23 光の下で
また、休みながらになります。
正一はあれから8日後に亡くなった。
社葬のため喪主は叔父が。
道はほとんど何もできなかった。させてもらえなかったとも言える。その間はすっかり落ち込んでしまった義母の世話をする。
よかったことといえば、洋子との結婚式さえ正一の弟は来なかったらしいが、兄の死にさすがに帰って来たのだ。兄が二度も若い妻を迎えたことで最初は訝し気に見られたが、それでも最終的にその奥さんや正一の姉と仲良くできたことだ。少し遅れて海外から帰って来た兄夫婦にも邪険にはされなかった。
章の兄正二はその後、半月学校を休んでしまったらしい。
既に3回も順序でない身内の葬儀を経験して、今回はしばらく誰もなぐさめられなかった。
章は………
章はまだお父さんを待っている。
道はといえば、悲しんでもいられなかった。あまりに忙しかったからだ。
手切れ金のように会社からこれまでの給料をもらい、外に追いやられた章の子供用品の処分をする。ミニハウスだけは家に持ち帰り時々章とそこで眠った。
道の兄は死後離婚しないことを許容してくれたが、またその後の山名瀬家からの道の扱いがひどく、道もそこは兄に申し訳ないと思うしかなかった。
お墓も何も口を挟むことができず、道は見ているだけ。きっと同じ場所に入ることもできないだろう。
お墓に入りたいわけじゃない。
一緒にいたいだけだ。
しばらくはマンションに住んでいたが、東京での生活を維持するのは簡単ではない。正一の残したお金で残りのあらゆるローンを全て払うも、道は今後のためにこのマンションを手放したかった。たくさん思い入れのある家であっても、防音部屋がある大き目の造りで維持費がバカにならないし、小さな章と節約して暮らすには大きすぎる。
けれどそこは、行き場のないピアノの空間でもあり手放すこともできない。
既に義実家には叔父家族が入り、リフォームを進めていた。急な環境の変化に義母が心配であったが、道はもう義実家にも入れない。聞いた話によると、義父も義母も生活のことを富子や道に相談したいと言っていたらしい。それがかえって親族の反発を招いた。
しばらくは、ホームに入っていた義父にしか会いに行けなかった。
いろんな事情があって、一時期はマンションから逃げたこともあった。今後のお金や管理の相談がこじれて、やはりマンションを自分の物にしたという人というレッテルが張られ、郊外の安い賃貸に隠れるように住んでいたこともある。
最終的に富子が探し出し話を付けてくれたが、一度でまとまる話ではなくなり………。よっぽど忙しかったのか、あの頃の記憶が断片的にしかないのだ。
どうやってあのマンションを維持していたのか、最終的にそこに、また離婚してしまった洋子が入ることになる。
そして、道は愕然とする。
葬儀前後から、洋子にはひどく困らされてきたのに、アメリカに行く前に当の洋子さんといえば、「え?一緒に住まないの?」と言っているのだ。道の中の宇宙が吹っ飛ぶ言葉である。
しかし、実は洋子の方が天地がひっくり返るほど、動揺していた。
「もう、章に悪くしないから。」と。
その時の章の怒りはすごかった。自分にされたことだけでなく、これまで継母にきつく当たってきたことに、成長した章が非常に怒ったのだ。正一の死後、道を遺産泥棒扱いしたのは洋子だ。マンションも売る気だと。
そして、章は知らないことだが、道はさらに驚く。
仕方なく章がいない時に洋子と道とで話をすると、洋子は日本で暮らしてからの、人生の、何も受け止め切れていなかったのたというのが分かった。
それは、分かっているだけでも、正一との離婚にまで遡る。
行く当てがないため、しばらくは長男と正一のマンションに。離婚したのに山名瀬家に頼るしかなく、「あなたは一人で生きていけないし、そうしてはいけない。再婚しなさい」と囲まれて言われる。もう一人、別の誰かを受け入れるなんて無理だ、イギリスに帰りたい、昔に帰りたいと夜な夜な泣いていたらしい。
迷っているうちに積極的な和司と雪崩れ込むように再婚。『洋子さんを放っておけない』と、半ば強引に。アワアワしているうちに、産まれた二人の子供はまともに言葉を喋らないしおかしい。毎日大げんかをして、気が付いたら離婚。
そして、正一の死。
子育てができないと子供たちから引き離された自分。なぜいつもこうなってしまうのか、何も分からず戸惑っている。
「………洋子さん?」
「私のせいで、私が掛けた心労で、道子も正一さんも死んでしまったんだ………」
と、泣き出す。
「……そんなことは!」
「みんなそう言うから………」
「!」
「私が……なんで私が死ななかったんだろう……。いつも言われていた。なんでお前じゃなかったんだって………」
「っ……」
それはひどい。
「道子に会いたい………。道子の歌が聞きたい…………」
これをギャップというのか。悪役美女のような感じだったのに、目をこすりながら、中身は子供であった。
「道さんは……道さんまで、死なないで………」
とまで言ってまた泣き出す。なぜ私?と思いながらも、ああ、名前が同じだから思い出すんだなと結論付け、
「正一さんに苦労を掛けたのは、山名瀬家なので強気で行きましょう!仲間です!」
と励ました。取り敢えず、苦労させられた仲間だ。
「?仲間……?」
「そう、仲間です!!」
「一緒に暮らせるの?」
「……それはできませんが………」
と言うと、また泣きそうになる。
「でも、またご連絡します!」
「!」
パアっと笑った顔が、時々笑う章にそっくりで。もう、どうしろというのか。
「私たちが会ったことは、しばらく章には言わないで下さいね。」
「分かった!」
どうしようもないので、若葉や富子に洋子をよく頼んでおいた。
それから、アメリカ。
先にアメリカに行ったことは、章にとってよかったと言える。
牧師と約束したのだ。性と酒とクスリ、そして道が把握していない集まり。もしエンタメの世界で生きていくとしても、それらは絶対にするなと。例えバカにされても。
私たちだけでなく、自分の中の神に誓うんだと。
世界がどう変わろうと、そこは揺るぎない場所だ。
永遠の。
章は日本で音楽を始めた頃、男たちとのクラブの付き合いを拒んで、リンチにあったこともある。目立つので目を付けられるのだ。蹴られても無反応なので、顔を傷付けたら困るよな、と大勢に押さえつけられ一度はトイレで便器に顔を入れられたこともあった。あの時、人が来なかったらどうなっていたのか分からない。
指を折られそうになって、どうしようもなくて反撃したこともある。他にもお世話になっていたため、おかげで警察署と顔見知りだ。
道は祈る。
髪を横に流すほどの風が吹き抜ける、その心に。
そして託す。風の中に手紙を。
兄さんへ
兄さん、こんにちは。お元気ですか?
私のことを怒っていますか?怒っていますよね。
でも、章を受け入れてあげてください。私の子です。大学に行かなかった償いは必ずします。
私はいつも、コリントを読みます。兄さんが好きだったから。
『たとえ私たちがどんなに知恵高いことを語っても、それは騒がしいシンバル。
全ての奥義を解こうが、山を移すほどの信仰があろうが、愛がなければ無に等しい。
全財産を施しても、身を火に渡しても、愛がなければ何もない。
愛は寛容で、そして情深い。
愛は不義を憎み、奢らず、恨まない。
全てを忍び、全てを信じ、全てに希望を見出し、全てに耐える。
愛は滅びない。
いつか全ては絶え、預言も知恵も廃れるだろう。
なぜならば、私たちの知るとこも、私自身も、一部でしかないから。
けれど愛は滅びない。
いつか完璧なものが来た時、部分的なものは廃れるであろう。
私たちは幼子のような心で、
そしていつか、全き事を知るのだから。』
兄さん、私はあなたが誰よりも、愛深い私の兄弟だと知っています。
私にできないことを、兄さんが果たしてください。
私たちを受け入れ、いつか、あなたの祝福を下さい。
愛する兄さんと、家族みんなへ。
道子
荒野に吹きすさぶ、強い風。
時は体感もなくゆっくり過ぎているようで、道には嵐のように延々に吹きつける。
でも、それでも、枯れた草の刺さる道も、道は歩き続けるだろう。
子供の頃のあの日、自分は主の道になりたいと思ったのだ。
その人が人類の、私の十字架を背負うなら、
自分にはローマの兵やユダヤの男たちに逆らう力はないけれど、
せめてその人が歩く土になって、あの足が痛くないように、その全てを支えたいと思ったのだ。
あなたは全ての人の、物の、細胞に入り込めるように形なき者になったから、
それゆえに手足がないから、
あなたの小さなスプーンになって、小さな子供の渇きを癒し、
あなたが与えたいと思った、その道具の全てになりたいと思ったのだ。
知ってみたら私自身がユダであったので、
申し訳なくてせめてあなたの足を和らげる土になりたいと思った。
兄さん、私は土になりたかったの。
いつか全ての石や埃に埋もれてしまう、そんな存在であっても。
いつかのクリスマス。
冬の、真っ暗な、でも光も宿る高い高い空。
アメリカのクリスマスは至る所で讃美歌が響き、礼拝の時に華やかで、時に優しい炎が灯る。
章と二人、点々といろんな教会のクリスマス礼拝に入れてもらい、讃美歌を聞いた。
章が口ずさむ。道の横で静かに。
ろうそくが揺れ、自分たちがこの先どこに行くのかも分からず、それでも耳を澄ます。
アメリカなら章も何かしら音楽ができると思ったのに、さっぱりどうしたらいいのか分からない。考えてみれば道は音楽の世界など何も知らないのだ。
小さな章が過ごせる場所を探し、二人で食べていくので精いっぱいだった毎日。
幼いころから抱いていた夢は、どこか遠く、今や自分たちが施してもらう側だ。正一のお金は洋子に支払う養育費や数年分のマンションの維持に消えてゆき、日本に戻れるのかももう分からない。
どの教会にもきれいな光が舞う。それは神の光のはずなのに、誰もが入るわけでもない。
道が苦しんだ、何かの壁。
でも、自分たちが何者でもないうちは、その光に受け入れてもらえる。
道は返信のない手紙を思う。
それでもみんなが、この灯の下に、幸せでありますようにと。
参考……新約聖書。1コリント13章




