『推し』に壁ドンされています!?(後日談)
壁ドンが書きたくて……。
思わず後ずさった私の背中は、すぐに壁にぶつかった。
ドン!と、顔の両側すぐ横の壁に両手が置かれる。まるで私を閉じ込めるように。
そう、壁ドンである。
吐息がかかりそうなほどの至近距離で私を見つめる涼やかな瞳は青。艷やかな髪黒が、端正な顔にはらりとかかる。
なんと私は今、『推し』にして婚約者であるディルク様に壁ドンされているのだ!
卒業パーティーを間近に控えたとある日の放課後。
学園内のサロンでお喋りに興じていた私は、「アデリナ、少しいいかな」とディルク様に呼ばれて部屋を出た。
無言のディルク様に手を引かれて近くの空き教室に入り、二人きりになるやいなや壁際に追い詰められてからの壁ドンである。
壁ドン。それは全世界の夢女子憧れのシチュエーションの一つ(断言)。
決して夢女子というわけではない私の心臓も、跳ねるどころの騒ぎではない。
キュンとかドキッを通り越して、和太鼓の乱れ打ちさながらにドンドコドコドコと忙しないリズムを刻んでいる。太鼓の皮、たぶんそろそろ破れると思う。
……ただし。私を見つめる『推し』の表情に、甘さは微塵もなかった。
「えっと……ディルク様……?」
たらりと冷や汗を流しつつ、いつになく険しい表情のディルク様に恐る恐る呼びかける。
その顔を見れば、良い話でないことは明らかだ。
卒業目前のこの時期に、いったいどうしたというのだろう。嫌な意味で、ますます鼓動が速くなる。
……もしかして、やっぱり私との婚約が嫌になった……とか?
ありうる、と思ってしまう。
だって元々ディルク様は、悪役令嬢の私なんかと婚約するはずではなかったのだ。原作漫画では。
もし……ディルク様が私との婚約をやめたいと言うなら。私はそれを受け入れなければならない。
だって、私の幸せは『推し』の幸せ。
ディルク様が他の誰かとの幸せを願うなら、私には潔く身を引く以外の選択肢はない。そして、推しの幸せを遠くから眺めてニヤニヤするただのオタクに戻るのだ。
……一度夢を見てしまった後では、ちょっと……いや、かなり辛いけれど。
ディルク様はなおも無言でぎゅっと眉根を寄せてから、意を決した様子で口を開いた。
「さっきのアレ、どういうこと?」
……さっきのアレ?
意味が分からず首を傾げる。
「アデリナは、本当はアルベルトが好きなの?」
「……へ?」
「言ってたよね、サロンで、アルベルトに。『好き』だって」
「え……。えええっ!?」
そんな……まさかあの会話をディルク様に聞かれていたなんて……!
ザーッと血の気が引くのを感じながら、私は先ほどのサロンでの出来事を思い返した。
◇
学園内にはいくつもの小さなサロンがある。
放課後ともなれば、仲の良い生徒同士が集まり、お茶会を開いたり、趣味の刺繍や音楽、ボードゲームなどに興じたりするのに利用されている。現代日本の高校のクラブ活動みたいな感覚だ。
サロンの中には、王族と、王族が許可した者だけが利用することのできる特別室もある。
アルベルト様以下の元生徒会メンバーは、生徒会を引退した後、このサロンで過ごすことが定番になっていた。
今日も午前中のみで授業は終わり、午後はこのサロンで気ままに本を読んで過ごしていた。
私以外にも何人か元生徒会メンバーがいたのだが、ふと、アルベルト様と二人きりになる瞬間があった。
「そういえばアルベルト様。ミアの卒業後の進路はお聞きになりまして?」
「い、いや……」
ミアの話題を出した途端、そわそわし始めるアルベルト様。
「あら、まだ聞いておられないのですか?」
「うっ……なかなか、話しかける機会、が……」
「毎日のようにサロンで顔を合わせているのに? アルベルト様、少々ヘタレすぎでは?」
あ、しまった。思わず口が滑ってしまったわ。
アルベルト様は苦しそうに胸を押さえて「ううう……」と唸っている。
だけど、そう言いたくもなる。ミアは相変わらず恋愛にも男性にも興味がないようで、サロンではいつも私のそばで過ごしている。アルベルト様はそんな私たちの周りで話に入りたそ〜な顔をするが、ウロウロするばかりで一向に話しかけてはこないのだ。仕方なく私が話を振って会話に入れて差し上げているけれど……。
いいかげん、声を大にして言いたい。
原作漫画の俺様設定どこ行った!?
大ダメージを受けてしまったらしいアルベルト様は、いじいじと指先を弄びながら、「いやしかしミアはアデリナと喋ってる時が一番楽しそうだし邪魔するのは悪いしというかもし迷惑そうな顔されたら俺立ち直れない……」などとブツブツ呟いている。
「仕方ないですわねぇ……」
なんだかアルベルト様が可哀想になった私は、ミアの進路を教えてあげることにした。
「ミアは、王宮女官に内定していますのよ。ふふ、卒業後もミアと会えますわね」
そう言うと、アルベルト様はパアァと顔を輝かせた。
「そ、そうなのか? どこか上位貴族の家の侍女を目指しているとばかり……」
「元々はそのつもりだったみたいですけど、どうせならもっと上を目指してみたらと、わたくしが勧めましたの」
学園の女生徒の中には、在学中すでに婚約者がいて、卒業後はすぐに結婚するという者もいる。
一方で婚約者がいない者は、行儀見習いを兼ねて侍女の職に就くケースが多い。
婚約者のいないミアも、実家の意を受けて伯爵家あたりの侍女を目指していた。
ちなみに、ミアは男爵の庶子だが、意外にも……というか原作漫画の設定と違い、男爵家の人々との関係は良好らしい。
庶子と言っても浮気や不貞の子ではなく、男爵が奥方と婚約する前に付き合っていた平民の恋人との間の子らしいのだ。
ミアの母親は男爵が婚約することを知り、妊娠の事実を隠して身を引いたらしい。男爵が娘の存在を知ったのはミアの母が亡くなった時なのだそうだ。
戸惑う男爵を一喝しミアを引き取ることを決めたのは、男爵夫人だというから感心してしまう。
息子ばかりで娘のいなかった男爵夫人は実の娘同然にミアを可愛がり、ミアも継母や異母弟達とすぐに打ち解けたらしい。
そんな経緯もあって、ミアは良い職に就くか良い家に嫁いで、経済的に苦しい男爵家に恩返ししたいと意気込んでいる。
そんな話を雑談の中で耳にした私は、親友のために一肌脱ぐことにした。
はじめは、我が侯爵家の侍女にとも考えたのだが、親友と主従関係になるのは微妙よね……と思い直し、王宮女官を勧めることにした。
侍女の中でも王宮の侍女や女官は別格である。
王族と身近に接することになるのでそれ自体誉れなことだし、良い縁に繋がることも期待できる。
本来は男爵令嬢が希望してヒョイとなれるものではないのだが、そこはそれ、私は腐っても侯爵家の人間、しかも長年王子の婚約者をしていたので。コネもツテも色々持っているのである。
もちろん、ミアの能力や向上心を見込んでのことだ。
ミアは学園に通った一年で、ずいぶん貴族令嬢としての所作を身につけた。加えて天性の愛嬌とド根性があれば、きっと王宮でもやっていけると思うのだ。
男爵家から王宮女官、さらに王宮侍女ともなれば大出世。男爵家に報いたいというミアの願いはきっと叶うだろう。
……という理由もあるけれど、アルベルト様とどうにかならないかな〜という気持ちがあることも否定しない。
だってこのまま卒業したら、王子であるアルベルト様と男爵令嬢のミア、完全に接点なくなっちゃうよ……。
アルベルト様に新しい婚約者を、という声はすぐにでも出てくるだろうし、ミアの方ももし男爵家から縁談を勧められたら断らないだろう。
アルベルト様の恋を叶えるためには、アルベルト様自身が頑張るしかない。
だというのにこのヘタレっぷり。悪役令嬢もお節介おばさんに転生しちゃうというものだ。
一応ね、アルベルト様のことは友人だと思っているし。ディルク様と婚約するにあたっては、ものすごく尽力してくれたみたいだしね?
だけど、私にできるのはここまでだ。
「あとは殿下次第ですわ」
頑張って! という気持ちを込めてグッと拳を握って見せると、アルベルト様は神妙な顔で頷き、それからふっと表情を緩めた。
「アデリナ、君は本当に人がいいな。ディルクの時といい、いつも他人の幸せばかり考えて」
「あら、それは買いかぶりというものですわ」
だって『推し』の幸せは私の幸せなので!
まぁ、『推し』のハッピーエンドを目指して突き進んだ結果、なんだか思っていたのと違うことになっちゃったわけだけど……。
「俺はアデリナのそういうところ、好ましく思っているよ。もちろん、友人として」
王子様らしいキラキラとした笑顔に一瞬見惚れそうになりながら、私は素直に頷いた。
「わたくしも、殿下のヘタレ……もとい穏やかで優しいところ、好きですわ」
そう言って、私もニコリと笑顔を返す。
友人として、というのはあえて言葉にしなくとも伝わるだろう。
アルベルト様との婚約破棄を回避しようと躍起になっていたあの頃。私はアルベルト様に恋心を抱いてはいなかったけれど、結婚したら穏やかな夫婦関係を築けそうだなと感じていた。それはアルベルト様のこの気性のおかげだったのかもしれないなと、今になって思う。
「原作の俺様設定どこいった!?」なんて思うこともあるけれど、もし原作通りの俺様な性格だったら、こんなふうに友人関係になれたかどうかはわからない。
それに、ミアへの片想いを「頑張れ!」と応援する気持ちになれるのも、アルベルト様がこういう人だからだ。ミアの気持ちを無視して強引なことはしないだろうという信頼があるから。
ただしヘタレもほどほどにしないと、横から誰かに掻っ攫われても知りませんわよ……などと思いつつ、私はアルベルト様と微笑み合ったのだった――。
◇
……というやり取りを一瞬のうちに思い出し、ブワッと血の気が引いた。
あの言葉をディルク様に聞かれていたなんて……!
「ち、違うのです、誤解ですわ! 確かに、好き……みたいなことは言いましたけど、それは友人としてという意味で……!」
「本当に? 恋愛的な意味は?」
「全然! 全く! これっぽっちも!」
ぶんぶんと首を横に振り、ディルク様の瞳をじっと見つめる。絶対に目を逸らしちゃいけない、そんな気がして青い瞳を見つめていたら、ディルク様は眉間の皺はそのままに、深いため息をついた。
ツキンと胸が痛んだ。
ディルク様に呆れられてしまった……。当然のことだと思う。
婚約者でもない男性、それも「元婚約者」という微妙な立場の男性と二人きりになった挙げ句、変な意味ではないとはいえ「好き」だなんて誤解を招くようなことを言うなんて。
自分の軽率な行動を思い返し、情けなさと申し訳なさが募る。
「あの、ごめんなさい。わたくし……」
「違うんだ。……これは自己嫌悪」
「え?」
「あなたのこともアルベルトのことも信じてるのに、つい嫉妬にかられてしまった。あなたの前ではいつだって、余裕のある男でいたいのに……」
そう言って目を逸らすディルク様の目元はほんのりと染まっていて……。
「ふぐっ……!」
やっば。変な声出た。
咄嗟に両手で口元を隠す。私今、絶対ニヨニヨ気持ち悪い顔してる。
いや……だって、こんなの無理でしょ! いつもはクールな『推し』の余裕がない顔とか!! しかもそれを恥じての赤面付きって、尊さが天元突破してるんですけど〜〜〜〜〜!?!?!?
「す……好きすぎてツラいぃ……!」
思わず漏れ出た心の声を、ディルク様が聞き逃してくれるはずもなく。
「……その『好き』って、どういう意味?」
青い瞳がキラリと光り、不安半分、期待半分に私を映す。
「そ、それは……」
前世での最愛の『推し』。
今世でも、誰よりも大切な、私の幸せそのもの。
そこに恋心はなかった、はずだった。
だけど今は……。
とても一言では言い表せない、ディルク様への想い。
どこから、何から言えば伝わるだろう。
かつてディルク様本人に向かって推し語りをしていたときのように、きっとスラスラとは喋れない。
だけど伝えたい。伝えなきゃと、そう思う。
ドキドキと鼓動が速くなる。
真っ赤に染まった顔で、『推し』の壁ドンに囚われたまま、私はゆっくりと口を開いた。
〈了〉
最後までお読み頂きありがとうございました!