5 真っ暗な、山の中
※暴行に関わることや夜の山のシーンがあります。苦手な方はお控えください。
それから、きちんとした対処を望めば望むほど、周囲に敵意を持たれ、話は拗れる。
結局尚香は、誰にも助けてもらえなかった。
唯一、異動先の部署の人たちが無理しないようにと言ってくれただけだ。
最終的に美香にまた相談し、美香も周囲に相談。
当時、異常な状態で飛び出した尚香を目撃しているものも多い。支店長室にはないが、大きな職場は現在なら監視カメラがあるオフィスも多いので、テナント入り口や共有スペースなど状況を確認できるだろう。
個人で被害届を出すが、それもうまくいかない。
いつの間にか、尚香が際沢の支店長を誘惑したという話にすり替わっていたのだ。以前、そういうことをしていた人間だと。
大企業の支店で起こった争いは、疑惑報道として当時ネットのニュースにもなった。
そして、あの日は忘れない。
たくさんの人がいる前で、女性に両肩を掴まれて揺すられる。
「あんたのせいでうちの家族が壊れたんだ!!」
目を充血させて突っ掛かるのは、あの支店長の妻だった。娘が学校に行けないと。
「未遂だったんだから、大人しくしていればいいのに!!なんのつもりで!!!」
未遂?
一瞬怒りが湧き、戸惑いも起こる。
法的には暴行に未遂はない。
今までの人生で、いろんな怒りをぶつけられた。怒鳴られることもあった。
でも、あんなに目が血走った激しいものは初めてだった。
けれど、もう引けなかった。
もう、尚香が個人でどうにかなる話ではなくなっていたのだ。
他の被害者には、お願いしますという人もいれば、掘り起こさないでほしいという人もいた。個人的思いと、社会的通念の中で尚香も揺れた。支店以外の際沢からも運営や経済に影響を与えると責められた。
けれど、さらに揉めて、世間に実名は伏せられたが、支店以外も含め他数名の加害者の名前が出て来たのだ。一時期、際沢系列の株も下がる。
支店長の娘が自殺未遂をしたのは、ある女性が現われ、尚香たちの主張がやっと通った後だった。
____
その女性は、突然尚香たちの前に現れた。
『金本さん、大丈夫ですよ。私はあなたの味方です。』
綺麗な女性が、尚香をそう励ます。柔らかに巻いた髪で、高そうなアクセサリーをした気の強そうな女性だった。
『あいつだけ、逃げようなんて絶対に許さない。』
その女性の顔を、尚香はあまり覚えていない。
尚香たちの訴えが認められるようになったのは、その女性が証言に立ってからだった。
彼女は支店長の愛人だった。
妊娠したから生まれたら認知してほしいというと、別れてくれと言い出したのだ。彼女は知っていた。彼が他の女性にも多く手を出してきたことを。相手の合意の時もあれば、雪崩込むように無理やりなこともあった。あいつがああいうことをしていたと、他の加害者の名前も出て来ていた。ベッドで面白おかしく話されたのだから、よく知っている。
そして、愛情が憎しみに変わってから、多くの会話を録音していたのだ。
彼女が証言を出して、風向きが変わると、ぼちぼちと会社の不満や不備を訴える者、尚香を助ける証言をする者も出て来た。他に被害があった女性の中でカウンセリングに通っている人を知り、尚香は被害者支援の施設に通ったりもした。
暴行だけは被害を貫き、後は和解解決で済ませた。
相手を冤罪にさせた疑いがもたれたまま、被害を取り下げるのは、後々損になると判断したからだ。後はもう、たたかえなかった。これ以上何かを続けることは限界だったのだ。
けれど、ネット上にあげられた批判は消えない。
尚香側が勝ったという話は、数件ニュースに載っただけ。探さないと見付からないような、あっという間に消えるニュースとして。
みんな、こんな事件どうでもよかったのかというように、ほとんど目にもされない。
被害にあった事件だったのに、それでも枕営業だと言われ、不細工が勘違いしていると言われ、女性が社会に出るから悪いと言われ、掲示板にたくさんのレスが立てられ、脅迫や身バレの内容も書かれる。
最後までされなかったのに、大事にして金をむしり取ったとも言われた。経費を差し引いて、協力してくれた団体などに寄付をしたら、残ったお金などなかったのに。
擁護の声も上がるが、今度はそうした人たちが叩かれる。
実社会でも尚香は煙たがられた。
この件で、婚約者にも見放された。
味方になります。女性のために闘いましょうという人もいたが、ただ疲れていた。誰とも闘いたくなかったし、誰にも会いたくなかった。
そして尚香は、事が全て済むと逃げるように東京を離れる。
小さい頃を過ごした東海圏でアパートを借り、アルバイトや日雇い仕事をしながら生きていた。そちらの知り合いの誰にも合わず。
直接雇用のアルバイトは経歴を略して入ることができたが、派遣登録はコンピューター入力するので実歴が必要。経歴を書くと有名大や東京の会社が並ぶので、驚かれて固定の職場に入れるよう派遣社員の会社を進められるも、工場や倉庫、スーパーなどを回った。
履歴書に、最後の職歴だけは書くことはできなかった。
尚香の気持ちが落ち着き、見かねた美香が数回会いに行き、仕事を準備して東京に戻ってくるよう言いに行くまで。
____
懐かしい誰かが、自分に語る。
『金本さん、何で言ってくれなかったんですか?』
でも、尚香は何も言わない。言えない。何と答えたらいいのか分からない。
彼が心配してくれてるのは分かる。
けれど……でも………
『……今はやめてあげて。』
『あ、美香さん、すみません……。』
もう会うこともないと思った、その人が困った顔をして、どこにも行きどころがない。
______
息が苦しい。
もがくように髪の毛を触ると、ゴソッと髪の束が手に絡む。
「っ?!」
頭に大きな禿ができていた。
「!」
でも、禿げたことがショックなのか、これまでのことがショックなのか、自分の心が分からない。
あの時、ただ静かに退社すれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
未だ、もっと他のやり方があったのではとも思う。
「はぁ、はぁ…」
「尚香………」
「はぁ、はぁ、はぁ…」
どうしたらよかったの?
「尚香!!」
「!」
ハッと目を覚ますと、そこには心配そうに見つめる帰宅した美香がいた。
あれ?ここは?
夢?現実?
「大丈夫?唸ってたから。」
「………」
慌てて手を眺めても、もう掴んだ黒い髪はない。今が現実が分からず尚香は何度か頭を擦るが、禿げた部分はなかった。
美香の家に来て、毛布を被って寝てしまったのだ。
そうだ、髪はもう回復していた。このままではいけないと、あれから数年して初めて男性の美容師さんでもいいと思ったのが、章とお見合いした日だった。女性の担当さんが少し時間が押して尚香を見られなくて、こうなったら、もう、一歩進もうと。
「………美香?」
「大丈夫。ここには私たちしかいないから。心配しないで。
待ってね。着替えてくるから。もう少し横になってて。」
そして二人で簡単な夕食を囲む。
「LUSHの方は?今年からコンサートやツアー増えるんだよね?」
イットシーを訪問した美香に、尚香が心配なことを尋ねた。
「いろいろ言われてはいるみたいだけど、コンサートの方は大丈夫みたい。離れない一定のファン層がいるし、チケット取るのが難しいから、今ならって思う人もいて、かえってアクセスが増えてるんだって。興味半分もあるだろうけど。」
「そっか……」
少しホッとするも、気持ちは落ち付かない。
「でも宣伝持ってるから……」
「そこは尚香が心配することじゃないよ。イットシーでどうにかするしかないし。」
「……いろいろ書かれてるかな………」
「……………今、ネットは見ない方がいいね。でも、大丈夫だよ。」
根拠はないが。
「もっと食べたら?」
「……うん。」
力が抜ける。
「美香、私ね、ちょっと自信がないんだよ。」
尚香は静かに部屋の隅を見る。
「……なにが?」
「少しずるいんだけどさ、イットシーの公文で、私の立場とか書いてあるの読んだんだけど……」
該当する女性に、記事のような非はないということ。そして、知人ではあるが功との関係はないということだ。
「……あれだけ否定して、章君とは関係がなくてそれでよかったんだけど、
今年になって……今年はまだなったばっかりなんだけど、……………章君がいないと寂しいな……とか思っちゃった。」
「…………」
「……別に付き合いたいとかでなくて、うちに馴染んでたから、いるのが当たり前みたいで………。もしかしたら来るかもって、お母さん小さいおせち準備してたみたい。」
特別に作ったわけでなく、家で出した物を重箱の一段に詰めていたのだ。ここ最近は昔のように豪華なおせちは作らないので気持ち程度だが、今年は章が好きだからとごぼうの肉巻きは作っていた。
でも、こうなったらもう来ることもできないだろう。
「しょうがないよ。あれだけちょくちょく来てたら、誰だってさみしく思うでしょ。」
尚香がいなくても自宅に行っていたのだ。
***
その夜も、胸が苦しい。
走る。
また自分が走る。
真っ暗だ。全てが真っ暗。
あの時は多分、まともな思考をしていなかった。
少しだけ、自分を第三者のように見る自分もいる。
けれど、行き詰っていた。
見えない足元を掻き分ける。
いろんなことが終わったのに、消えない罵倒。
自分の人生が全部ネットに書かれている。決められるように。
淫猥な言葉が飛び交い、そういう人間だと言われた。
それ自体が、ネットで自分の呼び名になっていた。
被害を訴えれば枕のくせにと言われ、示談にすれば弱者とか弱虫とか、弱みがあるから被害と名乗れないくせにと言われた。
真っ暗な、真っ暗な、真っ暗な闇。
あちこちを車で走り、誰にも見付からない場所に行きたくて、引き込まれるように山に入って行く。
暗く、真っ暗にうねる山道。
夜の、真っ暗な山に。
車を降りて、走り出す。何も恐れずに、奥へ、奥へと。
もう、帰って来れない場所まで行こうと。暗ければ暗いほどよいと思った。
自分の中の警告も聴こえない。
道があるのかも分からなくて時々躓いたり足がぶつかる。でも進む。
ここまでは誰も追って来れないだろう。
自分さえも。
それなのに、ある場所で、急にガツッと服の後ろ首を引かれたのだ。
「ひっ?!!」
そこでハッとする。
人?
自分は今どこに?今のは?木の枝?野生動物?鳥?
でもまるで、人に引っ張られたような強さと感覚。
「?……」
急に全てが恐ろしくなった。
……あれ?
ここは?
真っ暗だ。道も何も見えない。自分はなぜこんなんところに?
自分がいなくなったら、お父さんやお母さんが心配するだろう。養子の面倒を見られなかったと責められるかもしれない。一緒に旅行も行った思い出の車でここまで来てしまった。
帰ろう、帰らないと。でもどうやって?
その時声がした。
「誰だ!!」
?!
男の低い声。怒ったように怒鳴る、ひどく恐ろしい声。