契約
僕は今まで惨めな人生を送ってきた。
現在僕は十九歳、そして明日には二十歳になる運命だ。
十九年も現世で生きてきたのにもかかわらず、
何の学びもなく、何も生産することのない只の粗大ゴミ。
今まで本当に何もない人生だった。
そして、その人生はこれからも変化することは無いだろう。
僕の数少ない経験則で導き出されたその事実に、僕は悲観的にもなれなかった。
僕が何もない人生を送っているということは
当然のことだろうと自分でも思っていた。
何にも挑戦せず、勇気を振り絞らず、何も努力をせず。
そんなの、何も無いのと一緒だ、存在していないのと同じだ。
一緒に過ごしている家族にも申し訳ない気持ちになる。
こんな何の価値もない只のゴミと一緒の空気を吸うのは気分が良くないだろう。
先月、皮肉にも僕をこの歳まで育ててくれた親戚の叔父さんが言っていた。
「あの子ももう少し積極的になればなぁ...」
「良い人の一人や二人見つかると思うのになぁ...」
その言葉を、叔父さんの奥さんが制した。
「まあまあ、まだあの子には時間が必要なのよ...」
辛気臭い和室に腰を下ろした二人が小声で話していた。
僕はその部屋の横にある階段に座って二人の話を聞いていた。
息を殺していたせいか、二人には僕の存在は気づかれていなかった。
襖越しの声は、そこはかとなく涙ぐんでいるように聞こえた。
「まあ...俺らはあの子が自分の意志で自立するまで支えるだけだ...」
「それ以上は求めるもんじゃない...」
僕はその日から、二人に足を向けて寝れなかった。
僕の父親は漁師だったらしい。
僕が十歳の頃にはもう死んでしまったけれど。
毎日仕事で疲れていたはずなのに、僕の前だけでは笑顔を欠かさなかった。
事実、父親との会話の思い出は笑顔の表情しか浮かばなかった。
父親は水難事故で亡くなってしまったらしい。
嵐が吹いていた悪天候の日、大波に船が攫われて
父親は深い海の底に投げ出されたと父親の同僚から聞いた。
父親の同僚からは土下座で謝られた。
俺の責任だ、責めるなら俺を責めてくれ、と。
噂程度に聞いていたあまり縁の無かった近所のおばさんからも言われたよ。
お気の毒に、ってさ。
笑える話さ。
でも僕はお気の毒に、なんて他人に憐れに思われる謂れなんて一切無かったね。
僕は考えていたんだ、父親は幸せだったんだってさ。
仕事にするほど大好きな海で窒息死できて、その死体は大好きなお魚たちに食べられて...ってね。
まあ父親はあんな所で人生を終える気は無かったとは思ってたけどね。
毎日の仕事に精を出していて、更に家庭円満だった父親には尊敬しちゃうよ。
命が途切れるまでの間、皆が理想とするような素晴らしい人生を歩んでいたんじゃないのかな。
僕は息子だということ以外はね。
明日で二十歳を迎えてしまう憐れで惨めな僕は、田舎町を歩いていた。
田んぼと緑の生い茂った山しか見えないような田舎だったよ、ここは。
父親と一緒に住んでいた町に比べたら、僻地に思えるような場所だけど、
僕はこの場所の雰囲気が心地良かった。
どうしてかな...自然が多いからなのかな...景色が良いからなのかな...
でもこの場所の唯一の欠点は
この巨大な自然の中では僕が惨めな存在になってしまうということだ。
たまに外を散歩していると、野生動物を発見する時がある。
それはシカとか...タヌキとか...リスとかね。
先週散歩した時は、親子連れのキツネを見つけたよ。
子キツネが母親にお世話されていて、とてもほんわかしたような気分になったね。
でも、そうやって自然の中で命がけで生きている動物と今の自分を重ねて、
どれだけ今の自分が怠惰な生活を送っているかを自覚できてしまうのが欠点なんだ。
まあ、それは全部僕が原因なんだけど。
暫く散歩をしていると、小さな公園を見つけた。
三人ほど座れそうなベンチが二つある他には、子供が遊ぶような砂場と
申し訳程度に大きめのタイヤが数個地面に埋まっているだけの質素な公園だった。
それでも、今の僕の気分には最適な公園だったよ。
ベンチに座っている自分を客観視することで、今よりもっと惨めな気分になれたからね。
昼間の公園に何故か男が一人、更に悲観的な顔をしているという状況。
しかも砂場では、小学生くらいの男女二人が砂山を作って遊んでいたんだ。
その様子をしかめっ面で見ている男は通報されても仕方が無いのかもしれない。
しかもその男、小学生の男女の話に聞き耳を立てていたんだよ、
本当に不審者みたいだよね、自分でも思ってるよ。
「大人になったら、僕が契約してあげるよ!」
小学生の男の方からそんな声が聞こえた。
「まあ、してあげないこともないけど。」
小学生の女の方は冗談を受け流すかのように澄ました態度だった。
その男の子が約束を果たせるまでに、どんな苦労があるのかな。
想像するだけで身震いしてしまった。
努力をしたことがない僕には刺激が強すぎたみたいだ。
しかも、その小学生の男は小学生の女と契約の約束をしていた。
それが意味しているのは、女と契約の約束をしたことが一度も無い僕の人生よりも、
その小学生の男の人生の方が充実しているということだ。
本当に、今まで僕が生きてきた意味は何だったんだろうな。
ベンチからおもりが置かれたような重い腰を上げて
ふらふらと公園の外に出た。
もう公園の中に居たい気分ではなかった。
自分の矜持の為に言い訳をすると、決して小学生の男女が原因というわけではない。
只単に、見慣れた公園の景色に飽きてしまっただけなのだ。
僕は家までの帰り道を歩いていた。明日にはもう二十歳になってしまうというのに
こんな所で道草を食っている自分は本当にどうしようもない人間なのだと思ってしまう。
もっと二十歳になる前に成せたことはあっただろうに、
例えば...契約とか...
「あっ...。」
僕は思考を巡らせるのに夢中になり転んでしまった。
どうやら道端に放置されていた俵を踏んでしまったみたいだ。
膝に擦り傷ができていて、血が足元まで流れ出ていた。
しかも僕にはその流血を止める術は持ち合わせていなかった。
ああ、今日は最悪な一日なのかもしれない。
膝にズキズキとした痛みを感じながら、家までの帰り道を歩いていた。
帰り途中、気付けば僕は頬を濡らしていた。
津波のように頬を伝っている涙を止めることはできなかった。
どうして僕は涙を流しているのだろう。
自分でも自分の心が理解できなかった。
何も成せなかったからなのだろうか。何も達成できなかったからなのだろうか。
僕が幼い頃に夢見ていた幸せな家庭、もう叶うことは無い幻想だとしても。
心の底では夢見ていたのだろうか、誰かが僕の儚い夢を叶えてくれると。
でも、僕の前にそんな人は現れるはずもなく、もう僕は二十歳の時を迎えようとしていた。
その事実に、僕は涙を流していたのかもしれない。
全ての原因は僕の自業自得だというのに、なんという自己中心的な性格をしているのか。
僕は今更、自分の事が嫌いになりそうだった。
自分の家の扉を開けて、玄関で靴を脱いだ。
さっきまでは下を向いていて分からなかったけど
正面に人が立っていることに気づいた。
「ちょっと...どこ行っていたの...」
叔父さんの奥さんの声だ。
「膝から血を流しているじゃない...」
「いえ...大丈夫です...気にしないでください...」
「大丈夫なわけないじゃない...早くこっちに来なさい。」
「包帯を巻いてあげるわ。」
「は...はい...面倒かけてすみません...」
叔父さんの奥さんに包帯を巻いてもらった。
そのおかげで膝の痛みは無くなった。
こんな僕に優しくしてくれるなんて、本当に慈悲深い人だ。
でも心の中では、僕をそこらの道端に捨ててしまいたいと思っているのだろうか。
いや...こんなことを考えるのはやめよう。
これ以上悲観的になってしまうと、自分でも何をするか分からなかった。
今はただ...ベッドで寝れるだけで幸せなのかもしれない。
二十歳の誕生日の前日
ベッドでボーっと天井を見つめていた僕はある出来事を思い出してしまった。
半年前の叔父さんの娘との出来事だった。
「ねぇ...アイス買ってきてよ...」
「すみません...」
「はぁ?今日凄い暑いからアイス買ってきてって言ってるだけなんですけどー。」
「すみません、今忙しいんです。」
「後にしてくれませんか。」
「はあ...どういうこと?」
「うちの家の子じゃない癖に、なんでそんなに偉そうなわけ?」
「あ...はい...すみません...」
「私のパパとママの優しさで養ってもらってる立場なくせに。」
「私に対してその態度はどういうつもりなわけ?」
「はい...すみません...」
「はっ、まだ十九にもなって契約も結べてないんでしょ?」
「こんなどうしようも無い奴、契約も結べなくて当然ね。」
(こんなどうしようも無い奴、契約も結べなくて当然ね...。)
彼女の言葉が今も頭の中で反芻していた。
そんなの言われるまでも無く自分自身が一番理解していた。
早く僕と契約してくれる人を見つけなければ
僕は近い将来天涯孤独の身になってしまうのだろう。
そんなの自分が一番分かっているんだ...。
ふとベッドから起き上がって窓の外を眺めた。
夜空では名前も知らない星々が光り輝いていた。
その数は僕の視界に入っている中だけでも無数にも等しい。
それでもそれらの星々は、我々の住んでいる惑星から見ればちっぽけな存在に過ぎない。
我々の惑星に何の影響もなく、もし消滅してしまったとしてもそれは変わらない。
しかしそれは、向こう側の星々から見た我々の惑星も同じことだろう。
僕はそんなちっぽけな惑星のちっぽけな存在だ。
たとえ小さな存在が大げさなため息を吐いたとしても、誰の耳にも届くことはないだろう。
彼女が言っていた契約とは二十の歳までに結ばなければいけないものだ。
契りを結んだ異性の二人は一生涯離れることは許されない。
契約相手に嘘を吐くことは許されず、互いに永遠の愛を誓わなければならない。
互いに信じあい、尊敬し合い、愛を育み合う、そんな夢見心地な契約を結ぶのだ。
でも、この契約の本質はそこにはない。
本物の愛を見つけるために契約を結ぶ二人など、この世には存在していないだろう。
皆が契約を結び愛を誓いあう理由は、死を恐れていることに他ならないのだ。
死は動物的本能として恐れるものだ、死んでしまったら何も残らない。
勿論、その存在が生きてきた世界に軌跡は刻まれるのだろうが、
その者の魂や記憶は何処に行ってしまうのだろうか。
そのような幼心の単純な疑問を解決してくれる存在など居ない。
この世に存在している動物は知らないのだ。
知る由もない、だって知っている者はもうこの世には存在していないのだから。
死に恐怖を抱かない者など、動物ではない人間の超越的存在なのだろう。
例えば、神様...とかね。
僕は宗教も神様も信じていないけれど。
契約という名の呪いは、死を恐れた愚者が作った只の空想のようなものなのだ。
二人で契りを結ぶことで、互いに存在を忘れないように、
この世界から消えてしまわないように、という願掛けのような約束。
それでも人々はその願掛けに縋ることで、死に対する恐怖を軽減させるのだ。
僕は十九の歳になっても、まだ契約者が居なかった。
二十の歳までに契約を結べなかった人間は「無」になってしまうという噂話があった。
それは、その噂話を信じた人間が作ったこの世界のルールでもあり
だからこそ幼い頃から契約は素晴らしいものだと親から躾けられるのだ。
そして人々はその噂話を過度に恐れ、人間を愛するという呪いの契約を結んでしまうのだ。
でも、僕にはその機会さえ訪れなかったみたいだ。
契約をせず、二十の歳を迎えてしまった僕みたいな人間はどうなってしまうのだろうか。
本当に噂通り、「無」という存在になってしまうのだろうか。
でもそんなこと、今考えても仕方がない。
だってそれはもう回避できない運命なのだから。
僕はその事実を受け入れる他、方法は無いのだ。
その事実も明日になれば全てが判明するだろう。
ただ僕は目を瞑り、思考を停止させ横になるだけで明日は訪れるのだ。
それでも僕は瞼を閉じようとしても、目からは涙が止まらなかった。
どうしてだろう、胸を激しく鳴らす心臓の鼓動が抑えられなかった。
僕は心の何処かで変化を求めているのかもしれない。
明日になれば、何かが変わるのではないか。
僕の惨めな人生に、光が差すのではないか。
そんな希望を捨てずにはいられなかった。
だから僕はその希望を胸に、素晴らしい日になるであろう明日を迎えるのだ。
おやすみなさい、世界。
そしておはよう、明日。
「ねー?冷蔵庫になんか入ってるよー?」
「あれ..?誕生日ケーキ...?なんで誕生日ケーキなんて用意してるの?」
「今日って誰かの誕生日だったっけ...?」
「ん...分からん...真美子が買ってきたのかもしれない...」
「あら..どうしたの、みんな揃って。」
「なあ、真美子...おまえケーキでも買ってきたか...?」
「いえ...私はなにも...」
「ん-?じゃあこれは誰が買ってきたケーキなんだ...?」
「誰のでもないなら、私食べちゃっていいー?」
「あら...よく見たらホールケーキじゃない...」
「立派なケーキだこと...」
「おい...美優...ケーキは皆で分けた方が美味いんだぞー。」
「俺にも分けてくれよ。」
「私にも分けてください、久しぶりに甘いものをたべたくなってきました。」
「えー分かったよー。」
「じゃあ三等分ね。」
その日、家族からは笑顔が絶えなかった。