表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/70

4 事件



尚香は家に連絡し、美香より先に美香の家に来た。


「おじゃまします」とだけ言って、手を洗い、狭い居間の仏壇にしばらく手を合わせてから荷物を降ろした。尚香は一人暮らしの美香の家の鍵を持っている。


そしてそのまま小さなソファーに寝転んだ。



全てを忘れるようにミニ毛布を被り目をつむる。


この件を章君は知っているのだろうか。章君が知らなくても、事務所から何か言われるであろう。今は、テレビもネットも見たくない。いや、怖くて見れない。



尚香は数件仕事を持っている。指摘されたのは今のところ1件だけだ。何事もなく終わるかもしれない。他の件も、黙っていたら後で責められるかもしれない。けれど、自分たちから言い出すのもおかしい。


でも、雪崩は一気にくることもある。

どうすればいいのだろう。自分だけの話だったら相手に説明できる。けれど、LUSHの話まで出たらどうしたらいいのだ。関係ないと言えばいいけれど、世に出回った話は消えない。関係が近くなったのも確かだ。

今回の話がお父さんとお母さんにまで知られたら?


自分でも気が付かずに、眉間にシワが寄る。



尚香はいつの間にか寝入っていた。




***




「だから言っていたのに、お前のせいで!!」

「功君を責めないでよ!」

真理が言い返す。

怒っているのは、舞監の興田だ。イットシーは大きな事務所ではないので、役員と従業員の距離が近い。




現在イットシーに美香が訪問し、社長と三浦と個室で話していた。


美香は今のところ個人で来ているが、社内で聞き取りをした結果を話す。

「うちの社内でも、金本が音楽業界のコネづくりをしていたという話が出回っています。そういう現場を見たと。そういうことを鬱陶しがる人間はいます。でも、それにここまでの悪意を加える者は今のところいません。」

「………」

あの日のランチタイムのことだろう。それは、早々にうちが悪いってことですか?と言いたいが、三浦はひとまず黙る。


「この件に関しては、金本も考え不足ではありましたが、本人が会社で疲弊しています。」

社員に何も言われなくても、色眼鏡で見られないか気にはなってしまう。尚香と功の関係は、ただ友人や知り合いがいるだけということではなく、会社が絡んでいるのかと思われていた。


「仕事も一つ外されました。」

「!」

美香の言葉に政木と三浦は焦る。

「……それに関しては申し訳ありません。あの日の対応はこちらのミスでした。」

政木が頭を下げた。会社としてお願いして個人に会ったのだ。もう少しやりようはあった。


「ボーカルとジノンシーの関係を知るのは、うちの一部社員とイットシーだけです。」

日舞は尚香の会社まで知らないし、ジノンシーにしてもプライベートにしても、手間をかけてまでこんなことを調べる必要も横に漏らすメリットも何もない。



悪意か、ただの興味か。



イットシーは一旦会社として、抗議とお詫びをHPに上げていることを話す。



「……あの、これは確認ですが……」

社長が資料を見ながら美香に聴く。


「……はい。」

「際沢の件は相手の暴行罪が真実ということでいいのですね。」

「………」

少しだけ美香は止まって、ゆっくり頷いた。






――――





尚香は走る。



自分の髪が乱れていることも知らず。




横眼も振らず、


ただ、あのフロアを、

廊下を。



必死に、

出口だけを目指して―――






そう、あれはずっと前。



以前の事件後に転職してから、仕事で際沢という大手企業の支店の担当補佐をしていた時だった。


その日は既に決まった契約やその書類の確認。自社の担当者は先に別用で支店を出る。残りの仕事を済ませてほしいとなり、尚香は一人、支店長室に呼ばれた。


以前の職場の仕事で、副社長の息子との関係に嫌疑を掛けられた尚香は、非常に気を付けていたつもりであった。



けれど、業界の違う新しい仕事を必死で覚えようとしていたこと、これ以上周りに迷惑を掛けてはいけないと気が張り過ぎていたこと、そして大企業でこんな昼間に、そんなことをする人がいるとは考えもなかったのだ。


なにせ支店長室の扉を開けば、人が大勢いる大きなオフィスがすぐに広がる。



「……ではありがとうございました。」

と、書類をまとめカバンにしまい、椅子から立とうとして止められる。

「金本さん、少し待ってください。座っていて大丈夫です。」

「…あ、はい。」


「大変でしたね。」

「………?」

何のことか分からないも、笑って済ませる。

「………仕事で苦労した時は、頼っていいんですよ。」

「……?」


目の前で語る40代の男性支店長に、尚香は初めて違和感を感じた。彼は立ち上がり、歩きながら何かを語る。


「世の中広いんです。どこかで失敗しても、誰かが助けてくれます。悲観する必要はありません。」

「……。」

そして、彼は尚香の後ろに来た。


何かがおかしいとは分かる。でも、どうしていいのか分からない。

以前の職場の人が紹介してくれた新しい会社。入って数か月の会社で、また問題を起こしたらどうすればいいのか。もう立ち上がれない気がする。



そして今、何が起こっているのか。


でも、何もなかったら?

考え過ぎだろうか。



「髪が乱れていますよ。」

と、髪を触られる。

「っ!大丈夫です!」

と、尚香は支店長の手を跳ね除ける。


が、そこで、後ろから伸びた手が、尚香の首から鎖骨を撫でたのだ。



やめて下さいと言うも、何かあれこれ言われる。

ここで声を上げたら、大勢の人間がやってくると。



何かたくさんの言葉が飛び交って、無理にでも立ち上がろうとして肩からソファーに倒される。



そこからは、必死だった。


ドンっと、自分より大きな体がどこかにぶつかる。



会社の書類を拾い上げ、自分のカバンをどうにか掴み、サッと服を整え、

尚香は支店長室の扉に向かう。



「このっ!」

焦った男の声が聞こえるも、鍵の掛かったドアを必死に開けて、その前に広がったフロア端を走り出した。



周りは見ていた。


仕事中に顔を上げて、なんだ?見上げる者。

え?という感じで、走る女性を見ている際沢の社員。


でも誰も、何も言わない。




大きなビルを出て、しばらく走る。


呼吸が自分の心に追いつかないほど速い。




スマホを出した手が震える。


えっと、えっと。えっと、あれ?

こういう時はどこに連絡をするの?


担当社員?

今の会社の上司?それとも会社の大元の相談所?

また戻って取引先に?警察?


それとも美香?また迷惑を掛けるの?

前の件がやっと終わったのに?



頭の中がグルグル回る。






そして尚香はこの時まだ知らなかった。



尚香が逃げた会社で飛び交っていた会話を。



「おい、あれヤバいよな?そういうことだろ。」

「うまくやれよ、あのバカ。」

「ここですんなよ。何のために時々セッティングしてんだよ。」

「大人しそうな女だから、またいけると思ったんだろ。」

「あいつ、その内またやらかすぞ。」

「大丈夫だって。ああいう感じの女は何も言ってこないから。」

「そうじゃなくても他で。」

「勘弁してくれよ。」



横で聞いてしまった女性社員が呆れるも、彼女もそれだけだ。

誰も、問題に巻き込まれたくない。




実際、支店長には誤算があった。


初めて尚香を見た時、大人しい女だと思っていたのだ。すぐに丸み込める、何かあっても何も言えない女性。前の職場で問題を起こし、弱っているらしいと。





そして、尚香は悩んだ挙句、自社に相談をお願いするも、女性を付けてもらえず年配の課長に大枠を話す。そのことを訴えた尚香に、会社から返ってきた言葉はあまりにも信じられない内容だった。



「問題を起こさないでほしい。」

「担当は変えるから、なかったことにしてほしい。」


そして呟かれる。

「面倒事を起こさないでくれ……」


「まだ数か月の社員と、30年ほど重宝している取引先、どちらが大事なんだ。立場を考えてほしい。」

「普通こんなことがあったら、自分から身を引くだろ。」

「そんな話を聴いたからって、どうすればいいんだ?」

「証拠も何もないだろ。」



面倒そうに場を設けた課が、全てなかったことにしようとしたのだ。さすがにそれはと言うと、いわゆる窓際に追いやられる。


けれど、尚香も噂を聞いた。

この会社でも、男女共数人の新人社員が異動後にやめていると。異動前に退社してしまった女性もいる。全て、今時の忍耐力のない若者の風潮で済まされていた。



このままにできないと、尚香が社に相応の対応を望んだことで、

それからがまた、拗れに拗れたのであった。





※この物語の大枠は、今より15年以上前に構想した、#metoo運動などない時代です。あまり時勢と絡めず、物語の中の出来事としてお読みください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ