22 夫婦で
オッパ…女性から見た兄。
正一は治療中に脳卒中も併発。
もう覚悟を決めて下さいと言われてから、正一は数日家に帰って過ごし、病院に戻ってから個室に移った。
その帰宅は最後のプレゼントで2泊だけだったけれど、章の兄正二もずっとそこにいた。正二は洋子の夫の養子にはなっていない。一緒にいなかったのに章とすごく仲良しで、びっくりするくらい弟の面倒をよく見ていた。
道はそんな風景をほほえましく思い出し、今は小さめの個室で正一の顔を眺める。
「正一さん。」
切ってもらった髪をそっと整える。
「……正一さん。」
寝ているのだろうか。
良いことなのか分からない。体も言葉もこんなふうで脳腫瘍なのに、少し前まで正一は何かの折にしっかりとした意思を示していた。若い分、受け入れがたいことでもあっただろう。自由にならない体や思考、一時期は道にも苛立ちを向けていた。
けれどそんな苛立ちにも安心する。こんな時に、この人が一人でなくてよかったと。
でももう、正一は疲れてしまったのか、諦めたのか。
道は反応のない手を握ったまま窓を見る。
この歳の諦めは、生きる事、意志を持つことの放棄だ。でも、そうでもしないと現実を受け入れられないのかもしれない。病気が発覚してそんなには経っていないが、半年以上過ぎている。諦めるには短すぎ、希望を持てるほどの自由も利かない。
これからこそ始まる事業家としての人生。子供の成長、どれほど悔しいだろうか。
道は苦しくて、でもどうしようもできなくて、ずっと祈る。
ずっと祈ってきた。
時に夜通し。
天に向かって。
せめて正一が、家族みんな、お父さんがいて幸せだったことを感じてくれればいい。
ささっと仕事をこなす看護師さんたち。もう病気にも人の死にも慣れているだろうと思っていたのに、若い人の病気や死は、それなりに応える人も多いらしい。
「章君のお父さんはやっぱりかっこいいね~。」
ベッドの横で真顔で音楽を聴いている章に、看護師の女性が話しかける。常連なので山名瀬家と看護師さんはすっかり仲良しだ。無礼講なことも多い。病院内や外で静かにしていなければならない場所では章のヘッドホンは許されている。
「章君笑って~、章君もかっこいいかな~。ヘッドホンかっこいいなー。」
と言うと、章は他の方を向いてしまう。
「つれない!
しょうがないなー、次の部屋に行かないと。章君今度はスマイル見せてね!」
と、立ち上がった時だ。
一人の男性がドアを開ける。
「キルジャ。」
「……………?」
病室に入って来たのは、韓国にいるはずの道の二番目の兄だった。横にその妻もいる。まだ、見舞いの規制が今ほどなかった時代。義弟の名前を言ってここまで入って来たのだ。
「オッパ!!」
「………」
章も顔だけ向ける。
「………………」
兄は無言で正一を眺め、そしてベッドの前まで行った。
「………正一君。苦労しただろ。………最後まで君の奇跡を祈っているよ。」
と言って、少しだけ手を取って祈っている。
そして道の方を向いた。
『キルジャ、帰るぞ。』
『!?何を言ってるの?』
兄は章に近付いて、ゆっくりヘッドホンを外す。章にも分かるようにか、日本語で言った。
「うちのキルジャ………道子はね、まだ学生なんだ。もう帰らないといけない。」
「……………」
「オッパ!!」
「………」
章は逃げることもなく、じっとしている。
「私は正一さんの妻です!」
「人に学費を払ってもらってか?」
「返します!それか編入して………」
「こんな子供を抱えながら、学業も仕事もできんだろ。」
「でもいつか……」
「いつかなんてあるか!山名瀬の会社で業務をして、役職どころかバイト代も貰ってなかったそうだな!!」
「お兄ちゃん、違うから!」
「何がだ!……山名瀬君、これまでありがとう。」
「違う!」
なぜまたこんなことにと道は焦ってしまう。
「道子、帰るぞ!」
「あの!病棟で大きな声を出さないで下さい。」
何かあると察した看護師が止めようとした。
「道子はね、山名瀬の家でタダ働きさせられているんですよ。頭のおかしい子供の子守までして。」
「やめて!」
「キルジャ、落ち着いて考えれば分かることだから。帰りましょう。」
義姉も言う。
「私たちは夫婦です!夫を置いて行くところなんてありません。東京が家です!」
「……夫婦?アボジの遺言か?飲んだくれの親父の何に従うんだ……。あんな酒の場で書いた結婚誓約!」
「?!」
変なことを言うものだから、看護師がビビっている。何それ。
「夫婦ごっこだろ?遊びに過ぎない。」
「!?」
「もともと夢見がちな子だ。神様に好き勝手祈って、勝手に夢見て、勝手にお花畑を展開していたんだろ。」
………ごっこ?遊び??
これは道子にとって許せない言葉だった。
「………ちょっ……」
義姉がさすがに言い過ぎでは……と気まずい顔をする。それにもし今、正一に意識があったら………本人たちにあまりにもひどい言葉だ。
「まあ、道子はいい夢を見て、正一君は道子にしばらく楽をさせてもらったということでいいだろう……」
と、道子のカバンを持とうとする。
「触らないで!!」
そこで道が、初めて怒りの形相で兄を睨み、カバンをガッと奪い取った。
「私が1年以上かけて積んだものは、オッパの一言で消すことなんかできない!!」
日本に来て、章に母親が出来る仕組みを富子とずっと練って来た。事情的にも、法的にも。富子は夫の同意が得られず、章を引き取ることができない。後は道しかないのだ。
「そんな御都合婚というのか?契約婚みたいな夫婦。道こそ人をバカにしているのか?正一君の方が賢いな。」
「……?」
そう言って、兄は妻の持って来たカバンから1枚の書類を出した。みんなの注目がそこに集まる。
「!」
ショックを受ける道。
それは半分記入された離婚届だった。
「正一君が日本のコモブに送ってくれていたんだ。『道子に新しい人生をあげて下さい』と」
「?!」
いつの間に……と、道子の目が驚いた後に潤む。
「養子縁組も解消すればいい。今は小さいからかわいがっていられるだけだ。」
正一と21歳差で道はまだ21。二人の子供はいない。重荷ばかりの義家族。
世間だって、兄の言うことを首肯するだろう。引き取る子供は、おそらく発達に障害がある他人。
「今なら道子が記入して提出すれば終わりだ。」
「!!」
「こんなところで今言うのは申し訳ないが、死後にあれこれするよりずっと早い。正一君自身の意思でもある。」
「正一さん!」
道子は兄も見ずにベッドの正一に向かう。
そして手を握って小さな声でつぶやいた。
『正一さんっ………、聴こえていますか……?……嘘でもいい、嘘でいいから、私のことを愛してるって言って下さい……』
必死だ。
『ただの約束だけじゃない。私たちの意思でちゃんと夫婦だって!』
反応はない。
『私に章君のお母さんでいさせて下さい!章君が自立したら……、それまでっ………それまでは……』
健康な人が普通に生きても自立できないこともある時代だ。
章の閉塞気味な性質が、これから和らいでいくのか、もっと難しくなるのかも分からない。
まるで、人を見ていないような瞳。
通り過ぎる視線。
でも、ずっと一緒だった。
自分の未来だって分からない。あの山名瀬家を収拾していける気もしない。
でも、もう。章の前から、お母さんが離れていく世界だけは、見せたくなかった。
『なら私を章のために利用してください!とことん利用して!!
それに正一さんにはそうでなくても……私にとっては初めての結婚です!一時期の気分のように………言わないで……』
そして、感じる弱々しい圧迫。触れるほどの。
「!」
少しだけ、道に支えられた手を握り返す。
そこに看護主任とたまたまいた先生が、騒ぎを聞きつけてやって来た。
「……はあ、外国の方か………」
と、時々騒ぎがあるので困った感じだ。
けれど、道の剣幕に一歩引いてしまう。
「正一さん!!」
「………」
「私たちは、ちゃんと夫婦だから!」
「キルジャ……」
もう兄も見えない。
「正一さん、私たち、ずっと夫婦だから……。私を守りたくて言ってるんだよね……」
道だって分からない。本当は分からない。
正一がどこを、誰を見ているかなんて。
でも、これから5年10年かけて培って行こうと思っていた最初の根は、正一自身が悩んで選び抜いた、道との人生だ。
正一だって分からなかっただろう。
今までだって、思い通りになったことなんて何もなかったのだから。
正一の目から、涙が出ていた。
「正一さん、いつものように言って!愛してるからって!正一さん!!」
すると、ひどく弱い声がした……
「道……」
「正一さん?」
「愛して……います………」
「?!」
誰もが黙って聞き入った。
「……本当はちゃんと………ずっと家族で………」
周囲も驚く。もう、回復しないせん妄状態だと思っていたのだ。
いや、まだせん妄の中かもしれない。
道も安心する。自分の名だ。たとえ意識が混濁していても。
「……一緒に………ずっと………」
「正一さん……」
と、道が抱えていた正一の手に力が入った時だった。
バッと章が動いて、道の兄から紙を奪った。そして兄をドンと押す。
「っ?!」
「あ、この!」
と、大人がひるむと、
「ああああーーーーー!!!」
と大きな声を出す。
「章君?!」
「!!」
看護師が捕まえようとすると、その手も兄の手もスルッとかわして廊下に飛び出した。
「章君!!」
医者も叫ぶ。
そして章は、フロアのゴミ箱の前まで来て、紙をびりっと破いた。ぐちゃぐちゃにして捨てようとするも、先の看護師が追い駆けて来たので、ゴミ箱も漁られると服の中に入れた。
「章君。」
追い付いた看護師は章を抱き上げ、必死に紙を隠そうとする章をギュッと抱き寄せ、章で自分の顔を隠す。紙がいびつにガザガザする。章はシャツも着ないのできっと痛いだろう。
「………章君………」
「おっ!章、その年で看護師を泣かすんか!」
と、前に同じ病室だったおじさんがからかっていた。
一方病室では、道が正一の腕を抱いたまま泣いていた。
「正一さん、正一さん……」
兄がそれでも道の腕を掴もうとすると、義姉が止める。
数人がこの病室の前で、何があったんだとのぞき込んでいた。