25 進む先
「尚香さん!」
玄関を開けて、名前を呼ばれた方を振り向く尚香。久々に直接聞く声。
あれから1カ月。二人が会った場所は、やはり金本家。尚香の方が仕事で遅く帰って来たのだ。
「尚香さん、お帰り。」
「……お帰り……って………」
「お帰り。」
「………章君…………。」
思わず玄関で固まってしまう。
安心するような、まだ早すぎるような、そんな人の声。
「約束したから。1か月後に会おうって。」
「………そうだけど……」
尚香のこの家でいいのか。でも、外で会うより両親もいるのでそれがいいのか。会っていいのか。
もう夕飯は済んでいたので、着替えをしてリビングに来ると、いつもの如くこたつでお父さんお母さんと一緒に待っていた。しばらく近況を話してから、二人で話したいこともあるだろうと、またお母さんの作業部屋に行く。
そして同じようにホットカーペットを入れ、狭い部屋で1メートル以上離れて座り込んだ。今日も、お父さんがお菓子とお茶を淹れてくれた。今日はたい焼き屋のチーズパンだ。
実は結局、この期間何のメールも連絡もしなかった尚香。久々の章に、戸惑ってしまう。
「あのさ、仕事の事ごめんね。」
いろいろあった間に、尚香は仕事を縮小してしまった。けれど、もともといつかは部下に分散しようと思っていたものだ。それが早くなっただけだ。先リビングでその話もした。
「……うん…………。大丈夫。」
「…………」
「……」
変な沈黙が続く。
今までこんなことはなかったのにと、尚香は変な気分だ。でも、ネットニュースに載るような事態にまでなったのだ。この距離感でいいのか分からず、なんだか気まずいのも仕方ない。
そして思う。この目の前の人は誰なんだ。
去年の少し前は、まだ自分の人生にいなかった人だ。
どこかで生まれてどこかで生きていて、同じ世界のどこかにいて、出会うかも分からなかった人。
でも、ここにいる。
弟みたいに思っていたけれど、それが違うというのも分かる。
なにせ最初がお見合いだ。
と、同時になぜ章君?とも思う。あれからなぜ、章君と自分がこんなことになってしまったのだ。初対面の印象がデザイナーでちょっとステキな人だった時も、自分には合わない人だなあと思っていたのに。接点があっても、自分の傍らを通り過ぎる人だと思っていた。
ちょっと高過ぎる背と、世の中に生きていないような風貌。
章が来ている服も、髪型も、アクセサリーも自分には合わない。
そして今も、やっぱり章君は自分には大きすぎる人だったという距離間。親に頼ってフラフラ生きる、売れないバンドマンだと思っていた頃が懐かしい。
それを確認した今。
じーと考えていたら、やっと章の方から話し出した。
「あのさ、愛知県行った時の陽さん?」
「陽君?」
「うん。怒られた。あの記事何なんだって電話掛かって来て。」
「………陽君から?」
「…………星南さんに聞いて心配してたんだよ。ちゃんとしろって。尚香さん困らすなって。」
「……そっか…………。」
知ってたんだという思いと、陽の気遣いがうれしくも思い、申し訳なくも思う。
陽は同じ施設でしばらく兄弟のように仲が良かった子だ。本来子供同士連絡交換はしないが、小さかった陽は離れ離れになってから一時期あまりにも「こうかちゃん、こうかちゃん」と泣くので、両親と施設長の仲介の上で数回電話を繋いできた。きちんと知り合いになったのは、尚香が大人になって自分の力で施設に来れるようになってからだ。
山に行った明け方のあの日、海岸付近の駐車場に、美香と駆けて来たのは、陽と施設長の奥さんの瑛子先生だった。あの後、愛知県の病院に入院したので、泣きそうな美香を励まして、よくお見舞いに来てくれたのは陽の妻の星南と瑛子先生だ。星南は身重で大変な時期だったのに。
尚香は体操座りしていた膝をギュッと胸に寄せる。
「………尚香さん。陽さんに何て言っておこう。」
「……大丈夫だよって、それだけでいいよ。」
ニコッと笑う。
章君も笑うから。
「……尚香さん、俺帰るよ。」
「………もう?」
「明日仕事だし。」
「……そうだね……。」
「体大切にしてね。」
「うん……」
とくに何も話していない。けれど、尚香はなんだかとても切なかった。距離ができてしまったような寂しさと、それでよかったんだという安心。
***
その後日、尚香は美香にお願いされて、ある事務所に行くことになった。
車でそのまま地下駐車場に入って行く。
他の人に会わないように個室に入り、そこで会ったのは、政木社長と戸羽プロデューサー、ナオと三浦。それから、舞監の興田だ。
なぜ興田さんまで?と思いながら、いくつかの資料を渡され、一連の件に関しこれまでイットシーのしてきた動きを説明された。法的な書類も見せてもらえる。
そして、衝撃的なことを聞く。
実は、一連の騒ぎの発端は、イットシー関連のダンサーの一人から始まったのだ。
彼女が数年かけてもLUSH+のバックダンサーになれなかったのに、突然功の前に来た女性に対する嫉妬だった。
LUSHは白バンの時しかバックを盛らない。
そのため、白バンで出演できるダンサーは、ある意味勝ち組だ。メディアに映る機会も増える。
なのにメインスタッフにまで気に入られた人がいる。その女性から見れば、面白みもない一般人。遊ばれているのを知らず、尚香が媚を売っているようにしか見えなかったのだ。功に気もあった。それで、彼女はとにかく周辺やネットを調べて分かる情報を集め、昔のニュースの該当人物だと探し当て、ニュース配信者に所属する自称記者にそれを売ったのだ。
お金はもらっていないが、情報は渡した。
そのダンサーにいくつかの加勢をしたのが、以前尚香を攻撃したモデルのユアでもあった。ただ、彼女はそのダンサーがそこまで動くとは思っていなかったようだ。あくまで、身内や事務所内で収める話だと思っていた。
アクセスを稼ぎたかった記者も便乗した。
「………」
尚香、言葉がない。
「もう少し待てば、LUSHのライブが拡大するので、その子も活躍できるチャンスはいくらでもあったんですけどね。」
と戸羽が言う。ただ、だからと言って自分がダンサーとしてメインで活躍できるかは別だが。既に上には上がいて、そんな人たちは後輩の面倒も見てそれどころではなかった。
「……それで……。その子、派遣で入ってる子だったんですけど………」
「………」
戸羽が続けると、興田が下を向いてしまった。
「…………?」
「うちのスタッフたちの会話を横で聞いて、金本さんは攻撃していい人だと判断したそうなんです。」
「?」
戸羽は、少し興田の方を見てから話を続ける。
「うちの興田が、金本さんを貶めることを言っていまして、………その……」
「いいです。聴き取りの資料見せて下さい。ありますよね?」
と言って、躊躇なく尚香は資料を受け取った。みんなびっくりする。一方、興田は顔を上げない。
そこには、ダンサーの女性が覚えているままの、だいたいの会話が書かれていた。興田たちの発していた言葉だ。そういうウワサを知って、「あのセミロングの女は一部以外のスタッフには煙たがられている、みんなを騙している、事務所をダメにする、ファンをバカにしている」と判断したらしい。
「既にジノンシーの方とも話をさせてもらっていています。」
政木が付け足した。今のところ大きな影響はないと言われている。
みんな、尚香には見せられないと思ったのに、尚香の反応はしっかりしていた。
「………分かりました。私も申し訳なかったです。」
「?!」
興田一瞬顔を上げる。
「功君がイットシーの代表バンドと分かっていた時点で、想定できたことです。私もライブだけでなく事務所にも出入りしましたし。」
「尚香さんっ………」
ナオが言うも、それは一旦戸羽が止めた。
「自分がイットシー側でも、同じ判断をしたかもしれません。ただ、皆さんが早く動いてくださったおかげで、思ったより影響はありませんでした。ただ、今後業務に何かあれば、会社を通してお話お願いしていきます。」
美香も頷く。
「でもそれを言ったら……あの、私もすみませんでした。」
ナオも頭を下げた。
そして、興田が立ち上がった。
「申し訳ありませんでした!」
「………!」
政木や戸羽、三浦やナオも頭を下げた。
少し驚くも、尚香は冷静に言った。
「分かりました。顔を上げて下さい。」
興田は動かない。
「……あの、私も身の置き所がないので………」
「興田さんも頭を上げて下さい。」
と、言われて興田はゆっくり顔を上げた。
「私の方も、申し訳なかったと思っています。それでこんなふうに言うのではなんですが、今回の謝罪は、各会社の業務や利益に影響したこと以外受け入れますので、私の過失もそれで終わらせてください。」
「過失って……そんな……。」
ナオは困る。自分たちは終わらせる過失なのか。
「私が失敗したことがあれば許してくださいということです。その代わり、興田さんたちの言葉も水に流します。」
「…………?」
興田が驚く。けっこう辛辣なことを言ってきたのだ。尚香も現在の職場の人間たちに不要な印象を持たれたであろう。
「興田さんでなくても、そういうことを言われたことはありますし……」
「…っ」
「……私も同じように誰かが大変な時に、助けられなかった人もいるし、傍観者になったこともあります。自分の失敗を許してもらったことも。」
「…………」
「物損で許してもらったこともあるし……。明日は我が身ですので。」
尚香も大きな仕事をしてきた。思わぬ方に自体が動き、許してもらわなければならない立場もたくさん経験してきた。たくさんの人に出会ったので、本人でなく家族の過失で人生が一変した人たちも見て来た。新人が失敗を言い出せず、ずっと真っ青になっていた時、許してくれた先方もいる。
興田には尚香を攻撃する意図もあったが、それでも自分が明確な原因の一端とは思っていなかったのだ。
誰が煙たいとか、そんな話は世の中のどこにでも飛び交っている。度合いにもよるが、いちいち全部に目くじらを立てていられない。今回の件は自分と章の関係性にもあったし、今でなくともいつか何かあったかもしれないことだ。
それに、前に進みたいから。
「ナオさんには責任はありません。ナオさんも頭を下げないで下さい。ナオさんに責任あったら、私はそれ以上です。」
尚香はそう言って、静かにナオに笑った。ナオが涙目になる。
その後、功と会ったことも話しておく。その件については一旦報告だけだ。イットシーもどうしていいか分からないらしい。
最初も謝られたが、最後にも深く全員に最後に謝られた。
そして尚香と美香も礼をして、そこを去った。
●1メート以上離れる。
『スリーライティン・上』83 章君、ごめんね
https://ncode.syosetu.com/n9759ji/83
●興田の苛立ち
『スリーライティン・上』78 燻り
https://ncode.syosetu.com/n9759ji/78