6 誰も追いつけないところまで
「!?」
こんな真っ暗な山の中に?人?
その声の主が、足元を掻き分けてこっちに近付いているような気がした。
うそっ?!
背筋が凍る。
それは、幽霊やお化けが出るより怖いものに思えた。来た道を振り返り必死で逃げる。もう、道や方角が正確かなんて考えてもいなかった。
けれど反対を向いて駆け出そうとしたら、またか何かにぶつかるので、声にならない悲鳴を上げて方向を変える。
とにかく、とにかく必死で逃げた。
ここまで逃げたのだ。東京から、ここまで。
もし山に迷って力尽きても、道に滑落しても、
男にはつかまりたくない。
そして、雑木林を抜けた。
小さな電灯が1か所あるだけの暗い駐車場まで戻って来ると、ポツンと1台しかない車に直行した。鍵が掛かっている。こんなに無心で山まで行ったのに、癖で掛けたのか何も覚えていない。ポケットを漁るとどうにかキーが入っていて、急いで乗り込み車を発車させた。
その時もとにかく必死で覚えていない。
追われていたのかも、そうでないのかも。
山道をずっとずっと走り抜ける。ナビも使わずに。
そして、少し先に住宅の光が見える場所まで来て我に返った。
!
「……っ?……」
今はどこ?
今、まだこの場所でも怖い。
来た道を振り向くのが怖くて、バックミラーで後ろを確認すると、追ってくる者もなく、寂しいほどの少ない電灯。道のサイドの見ると、木々も見えないほど真っ暗な山の中。
ぞっとした。
そして、あの声は?あんな暗闇に男。こんな広い山で偶然に会うものなのか。もし掴まっていたらと震えるけれど、まだここは一人だ。急いでもっと光のある場所まで走った。
けれど、その時もまだどうにかしていたのだろう。
次の日の朝、車の中で、昨夜の自分が信じられなかった。今ですら、生きている感覚がない。
潮の香りがする海岸沿い。
一度ここに来てみたかったのか。
日の出も曖昧な、昨夜のことを思い出す。
もしかしたらあの声は幻覚?山に行ったことさえも?
あんな道。どうやって入っていけたのだろう。車であそこまで行くのさえ恐ろしいのに。あんな山の中を歩いたのか。
少し古い型の車だ。もし興奮していてキーを車に入れたまま山に入っていたら、ロックされて車に乗れなかったかもしれない。そうしたら、あの男に追いつかれていただろう。
足で山に入った時も、ただ必死になって走り、よく雑木林から元の場所に戻ってくることができたなと不思議だ。遭難してもおかしくなかった。やはり幻覚だったのか。
けれど、自分の服を見ると、たくさんの草や枯れ葉が付いていた。
もう一度、目前に広がる海を眺める。
静かに。
ただ静かに。
朝のさざ波。
「…………」
死んでしまった両親と、
東京の家で待っている両親。
どちらの元に行こう。
でも、東京に帰っても、もうだめかもしれない。
「………」
本当は……
本当は、実の両親が死んだのかは確実には分かっていない。
中学になって親族に会いに行った時、自分は施設に捨てられたのだと聞いた。
両親は自分を愛していなかったのかもしれない。
でも、可能性に賭けてみることはできるだろう。
死んだ先に両親がいたら、無条件に自分を受け入れてくれるだろうか。
昨日みたいに、大きな暗い山に引き込まれるように、
闇に消えたいとはもう思わない。
一でも度だけ、ただ自分を受け入れてほしい。
休みたいだけだ。少しだけ。
でも、どこに?
そこに行くにはどうすればいいの?
目前に広がる海と段差。潮の匂い。
前に進む?
車ごと?
違う、車だけはお父さんに返さないと。
頭が二転三転する。
ここから消えたい。存在すらなくなってほしい。思考すら消えてほしい。
そんなふうに疲れてゲッソリしていた時に、
スマホの電源を切っていたのに、陽や美香たちが朝の海に駆けて来たのだった。
***
ふと起きると既に朝。
窓を見て思う。本当の朝だ。
あの頃ではなく、章に出会ってからの今。
ほっともし、がっかりもする。
結局この現実を生きるのかと。
スマホを見ると、美香から『会社に行くね。尚香は今日はよく休んで。冷蔵庫の中、好きな物食べてね。シンクにシリアルも置いておいたから』とメッセージがあり、他にもジノンシーのいつもの社員や久保木、ナオや真理からメッセージや着信が入っていた。
章からはない。
今は他のメッセージも見たくないし、見る勇気もない。着信も出たくないので取り敢えずもう一度布団にもぐる。
けれど、尚香は午後から出勤した。
「尚香さん!!」
理由を聞いていた兼代や柚木が驚く。川田に至っては泣きそうだ。
「金本さん、大丈夫だったんですか?」
「……どうだろ、分からない。知ってたの?」
「兼代さんが知っていたので、脅して聞いてしまいました。ニュースは自体は知ってたし。」
「尚香さん……」
「悪いことはしていないので問題はありません。」
尚香は、そこは襟を正した。過去を思えば、みんな精一杯助けてくれたのだ。顔を上げるべきだ。
心配なのは、風評だ。会社や、その先。
「何か聞かれた時の返答を考えないと……。」
今日は、今後の対応を部長たちに相談するために来たのだ。もし必要なら仕事を整理していく必要もあるだろう。
「金本さん、そこまではまだ早くないか?」
仕事の整理と言い出すと、さすがに部長が驚く。
「でも、現実そういうことにもなってますし。」
「もう少し世の中の動きを見てみないと分からないよ?」
「………」
「時代自体もどんどん変わるし。」
「でも、どんなに世の中が味方してくれる時代に変わっても……一度こういうことになると、現実世界は味方してくれません。」
身にしみて分かっている。今も尚香は、ネットでは相手を懲戒解雇に陥れた人間でもあるのだ。それに、性関連や大手相手に問題事を起こしたことが知られると、何であれ相手は構える。腫れ物に触れるように扱われ、相手も仕事がしにくいことだろう。
「現実現実って、金本さん、今の私たちの関係や心配している現実も否定するの?私たち悪く思ってないよ。」
「……ありがとうございます。」
それに関しては素直にお礼を言っておく。ただ、ジノンシーだってみんなが許容するわけではない。友人としてであれ20歳のバンドボーカルと付き合いがあると知られれば、結局そういうことだろうと思う人がいるのも分かる。自分だって、そんな相手には一線を引いたかもしれない。仕事なら尚更だ。
行き過ぎた書き込みに関しては、基本イットシーが対応するが、場合によっては尚香も動く。ただ記事に社名まで上がっていないので、一旦ジノンシーは関与しない方針だ。
***
「これ、けっこうひどいですね……」
イットシーの事務所でナオが驚く。
際沢の事件、書き込みに尚香の名前や顔は出ていないが、本名を丸を使って伏字にしているものがあり、いくつかの書き込みで丸の位置を変えてあって、合わせれば本名が出てしまう。かなり消したと聞いているが、間に合わないほどなのか、その後に書かれたのか。
「これ、美香さんに知らせておきましょう……。消さないと。」
古い書き込みはイットシーが関わっていないので、尚香の関係者にお願いするしかない。
イットシースタッフ。功の書き込みには慣れてはいても、対象が一般女性だと読むことすら気力を使う。なぜこんなことができるのかと。
「これも……ですかね。」
もう一人のスタッフが自分の調べた記事を見せた。
「…え……」
それを読んで、引いてしまうナオ。
実は、尚香に対して最初に匿名で攻撃をしたのは、一緒に際沢の支店を担当していた上司であった。
彼は際沢の案件で新規の仕事が獲得出来たら、昇進を約束されていたのだ。それが、新人の尚香のせいでなくなってしまった。せめて、自分の昇進が済んでから逮捕でも裁判でも何でもすればよかったのにと、同僚に吐き出していた。そして、冴えない容姿だとひどくたくさん書き込んでいたらしい。
こんなポッと出のつまらない女に勤務10年以上の業績をダメにされたと。
「これは人間不信になるよね……」
芸能界でもそういうことは多々あるが、今までの経過の上にこれをされたらさすがにきつい。自分の頼っていた上司に見放され………
『その上司が、「あんなにお膳立てしたのにあの男もクソだ」と言っていた』という匿名の書き込みもある。
「あれ?これってもしかして………」
「あくまで可能性ですが、そいう可能性もありますよね。」
この男は知っていたのだ。あの支店長がそういう人間だと。
「……あくまで推測の域を出ませんが………」
「……はあ………」
「まあ、よかったですよ。そういうのがあぶり出されて。」
「……こんな騒ぎにすらならなければね……。」
ダメージもすごいだろうし、あぶり出されても一度示談にしてしまえば、もう尚香側は何もできない。せめてこの上司が、あんな場所でそんな行為に及ぶとまでは考えていなかったと思いたい。口説ける場を与えたぐらいだと。
「尚香さん、よくここまで乗り切りましたね……。」
「普通社会復帰できないですよ。まだ4年経つかどうかじゃないですか。」
「………てか、普通無理じゃない?
際沢って、全国規模なんだけど?」
「尚香さん側は、勤務先も味方してくれなかったってことは、個人ですよね?」
「潰れないですか?」
立場も、心も。
「…………」
みんな唖然とする。