42 敗北感
「改めまして、私、武田啓太と申します。」
「…………」
尚香はリビングのソファーで向かい合って、その名前に不思議な思いになる。
『武田』
それは、尚香の元々の名字だ。
実の両親の。
尚香の本当の名前は、武田尚香である。
「私は妻の、武田由李子です。」
「金本尚香と申します。」
というと、啓太が立ち上がって手を出してくるので固く握手をして、奥さんとも手を握る。
「私は君の父の信之君の年の離れた従弟になるんだ。」
「………」
「……尚香ちゃん、本当に申し訳なかった………。あの頃自分たちもまだ若くて何もできなくて……」
「……いえ……。いい両親に恵まれましたので。」
と言うと、奥さんの方が泣き出してしまった。
尚香は中学生の時引き合わされた親戚を思い出すが、啓太さんは記憶にない。
「私たちは尚香ちゃんに会わせてもらえなかったんだ。その場所で顔は見て、挨拶しようと思ったんだけど、目上の人間でどうにかすると下がらされて………」
「……………」
幼い子供がいる若い夫婦。
さすがに思春期の大きな子供は引き取れず対象外とされた。それでも啓太としては従兄弟同士の関係。尚香の両親にも好感を抱いていたらしい。せめて仲のいい叔父さんになれたらと思ったが、それも叶わなかった。
あの日、初めて武田家に訪れた時、
期待した面会にならず、尚香に一番申し訳ない顔をしたのは、お父さんとお母さんだった。
落ち込んでしまった尚香を慰めた方がいいのか、励ました方がいいのか、一緒に怒った方がいいのか。全ての願いをこんな形で潰されて、尚香に向ける顔が無いように戸惑っていたお父さん。
その後、尚香の手をしっかり握ったまま、お父さんは帰って来た世田谷の家の玄関をくぐった。
途方に暮れていたお父さんを思い出すと、胸が締め付けられるように痛い。
今後は尚香の目に少しだけ涙が溜まる。
「………尚香ちゃん!」
「……父が……」
「………父が………あの……その……………」
何が言いたいのか分からなくなる。
「………大丈夫です……。」
「私、尚香ちゃんと食事として仲良くなれるって楽しみにしてたのに……」
「私たちはね、信之君にいろいろお世話になっててね。」
それから、少し近況や世間話になる。
「あ、父からです。」
と、尚香は父からのお土産の菓子箱も出した。
すると、そこに玄関からまた誰か来る。
「ただいまー!」
と、挨拶をしたのは活発そうな大学生の娘だ。
「初めまして、実宇奈と言います。」
「実宇奈ちゃん……」
子供は4人もいるそうで、今自宅にいるのは実宇奈と先の大和だけ。上の兄は、世界をまたにかけてほしいと『世界』と名付けたら本当に中学生で親戚のいるオーストラリアに留学してしまい、次女は『宇海』と名付けたら同じく高校でニュージーランドに行ってしまったらしい。
長女実宇奈も、今年からマルタと言うヨーロッパの国に留学することになっている。お父さんとしては、日本の大学に通ってほしかったらしいが、バイト代や奨学金も含め、親の負担だけにはしないと言われてしまい、止めるわけにもいかなくなってしまったのだ。
少し会話をしてから、実宇奈は2階に上がっていった。
尚香は安心する。あの時に出会った親戚があまりにも印象が良くなくて、ドキドキしていた。でもいい人たちだった。
そしてびっくり。
実宇奈が先の大和とかいう子を、無理やり2階から連れて来たのだ。
「あ?なんだよ!」
「挨拶くらいしなさいよ!」
「ほっとけよ!!」
「あんたのお姉ちゃんだよ?又従姉!!」
「又従姉って、だから何なんだよ!」
実宇奈が大和を尚香の近くまで連れてくる。
「はい、大和。挨拶しな!」
「…………はぁ……」
と、大和が嫌な感じを丸出しする。
「尚香ちゃんに、失礼だろ。」
「大和!実宇も連れて来ないで!」
と母が怒るけれど、難しい歳なのであろう。
尚香としては、嫌がっている子まで無理させなくてもいいのにと思うので、大和君の味方をする。
「先、挨拶してもらったから大丈夫ですよ。」
「え?」
「は?大和したの?」
「してます。『ちわ』って。かわいいですよね。」
「っ?!」
「!!」
ここで皆さん。大和当人だけでなく、全員驚いてしまう。
かわいい??
「!」
尚香も、あ、しまった……と思う。
最近、章を相手にしていたので、それよりは小柄で子供っぽい大和君がかわいく見えてしまった。高校生くらいだろうか。少し茶髪でワックスで髪を立て、ブカッと着たトレーナーとパンツ。イキっている感じでも、章の銀バンに来ているファンたちよりは落ち着いている。尚香は、頭に刈込を入れていたり、口や鼻にピアスをしている人たちをLUSH+のライブで初めて見たのだ。あの時驚き過ぎてもう慣れてしまった。
それに姉に引っ張られたからと、姉を跳ね除けずここまで来てしまうとは。
かわいいではないか。
本当に反抗していたら、見知らぬ親戚が来るなら完全に閉じこもるか、どこかに行ってしまうであろう。ドアを開けようとするだけで怒り狂って怒鳴って家族を追い出す人もいるのだ。
だが、それを今、口に出してはならない。
油に水だ。
武田さん側も質素で育ちの良さそうな尚香から、それなりの男を、かわいくない男子を、かわいいと言ってしまう発想がなく固まってしまった。
「はぁ?!」
「あ、違う。言葉がね、『ちわっ』ってかわいいなって!」
弁明してしまう。本人がかわいいのではない、言い方がかわいいのだ。……ちょっと無理やりか?
「ぶっ!」
と、姉が笑ってしまう。
「尚香さん、反抗期高校生男子にそれを言ったらだめですよ!」
と、姉も他人のいる前で辛辣だ。
それ以上はいけないと尚香は話題を変える。
「大和君高校はどこですか?」
「緑川です……」
ちゃんと答えている。かわいい。
緑川はトップには並ばないが、それなりにできるお金持ちが行く学校とされている。
「緑川!すごいですね。」
と、当たり障りのない日本人的な反応をすると嫌がられる。
「はぁ?何がすごいわけ?金あれば行ける学校だろ。」
「大和!」
「でも、緑川はお金だけでは入れないですから。」
「尚香ちゃんはどこの高校に?」
進路の話は怒るのでお母さんが話を変えた。
「常陽南です。」
「……クソみたいに勉強してる学校だな。真面目そうな顔してるもんな。研究職でもしてるわけ?」
「………大和……」
お母さんが切れそうで押さえている。
「常陽から研究職が出てるって知ってるの、よく勉強されてるんですね。」
「っ~!」
何を言っても褒められるのでムカつく。威嚇しているのに。
しかし尚香から見れば、たくさん褒めたい。章なんて東京に住みながら、東早慶と東明治、岡の水女子、芸大数個以外に大学があると知らなかったくらいなのに。
最近柚木が葵山卒と知って、知っている大学名が一個増えただけだ。章的に「岡の水女子」は、音楽関係で駅名が出てくるし、響きがいいので印象にあっただけである。一言で言えないのに響きがいい?と、尚香は章の脳内が理解できない。
高校は自分の通った高校と、同級生で話題になる近所の数校しか知らない。しかも、名前以外のことは共学か普通高校かくらいしか分かっていなかった。進学校が何なのかも知らなかったくらいである。それに比べれば、反抗しているのに大和君はだいぶ勤勉であった。
でも、これ以上は何を言っても大和君を怒らせてしまうであろう。話を全く別のことに移そうとした時だ。
「金本さん、チェスしませんか?」
「チェス?」
大和、勉強なんてやってられるか!という雰囲気でやって来たのに、今度はこの従姉に高校を褒められる。ならどうせなので、この真面目くさった親戚に頭の良さを見せてやろうと思ったのだ。
自分でも、もうなんでこの親戚に反抗しているのか分からないが、元々は家族に反抗していたのである。大学はどこに行くんだとうるさいからだ。何も決めていないので「行かねーよ!」と言って父親に叱られたばかり。緑川ならこの時点でだいたい進学先を決めているものだと。
家族も尚香も、反抗期の子供は親戚と家族の前でチェスなんてしないだろうと、微笑ましく思うももちろん黙っておく。
そして30分後、信じられないことが起こる。
「チェックメイト……」
静かに最後の言葉を放つ、尚香の圧勝であった。逃げ場がない。
女はゲームが苦手だと思っていた大和は、目を丸くする。
「…??」
「おお!!」
と、お父さん大喜び。生意気な息子が静かな反撃を食らっている。
今度は五並べに切り替えるも、何度やっても尚香が勝つ。しかもあっという間に。
「やったー!!」
「尚香ちゃん、ナイシュっ!!」
母親、元バスケ部か。
「??」
遂に大和は信じられないと、ソファーでクッションを抱えて横を向き考え込んでしまった。
「どうー?」
チェスがいつ終わるか分からなくて、一度2階に戻った実宇奈が様子を見にきた。
「尚香ちゃんの全勝~!!」
と母が言うと、母娘で手を打ち鳴らして喜ぶ。
「うそー!!サイコー!!」
と、尚香にも手を出してハイタッチ。
この又従姉、頭がいいとは聞いていたが、経済関係なので理系ほどではないと思っていたのだ。日本では経済は文系に分類することも多い。そしてこれまで友人たちとゲームをして、自分より強い女子はいなかった。こんな至って普通の何の面白みもなさそうな社会人女性に負けるとは。「すごいね!」しか、語録が無いような、世の常に老いも憂いも流されて生きる頭の弱そうな女性なのに。
そして気が付く。テレビゲームなら勝てるだろと。
「ならスマホ!」
「スマホ?」
「スマホ出して!」
テトリス系や爆弾設置ゲームなどするも、尚香が初めてするゲームの場合、勝てるのは慣れるまでの2、3回目だけ。最初は、
「よっわ!」
と調子に乗るも、その後すぐ負ける。
最終的に勝利を味わえたのは対戦格闘ゲームと、走り込むハイスピードアクションゲームだけであった。さすがの尚香も子供の頃からゲームをやり込んできた人のようにはできないし、必殺技など出せない。
それでも、勝ったら勝ったでまた褒められる。
「大和君、すごいね!」
と。
尚香がもたついて鈍いので、調子こいて超必殺技を出したのに空しい………
「………………」
なんだ……。何なんだ………この敗北感は………
勝ったのに、心底からの勝利感がない大和、疲れ切る。
●父の実家での初めての面会
『スリーライティン・』