貴族共が言いふらしてるんでしょうね」
そう話している間に、メルティは僕の肩を掴む。
「ヘクター、逃げよう?今のうちに…」
「どこまで油断しているか分からない。念の為、僕が時間を作る」
「何するの?」
僕は一歩前へ出て、近くの木の棒を握る。そして、男の顔面へと棒先を向ける。
「決闘だ。僕が勝ったら彼は僕たちが預かる。君達が勝ったら君達が預かる。これでどうだ?」
「ヘクター!何してるの!!」
後方からメルティは叫ぶ。
「良いぜ、やってやるよ」
僕の目に迷いは無い。同時に二人の目、特にパーカー男の目にも曇りや迷いは無く、ただ血に飢えた獣のような目をしていた。