10 殺意だって湧く
それから道には休んでいてもらい、皿洗いを済ませてコーヒータイムに。
「すごい!いっぱいある。」
コーヒー各種に、抹茶、ほうじ茶、紅茶カフェ、甘味蜂蜜など何でもある。
「それも全部章が買ったの………。戸棚にあるから箱ごと持って帰って。」
「え…………。」
言われて棚を開けると、さらに様々なブランドが置いてあった。
「事務所にもたくさん持って行ってるから、気にしないで好きなの持って行ってね。」
戸惑っていると道も来て、尚香の好きなものを聞いて10箱ほどくれた。
「うれしいけど……いいんですか?」
「いいのいいの。今日のお礼も含めて。」
袋にレトルト食品とカフェをたくさんもらう。
そして、ローテーブルに戻った道は力なく言った。
「それでね、お願いがあるの………」
「はい?」
「………今日だけでいい……。今日だけでいいから、泊まって行ってくれる?」
「!」
「さみしくて………」
なんだか人恋しい。
自分はなんだ、洋子さんか。と道は思ってしまう。
「………………」
少し道の顔を見て、尚香は笑う。
「いいですよ。」
「私の事、情けないと思った?」
「いえ、そういう時もあると思います。」
大変なのは尚香ちゃんなのにと思う。大変にさせた家族が、その本人にすがっているなんて。でも章が大きくなって、もう離れた方がいいと思い、別居させてからとてもさみしかった。
幼稚園から2年生までは無鉄砲で。
急にいろいろ難しさが出てきて。
でも、ずっと一緒だった。
さみしかったんだと思う。
章がいるだけで、毎日がてんやわんやだったのに、今よりずっと大変で苦しくて忙しかったのに、やっと気兼ねなく仕事ができてホッとしたのに。
数回韓国に連れ戻されそうになってから、もう日本にいる親戚にも会っていない。道自身は小中は日本の学校に通ったので友人がいるにはいるが、お互い生活が変わって忙しく疎遠になってしまった。
「………章ね。とってもかわいかったの………」
「………」
「幼稚園の時からずっと一緒で………今も一緒に暮らすこともできたんだけど、継母だし………」
夫もいなくなり道との子もいない。他人から見れば、道もまだ若く親という感じでもない。母親に依存し過ぎる何もできない息子。高卒で離れなさいと親戚たちに言われ仕方なかったし、それもそうだと思ったのだ。それでも章の家の管理も半分以上道がしている。
余裕ができたら自分の事をしようと思っていた。
新しい勉強を始めようか。旅行も少し行って気分を変えて、仕事も増やして。
でも、さみしい。
「ごめんね。何だろう……こんなふうに弱気になったの、初めてかも………」
大変だったけれど、正一や章と過ごした1年と数か月は本当に楽しかった。お兄ちゃんの正二君を見て、こんなにいい子がいるんだとびっくりもした。今まで忙し過ぎて、何かを振り返るなんてなかったけれど、ここに来てなぜこんな思いに……
「道さん………」
尚香はなんだか切ない。道もきっと疲れがたまっていたのだろう。十数年分のものが。
「………尚香ちゃん。」
「はい。」
「尚香ちゃんも、いろいろため込まないでね……」
「………」
「章のこととか考えなくていいから、気晴らししかさせてあげられないけど、私にも相談して。愚痴でもいいから………。そういうので私に気を遣わなくていいし、十分なことはできないかもしれないけど……ちゃんと言いたいこと言ってね。」
章の親である以上、そういうわけにはいかないが、それでばっさり縁を切るとかしないでほしいと道は思った。今の尚香を助けたいし、きっと金本家が居やすくて、昔みたいにみんなで一緒にご飯を食べて、同じ布団にくるまって、走り回る章を捕まえて、そんな生活をまたしたいなと思ったのかもしれない。
「もし、私たちといつか縁を切るとしても………」
もし尚香がいつか違う人を選ぶなら、金本家のど真ん中には居れないだろう。
「今は頼って。」
「………」
「辛くなったら本当にここに愚痴でも言いに来て。夜中でもいいから。……でもね、大変な中で自分が勝ち取ったものって、誰にも奪えない永遠の物でもあると思うから………」
「………奪えない?」
「辛いことに会った時、悲しみや痛みだけが、心にずっと刻まれるわけじゃないんだよ。
………それを乗り越えた時……、自分では越えられないと思っていても、負けたと思っても、どうにか切り抜けた時………自分にしか得られない、神様との軌道も残るから。」
「………」
ああそうか、道はクリスチャンだったと思い出す。
「それはね、天と自分だけの、永遠の賜物………」
道の目がいつの間にか生気を取り戻し、指で小さな何かを掴む。
「私ね、山名瀬家で本当に大変な時期があって、夫にも煙たがられてるんだって思って、夫がいなくなったら就活を邪魔する章君がいて………」
山名瀬家にも自分の実家にも嫌われて………。なのに嫌っている人の介護もして………
「でも、本当に楽しかったんだ……。」
あの苦労から逃げていたら、正一や章の笑顔にも、正二の優しさにも出会えなかっただろう。
最初は無表情だった章が笑ったのは、出会って数カ月後だ。三人で寝床でふざけていた時、正一が道をくすぐるので助けてと叫んだら、楽しそうに笑った。
もしあの生活の最初に根を上げていたら、そんな顔は見られなかった。
道は懐かしむ。
「私、時々いい人って言われるけど、正直山名瀬家の親戚をみんな、泥沼に投げ込みたいって思ってた時期もあったんだよ。」
「えっ!?」
それは意外だ。道さんが?
ただ最初に章に会った時、尚香もこんな人は痛い目にでも会えばいいと思ったが。
「……尚香ちゃんは、やさしいからこんな私のこと怖がらないでね。」
「………道さん。道さんはやっぱりいい人過ぎます…………」
「…?」
「……私、泥の中に落ちろなんてかわいいことは思いません。」
泥んこになるだけなら、かわいいものである。泥遊びなんてさせやしない。
「え?かわいい?」
「かわいすぎます。」
「そう??」
「そうです。底なし沼ならともかく…………違う、底なし沼でもぬるいです!」
「!!」
やっぱり道さんはいい人なのであろう。尚香だったら、そうは思わない。
そんな生ぬるいことは思わない。
本当に大変な人は、泥の中に落としたところで何も反省しない。
人生失敗しても、人を貶めても、自分が気分で爆弾を爆破しても、自分のせいだとは全く思わないのだ。
全部他人と世の中のせいにする。
表面的性格が頑固だとか、やさしいとかは関係ない。穏やかな人が、自分はまともだと思って、ねちねち遠回しに人を鬱にさせるのも見て来た。しかもさせた本人は自覚がない。そういう人に尚香はたくさん出会ってきた。
自分もねちっこく、椅子に縛り上げて、その人が何をしてどう人を蔑んで来たか、全部説明して分かるまで言ってやりたい。ある意味拷問だ。
そして同じことを他の人にされたらいいとまで思う。でも、されてもそういう人は、自分が他人に同じことをしたとは考えないであろう。自分が最も複雑なことを理解していると思い込んでいて、単純な行動を起こす。
自分がしてきたことも、他人がすれば不義だと抗議する。
万年被害者だ。
「……道さん、道さん章君や会社から、私の身に起きた事、聞いてますよね?」
道は頷く。
「私ね。ただ事件をおさめようと、自分が悪いと、迷惑かけて申し訳ないと、純粋に思っていたわけじゃありません……」
尚香はどこともない方向を向いて話し出した。
「………以前の件で……本当は殺意すら湧いていたんです。」
「!!」
「私を、ネット上で枕営業扱いしたと拡散した人物を特定した時、彼、正義心に燃えていたんです。少なくとも額面上は。」
「…………」
「そんな人は大勢いて、すごく偉そうに世の中を語って、でも匿名で。」
今でも思い出して尚香はキリキリする。
「なのにその男が、別の事件で男性を性犯罪の冤罪に陥れた女性を、世の『害悪』だって書いてたんです。」
「……」
それはそうだ。それはそうであろう。性犯罪となれば、冤罪でも全て失う場合がある。
「でもその人、私を冤罪に陥れてるんですよね……」
そういうことだ。
「その人、その事には全く気が付いていないんです……。」
「?!」
そう。そういう人たちだから、ネット上で大義を語れるのだ。
「性犯罪の風評被害はけっこう軽んじられるってことも知りました………。私を擁護してくれる言葉も、セカンドレイプって、そんな罪確定にならない言葉で終わって。セカンドレイプではなくて、名誉棄損に冤罪にさせたってことですよね。はっきり言えば。」
「…………」
「それって、完全にその人から受けた私の『冤罪』じゃないですか………。」
明確な罪だ。なのに、セカンドレイプという言葉でぼかされる。相手だって明確な犯罪者ではないのか。
尚香はただ弱っていたわけではない。その事実を知った時、殺意すら湧いていた。
どこか脳内で「冤罪」が、「罷免」にすり替わっていました。ごめんなさい!全部修正しました。
※この物語の大枠は、今より15年以上前に構想したものです。あまり時勢と絡めず、物語の中の出来事としてお読みください。