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スリーライティング・中 Three Lighting  作者: タイニ
第十三章 天の灯の下で

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21 離れることも寄り添うことも



いつもの病室。



「道…………」


「………道さん、学生に戻るんだ………」

「!」

久々にしっかり話す正一に道はハッとし、そして耳元でゆっくり答える。

「私はあなたの妻ですよ。」


今日道は病院に通い、体が固まらないように正一の手や腕、足にリハビリやマッサージをする、もうすでに、1ヶ月の余命宣告をされていた。

道には分からない。この言葉が正一の記憶の反射的なものなのか、失った部分をどこかで補い合いながら、しっかりした意識から紡いでいるのか。



その口から、『洋子』の名前が出てきたらどうすればいいのか、といつも心が緊張する。


本心なのか、記憶の混乱なのか。もし出てきてもきっとそれは、永遠に分からない。



でも、今はまだ、


その名は出てこない。




「……正一さん、お願いがあります。」


もう、どこまで物事が把握できるか分からないけれど。


「愛しています。」

「………」

「だからずっと、一緒です。」

「………一緒に………いられないから…………。今だって………」

「今、一緒じゃないですか。」

「……道……」


「私は愛しています!」

「………」

「正一さん、お願いがあります。」

道は真っ直ぐ正一を見る。


「私のことを愛していなくても構いません。正一さんが他の誰かを愛していても構いません。

でも、…………愛してるって言って下さいっ。」

「…………」

「私たちは愛し合っています。……そうでしょ?」


そうでなければ正一がいなくなった後、道は立場を失う。周りに偽造結婚と思われたら、また逃げながら生きなければならないかもしれない。章がいるのに。



今後あのマンションにいられるだろうか。


今はその資格がある、『妻』だ。

そして、正一の財産を受け継げる妻であり、同じように受け継げる章の、その『母』だ。


あそこには楽器だけでなく、章が慣れ親しんだたくさんのCDがあり、止まったままの…………正一の昔の仕事の資料がたくさんあった。


でも、あのマンションには洋子の動かせない財産もある。


そして、正一が亡くなってしまった場合、洋子が親権を持っている章の兄の物にもなる。洋子の再婚相手は、いい人とは聞いているけれど、独り身になった洋子に惚れに惚れてすぐに結婚を申し込んだ相手。前後事情をあまり考えていない可能性もある。


現に、妻が元夫の家に行き来するしかない状況を作ってしまった。


章にも良い様に考えてくれるだろうか。




「……章のために、そう言って下さい。」

「…………愛して………ません………やり直せる……まだ………」

「正一さん!なら、愛している章のために!」



死別後定住には、道は立場も期間もまだ十分ではない。章の親権だけが母親でいられる今の足掛かりだ。


他の誰が、章のお母さんになってくれるのだろうか?

こんな大きな子に紐を結ぶの?と言われながら、その手綱を握っていられるのだろうか。




自分の中で揺らめく、見えそうで見えない、


でも見えた章の瞳。



今は離してはいけない小さな手。



「………離婚……してくだ………さ…」

「…………」


道は少し正一の言葉を待って、何も言わなくなってからそっとその唇にキスをした。



「愛しています……」




***




正一があの状態になってから、体調を崩し気味の義母の様子を道は見に行く。


「お義母さん、冷蔵庫、食品買い足しておきましたからね。どうしましょう。今日は何か作っておきますか?」

義父はホームに入った。しばらく入居を拒んでいたが、道にも余裕がなく、他に助けがない状況を悟り遂に折れたのだ。こんなに騒がしい親族がいるのに。


「お父さんの様子も見てきましたけど、元気そうですよ。職員さんを困らせないようにお願いしておきました。」

「……………」



大きなリビングのソファーに座りながら、義母はゆっくり言った。


「道さん………」

「はい」

「………私の事、嫌ってないの?」

「………へ?」

なぜ今そんな話に、と分からない道。


「………いろいろ意地悪したでしょ……。」

「……?……あ、ああ!……別に大丈夫ですよ。私もお義母さんの立場なら、そう思うかもしれませんし。」

おそらく苦労した婚家。

そこに、若いだけで持ち上げられる嫁がいきなりのさばったら、思うこともあっただろう。苦労してきたところに、孫娘世代の嫁が急に来て。しかも外国人。いい要素なのかマイナスなのかは分からないが、道は半分日本で育った人間だ。そこは嫌われもして、安心もされていたのかもしれない。


「それにウチも似たようなもんですし……。慣れています。あはっ…」

笑えることではないが、道の家族も相当自己主張が強い。



「…………私ね、私なら許さないから…………」

「お義母さん?」


「私ね、この家に来た時ね、すごく………いじめられていたの…………」

「!」

「……いじめというか、見下されて。」

「…………」


「作った料理を『こんな味はうちの料理じゃない』って、正次郎さんのお母さんに鍋ごとシンクや庭に捨てられて……」

「!……」

「お味噌汁も………東京はこんな具も入れないし、こんな味付けもしないって………」

お義母さんは埼玉の人だ。道から見れば、東京も埼玉も味はたいして変わらないのだがと思う。

「正次郎さんに言ったらね、母は京都から来て帰らせてももらえず苦労してるから、許してあげてほしいっていうの……」


お義母さんの声が、震えている。


そして冠婚葬祭以外、義母もほとんど家に帰らせてもらえなかった。男が多く男性が強いこの家で、正次郎の母の気分に振り回され、義母もあれこれ従いながら生きて来た。あの時代はそれでもおかしいと思われなかったのだ。



「こんな事、若い子に言うべきじゃないけど、愛人を作るとかはなかったし頻繁にでもないけれど………夜遊びはしてて……」

昔のどぎつい香水のにおいを付けて帰って来ても、それくらい許してあげなさいと言われた。もし、許したとしても、人に言われることではないと思っていた。


あの時代でさえ。でも、思うだけだ。


お義母さんもお金はある程度自由に使えたが、結局正次郎の母好みの慎みのある質素な物しか身に付けられなかった。お義母さんはもう少し柄のある物が好きだったのに。そして気が付いたら既に年老いて。

「もっと華やかな物を着ればいいのに」と夫は言っていたが、正次郎は女の間であったことを全部は知らないままだ。言ってもきっと分からない世界であろう。



義母の目が潤み、次から次へと涙がこぼれる。



「………あの頃、他の生き方があるなんて知らなくて………。違う、知ってはいたけれど、自分もそうしていいんだって……分からなくて……」

ここまで来てしまった。


道はなんとなく思う。お義母さんは旦那にぞんざいにもされなかったが、分かりやすい愛情表現もされなかったのかもしれない。そういう時代だ。その中に、友人の娘というだけでかわいがってもらった自分が来て。

お義母さんは人の関心を独占したいタイプには見えない。もし、正次郎がお義母さんに分かりやすい愛をたくさん注いでいたら、他人が少し良くされようがきっと気にならなかったことだろう。


道の父も似たようなところはあるが、調子のいい男だったので、よく『ママ、愛してる~』とみんなの前で妻に抱きついて嫌がられていた。妻にも愛想はよかったのだ。ただ、祖母に後から聞いたところによると、牧師や長老に度々忠告されていたので、女遊びも大勢の酒の場以外は何もなかったらしい。意外だ。




義母の、


止まらない涙。



「………お義母さん……」


「道さん、許してほしいって勝手だけど………そう思ってることは聞いてほしかったから……」

「……はい、聞いています。大丈夫ですよ。」

「ごめんなさい………」

「大丈夫です。お義母さんの事、好きですよ。」

「!……」

道はそっと笑って、ティッシュを渡す。

「お互い様ですよ。みんな大なり小なりいろいろあります。」


「ごめんね………」

「…私も、いろいろごめんなさい………」

急に現れて急に結婚。

「………ごめんね………」


そう繰り返す義母の肩を揉んであげ、料理を作ってから遊び部屋で寝っ転がっている章を呼び、義実家を後にした。





夜の空を見上げて思う。



何もかもが難しい。


今なら弱ってしまった義母を支えながらここでも暮らせそうだが、そうすると今度は義実家を乗っ取ろうとしていると言われるだろう。何もしないと冷たい人間だ、どうせ外国人だと言われ、みんなに良くしようとすると今度は取り入っていると言われる。


道は付かず離れずの生き方しかできなかった。






そして、義母の「ごめんなさい」は、二人の関係や心の面においての謝罪だけではなかった。



もう遅い。


もう、道がこの家で居場所と信頼を得ていくには、動くのが遅かったのだ。





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