31 痛み
※センテンシブで、人によっては不快になる内容があります。ご注意ください。
洋子は洋子で、足場のない気分で生きていた。
正直、もう結婚はこりごりだ。どうせ上手くいかない。
でも、自分には誰もいない。好きな時に娘にも会えない。あたふたしていても、家族がいた頃が懐かしい。
なぜ自分は家庭から追い出されてしまったのだろう。
それで、非常に紳士的に近付いて来た男性に頼ろうとしてしまったのだ。
洋子は人の気持ちを察することがあまりできない。昔から男子によく囲われそうになっていたので、男なんて女に触りたいだけの生き物だと思っていたけれど、その人はとてもいい人に思えた。
それから男に言われて、家に数回その男を入れてしまった。
つまり、洋子がそうするというのは、かなり信頼してしまったということだ。プラトニックな関係からでも大丈夫だと。そこから信頼を築いていく、いや、既に築いているからと。
ある日、荷物を取りに来た章が唖然とする。
家に大人の男の靴がある。
知らない靴。
ガッと家中を見ると、信じられないことに、寝室のベッドに男が座っていたのだ。
「………?」
「!……」
「……息子さんで?」
男は洋子から息子たちがいると聞いている。
「お母さんは、今、下のお店で買い物してるけど。」
そして立ち上がる。
「私、洋子さんとお付き合いさせていただいている土太という者です。」
と、図々しく握手を求めて来たのだ。
章の気分は冷えていた。
人の家で?寝室で?
「出てけよ。」
「………?」
目が座っている章に、男は愛想よくいくつか声を掛けるが、章はキレていた。
「ここはあの人の家じゃねえから。
出てけ。」
「…………」
少し待つと、男の態度が変わった。
「何なんだよ。」
そうして、男はドスっと、ベッドにまた座り込み、章はさらにキレそうになる。
「もしかしてこのマンション、父親側の物なんか?」
「………」
章は答えない。答えないというより、言葉が出てこない。
「ここ、広いし造りがいいな。パーティションの向こうも部屋なんだろ?ちょっと開けたけどピアノとかあるんだな。」
「…………」
「……はぁ…………。」
「………………」
「母親と同じで、かわいくない子供だな。」
そして男は言った。中学生の子供に、
子供に言うべきではないことを。
「何なんだよ。こんだけ尽くして、あの女もガキかよ。」
「見た目だけで、めんどくせえ。……まだできないんだよな………」
「……………」
「あ?分かるか?俺の苛立ちが。」
「お前の親さ、固いんだよ。」
「あ?分かってんのかよ。言ってる意味が。
**がな。」
と、言ったところで、章の拳がその男に飛んだ。
その部屋は、そこにあるベッドは、道と結婚した時に買い替えた物だ。洋子が気にしなかったので今もそのままだが、小さい頃の章はずっとそこで寝ていた。
親子三人で。
章はまだ背が低かったが、いきなりで男も反応が遅れる。章が部屋から男を引きずり出し、殴り合いになり、男が劣勢になっていたところで、玄関が開いた。
「章!!」
洋子だ。
「何なの?!!」
血まみれの男を見て、ショックで章を睨む洋子。
でも、章の方がずっと深い恨みの目をしていた。
それから警察だ。
初め、章は何も言わなかった。
顔の一部が腫れ、口の中を切った男が喚いていたが、道が来ても章は何も言わない。
大分経って、このままだと章の方が不利になると説得して、やっと経緯を説明し出した。ただし、洋子には言わないでほしいと念を押して。
章はこれを口にすること自体、非常に不本意だったし、全貌を聞いて警察や大人たちも呆れるしかなかった。
「気持ち悪いから、塩を撒いてほしい。」
全部話してから、章はボソッと言う。
あの家の全部が汚された気がした。
警察としては、子供に対して「でも、まあ、未遂でよかったな」と思うしかない。
未遂というのは、おそらく男と洋子にまだ関係がなかったということだ。簡単に大人な関係になれるほど、洋子は割り切れる人間でも大人でもなかったため、男は苛立っていたのだ。寝室にいたということは、いろいろ考えてはいたのだろう。でもそこは、暴力性がない限り警察が関与するものでもない。
しかも洋子は、息子はまだ男女のそういうことを知らないと思っているようであった。でも、章は知っていた。
どういう理由があれど、分からない男を連れ込んだことは、章には許せない。
中学生に、しかも実の母親のこんな事情のなぐさめをすることになってしまい、警察も子供に同情する。証拠はないが、みんな息子の言うことは本当だろうと思った。なにせ、母親が土太さんはそんなことをする人じゃないと騒いでいる。いい人なんだとやたら言っているのだ。
警察に来てからの様子でも分かるのは、土太さんはいい人ではないだろうということだ。
洋子のいない時にではあるが、付き合っている女性を「あの女」「**の堅い女」だとか、子供を「このガキ」とか言っている。いい人の口からは、そんな単語はポンポン出てこない。
今の嫌そうな態度だけでも分かるのに、この女性は単純すぎる。
土太という男は「暴力だ、賠償だ」と騒いだが、これをあなたの身内にお話しできますか?と言われると、大人しくなりすぐに訴えを退けた。
ただ、暴力は暴力なので、そこはしっかりとお互い話を付け処理した。
洋子と言えば、章はひどい人間だとずっと言っている。
寝室で起こった事は伏せて「あの人はいい人ではなかった、章に暴言をした。マンションに住みたがっていた」とみんなで説得すると、その後ショックで数か月引きこもってしまった。
洋子は敬虔なクリスチャン家庭の中で生きてきた。父親は娘たちに、好きな芸能活動も男性と付き合うことも許さなかった。
それが当たり前だと思っていたので、本当は離婚も再婚も、その先にまた別の人と生きるなんて受け入れがたかったのだ。けれど、あまりにも自分が他人に迷惑を掛けていると、みんなの言葉通りに生きるしかないと思い知り、決意をして必死に最善を選ぼうとしていたのだ。洋子なりに。
洋子は一時期誰にも会わなかった。親戚たちは、洋子の妹が死んでしまった頃のことを思い出す。お腹の子供と一緒に餓死してしまうような状況だったのに。
このままでは洋子もいなくなってしまうのではと焦り、一部の親戚たちが心を痛め、洋子を代わる代わる見ていたのだ。
____
尚香は何とも言えない思いになった。
かわいそうな章である。言葉がない。
これで、章と洋子の関係が決裂してしまったらしい。
そして、婚家でも追い詰められて精神がボロボロにになって、それでもそんな人たちに頼っていた洋子。
親にも、厳しい教育を受けて。
『身持ちを固めて生きろ』
そんな貞操的な教えが良かったのかどうなのか。
でも、洋子が奔放に生きるよりは、ずっと良かったのであろう。もし洋子の中にそういうストッパーが無ければ、もっとよくない男性への頼り方をしていたに違いない。そうせず堅実に生きてきたから、親戚や娘の良子ちゃんと今も関係を続けられるのだ。
章と一緒だ。
アメリカで牧師と誓ったことがなければ、おそらく身を落としていたように。
「インプラントもその時?」
「!!……インプラントは違うんだけど………」
まだあるのか。
「いろいろあって私を庇ってくれたんだよね……。その時………」
「!」
道が顔を伏せてしまった。
「道さん、ごめんなさい!」
「ううん、いいよ。でも尚香ちゃん………」
「………はい…」
「……章君を嫌わないでくれてありがとう…………」
「………?」
なぜ今、そんなことを言われるのか分からない。
でも思う。
正直、章との最初の出会いは最悪だ。その後のことも含めれば、嫌ってもおかしくない。
きっとだからそう言ってくれるのだろう。
章が自分の能力に関して、継ぎはぎでもどうにか自分の道を進んできたように。尚香と功、自分たちも継ぎはぎのようにどうにか繋がって来たのだ。
道にとっては、洋子もそんな存在だった。
正一が死んだとき、アメリカに行く時、韓国に行く時、どれも全部、章と同じようにどうにか助けてあげたかった。けれど、章と洋子は油に水、自分たちは世間や親戚の目があるままの前妻後妻。
他事をしながらは無理であった、多忙だった章のアイドル初期の生活。
それでも、もう少し早く、洋子のために何かできていたらと。
いつも忙しく、自分が上手く生きて来たのかは分からない。
けれど尚香が離れて行かなかったことが、何か一つ良い結果として認められたようで、こんな章君でもよかったんだよと言ってもらっているようで、道はとっても安心した。




