18 ずっと一緒に
章と道をマンションに置いて、久々に正一は、若葉の家に来ていた。
「若葉さん……。」
正一は疲れ気味だ。
「正君、もうね。結婚しちゃいな。いい子じゃない。」
あれから道はホステルに行くことはなく、そのまま1か月と少しマンションで生活している。一度韓国に戻って、再入国もしていた。そこで道の母が、今まで貯めていた道の子供の頃からのお小遣い通帳も、カードと一緒に渡してくれる。日本の銀行の物で数十万円入っていた。
「道子さんのこと、助けてあげなかったんでしょ?でも、文句も言わないって健気じゃない。」
頬が叩かれたことには次の日まで触れず、伯父伯母たちの対処だけに済ませた。自分より富子が勇敢であったのに。
「………おかしい。」
普通、女性だったらそういうことに幻滅すると思うのに、道は全然気にしていない。もしかして本当に叩かれ慣れているとか?でも泣いていたと正一は複雑だ。
「覚悟してんでしょ。好かれてここにいるわけでもないのに。」
控えめだけれど少し積極性のある道に、二人の関係は変わりつつあった。
正一は疲れきって一言もらす。
「…………会社でまたバカにされています……。」
ここで言う会社とは昔勤めていた建築会社のことだ。前は10代。今度はギリギリ20代。似たようなものである。
「もういいじゃない。もう正君の運命だよ、それ。ここまで来ると。」
普通の男は、10も20も離れている女性にこんなふうにアプローチされない。正一が積極的だったわけでもないのだ。出会いの場に行ったわけでもなく、普通に仕事をしていただけだ。前だって年齢を聞いて諦めた。
若葉は、ん~と考える。
「それに彼女ね………」
「………」
「『道子』とは!」
名前のことだ。
「やめてください!!」
「……ちょっと、怒鳴らないで。」
「正君、あのね。これは真面目に言うけれど、正君も頼れる人が必要だよ。これからどうする気?」
「私の人生に、若い女性をつき合せられません。」
「若いって考えるからダメなんだよ。大人だし。考えも大人じゃない。うちの息子の20歳の時よりずっと大人なんだけど。」
富子と同じことを言う。
そしていつかのあの人の時と。
「じゃあ、30、40の仕事の相談にも乗れるような人と結婚すれば?」
「………都合のいい人が、簡単にその辺にいるわけではありません。だったらみんな結婚できるでしょ……。再婚しなくてもいいです。」
「…………」
若葉は本当にこの男はかわいそうだと思う。普通の会社勤めをしていたら40でもモテそうなのに、人を放っておけない性格ゆえにあんな親の会社で必死に地味に生きている。社長なのに、目下の部下をコントロールするので精いっぱいだ。
「ホント頭が固い。正君なら少し面倒事があっても、他の女性いくらでも寄ってきそうなのに。」
「………」
若葉は既に知っている。
正一が洋子のために、その場所を開けているということを。
聞いたわけではない。でも聞かなくても分かる。
若葉は最初から思っていたことがある。
あの頃は彼女も若かったから、あまりにも正一が大人に見えて気が付かなかったのだろう。
正一にも、
正一だからこそ、頼れる人が必要だったと。
***
何でもないある日。
道は正一にマンションに送ってもらい、正一も家にあるスーツを取りに行こうと一旦一緒に部屋に行く。そして用を済ませて、すぐに出て行こうとした時だ。
「正一さん!」
嫌な予感がする。
「…………」
なので早く退散しようとすると、強く言われた。
「正一さん、結婚しましょう!」
「!」
道は普段普通なのに、急にこういうことを言って来るのだ。なにせ二人きり。チャンスである。
「………あなたの伯父さんがまた激怒しますよ。」
「でも、これは私の人生です。もう戦後とは違うんです。自分が選んだ人と結婚できる時代です。」
と、道は笑う。
正一と道。まだ会って4か月も経ってないのに、もう1年は過ぎた気がする。
「チェさん。それに既に察しているかもしれませんが、うちの家、ものすごい古くて堅いです。嫁に最悪な家です。」
「………」
「多分韓国人とか好きでないですし。しかも、国の行事には未だ国旗を飾るし……。父は韓国にも遊びに行っていたようですが、他の親戚がね………」
昭和と平成初期の日本は、正月や祝日、特別な日は普通に家の玄関に国旗を掲げる家も少なくなたかった。飾る場所も玄関に元々付いていたくらいだ。
「…………正月は会社で神事もしますし。」
「……分かっていたので大丈夫です。ここは日本ですし。」
「でもキリスト教徒でしょ?そっちの方が……」
「構いません。」
「……他にいい人を紹介しますよ。」
「………いやです。正一さんとこんなふうな関係になって離れてしまったら、もう章君の面倒が見れません。」
「こんなふうな関係?」
「私が求婚していた男性の家のお手伝いを続けながら、他の人と付き合うなど不誠実すぎます……」
「…………」
正一、顔をしかめる。言われてみればそうだ。妻や彼女が結婚したかった男性の子を見るために、その家に通うとかありえない。
「今、章君と離れるなんてできません。」
「それはどうにかすると言っています。」
そして、正一は続ける。
「それに………、もう。……もう言ってしまうと………」
と、いつもと違う感じで切り出す正一の顔を、道も見上げる。
「元妻を……
元妻を………まだ愛しています………」
「!」
道の胸が少しドクンとした。
「……もう、あきらめないといけないんですけどね……。」
子供ができたのだ。今の旦那は献身的で、他人の子にも優しい。
でも………なのに、
正一の目には、一人投げ出されてしまう洋子の姿が目に浮かぶ。
「……私は、そういう人間ですので…………」
その言葉を聞きながらも、道は去ろうとする正一の背を掴んだ。
「……知っています。」
「?」
「正一さん、それでもいいんです。でも、私を章君のお母さんにしてください。」
道にも、正一とは違う意味で、一人投げ出されてしまう章が思い浮かんでいた。
関係を固めないといけない、その焦り。
何か、未来への焦り。
なぜ?
本当は道だって、看護や様々な資格を取ってから動き出そうと思っていたのだ。
でも、投げ出されたこの世界。
普通だったら、こんなふうに誰かの家に入ることなんでできなかったであろう。家族関係さえ希薄な時代だ。
そして、時間的にも立場的にも余裕があり、今、章の見ている世界を一緒に見てあげられるのは自分だけだ。学生でいられる、まだ職がなくても許される自分。
「妻の位置に付いても、財産やとかそういうのは求めません。出来るだけ叔父様たちを不安にさせないように証書も書きます!」
「………道さん、それは夫婦の間で日本では保障されたものです。そいう話ではありませんし、そんな結婚はできません。きちんと、正当な立場が守られる結婚をするべきです。」
正一は焦る道にきちんと話す。
「うちの状況も知っているでしょ。仲の悪い親族関係に、横柄な車椅子生活の父。母も不愛想です。」
「もう知っています!」
「………………」
「会社のことも、私も勉強しますから。仕事も支えます!」
「…………職に関して未来の保証はできません。」
「………?」
「会社は折を見て畳むつもりです。」
「!」
「初めからそのつもりでした。この仕事を引き受けなければ……もしかして、元妻と離婚することもなかったかもしれません…………。」
正一は力なく言う。少しして畳むつもりで、正一が入ったらまた軌道に乗り始めてしまったのだ。
「妻を思って、仕事を断る勇気もなかったんです…………」
「…………」
「私はあなたが苦しんでいても、助けてあげられないかもしれません。」
しばらく正一を見て、道は言う。
「何度も言っています。構いません。」
「…………」
「若いから世の中知らないからって思われるかもしれないけれど、ならそのエネルギーで乗り切ります!」
「……どうかしてます?」
「してます!していなければ、日本に来ませんでした!」
「それに、そんな契約結婚みたいな関係。……私も男ですので、横に女性を置いておくだけの関係は無理ですから……」
言いたくなさそうに、でも結婚という限り必要な話なので言っておく。
「………」
道は少し、ギョッとしてしまう。
でも、
でも、もう一度、正一の服を引っ張った。
「全部分かってここに来ました。正一さん、結婚してください。」
答えを出せない正一は、静かに下を向いて、それから無言で玄関を出て行った。
***
その、2カ月後。
静かに神社の中に立つ二人。
雨が降りそうな曇り空。
入籍だけにして、式も披露宴も食事会もしないつもりであったが、正一と道は袴と白無垢でそこに立っていた。道子側の親族は、祖母と母、そしてこの前の叔父たちと叔母たちだけが参席する。
両家がしっかり式はして欲しいということで、こういう形になったのだ。チェ氏側の条件は、道の祖母のために小さくても式とお祝いはする事。
道には、山名瀬家のものである白無垢を着てみ詞と御神酒はしてもらう。これは山名瀬側の条件だ。
ゆっくりと歩く綿帽子を被った花嫁。
章も若葉にハーネスで掴まれたままそれを見守った。
キラキラと美しい道。
そしてその横の、ニコニコと笑う章の兄、正二。正二は先月の顔合わせですぐに道が好きになってしまった。厳粛に式を行いたいのに、待ち時間に飽きた章が余計なことをして少々賑やかになってしまう。
実は、今はもう20を越したが、出会った時点で道は満19歳だったと知って、数日前にまた少し騒ぎになったのだ。でも、正二に会わせた後。正二も新しいお母さんをすごく喜んでいたので、周囲が正一を折れさせた。
恐ろしいことに正一の親族の方は、数人顔がヤバそうな人たちがいる。ヤクザかと思うも普通にいい人たちであった。でもそのせいか、この前のようなケンカになることはなかった。
けれどまだ披露宴を盛大にする時代。
末娘、末の姪の道子がこんなに地味な式で済ませ、晴れ姿を韓国の兄や友人たちにも見て貰えないのは、叔父たちには心を抉られるくらい寂しいことだった。
そして、そんな事情をチェ氏側が許したことが、どれほど大きいことか、富子や一部の親族たちは理解している。
その後、お座敷で和食の食事会だけはする。
「キルジャ……。うぅ…なんでこんなバツイチ子持ちの二倍も年上な日本人に………」
あの怒鳴っていた伯父が泣いてしまう。
「……それをここで言うかねぇ……。」
と、富子は嫌味を言っておく。
「まあ、顔はかっこいい方じゃない?」
韓国から来た道の祖母があきらめ顔で言って、章と正二にお小遣いを渡した。
それから、正一と道が身を繋げたのはさらに1カ月後だ。
もう一度マンションに住まいを移し、
二人の気持ちがやっと整って、毎日布団に入って来る章を若葉に預け、
それは本当に、くすぐったくて幸せな日々だった。
※二人の結婚式を元々の構想に修正しました。