惜しみなく奪うもの
三、
雪がこんこんと降りしきっていた。
「マーガレット、わが愛しい娘……」
父王の背中に追いつくべく、懸命に足を踏み出す。
「おまえは私の宝だ。スコットランド中の財宝をかき集めたとて足りるはずもない。おまえは何物にも代えがたい、私の大切な愛娘だ」
私の頭を愛しげに撫でながら、お父様はよくそう言ってくださった。
至福に包まれながらお父様の顔を見上げる。なにも知らなかった幼い私は、その言葉を疑うはずもなかった。
再び踏み込んだ右足は雪中へと沈んでいく。
信じていた。なのに、
「おまえの嫁ぐ男はじきにフランスの王冠を戴くことになっている」
私の〝嫁ぎ先〟が決定してからだろうか。お父様はにわかに冷淡になったかのように見えた。
「スコットランドの安泰のためだ。おまえの力が必要となった、」
フランス国王であるシャルル七世から持ち掛けられた縁談を、お父様はあっさり快諾したと聞いた。
なぜだろう。あれほどまでに私を愛していると言ったのに。
「よく尽くせ。王太子に気に入られるほど援助が見込める。花を摘み、気ままに詩を書いて過ごした年月は過去のものと思え。忘れろ、」
詩を棄てろと強いる父王の声が、耳鳴りのように反響する。かろうじて踏み出した左足も、ますます雪の中奥深くへと沈む。
無情にも遠ざかっていくお父様の背中。なぜ、だろう――、
泣き出しそうになりながら白く冷たい息を吐いた刹那、ごう、と途端に風が舞い吹雪く。
身体はだんだんと雪に埋もれ、芯まで凍てつくのに時間はかからない。
助けてと上げた声は無情にも掠れ、豪雪へと浸み込んでは消える。私はここで死ぬのだ。誰からも愛されないまま――、
その折だった。
沈みゆく私の腕を掴み、引き上げた人がいた。
「……大丈夫か」
あなた、は――…、
はッ、と不意に勢いよく目が醒めた。
見慣れない天蓋。
あれほど目の当たりにした雪とはほど遠く、部屋は暖炉によってほどよく暖められていた。
ぱち、と薪火のはねる音が定期的に響く。火かき棒で時折薪が交ぜられているのだ。
はあと安堵の息を吐き、寝汗で湿った身体をゆっくりと火のほうへと向ける。
「……ルイ様、」
思わず洩らした呟きは確実に届いていたらしい。濃紺の衣服に身を包んだ男、ないし〝夫〟である人物が肩越しにゆっくりと振り向いた。
四、
やたらと丁寧な所作で火かき棒を縁にことりと置くと、ルイ様は寝台へと歩み寄ってきた。
見ると傍らには椅子が置かれている。まさかうなされる私にこの夜中まで付き添ってくれていたのだろうか、と暖かさでぼんやりしてきた頭で考える。
天蓋を引き出し始める男を茫漠として眺めていた。私のようすを垣間見るために今まで締め切らずにいたのだろうか。
「……、」
傍らに腰かけた、久方ぶりに会う夫に対しなにを話してよいのかわからず思わず押し黙る。
「熱は下がったか」
ゆっくりと伸ばされた指先が額に添えられ、その冷たさに思わず身を固くする。
先刻まで暖炉の前に張り付いていたとは俄かには信じがたい冷徹だ。
そういえばこの凍てついた手で以て、この男は私を雪の中から掬いだしてくれたのだ、と見たばかりの夢のことをふと思い出した。
おもむろに現実と夢とが静かに織り交ざり、この平穏がとこしえに続くのを心ひそかに願うばかりだった。
「俺が流刑になったばかりに、慣れない土地であなたを待たせて苦労をかけたな」
いえ、と咄嗟に否定するも静かに微笑んだまま二、三度頷く。
紛うことなき政略結婚であることは間違いない。だが九歳で嫁ぎ八年も経過した今では、ほのかな愛情めいたものを自身に見出しはじめたのも事実だ。
「マルグリットさん」
ましてやこの男は、ぞんざいに呼び捨てにして欲しいという私の意向を聞くそぶりがなく、敬称をつけて呼ぶ。幼いまま異国の地へと嫁いだ私への、ルイ様なりの労りなのかもしれない。
飄々としていてなにを考えているのかよくわからないが、ともすれば私を愛し始めてくれているのかもしれない。
前髪が張り付くほどの寝汗を布で丁重に拭われ、遠慮する間もなくなすがままになっていた。
「よく尽くせ」という父の言葉は呪いのように私の中でずしり重みを増していたが、ふがいないことに寝込んでばかりおり、妻としての務めを果たすことすらままならない。夫に介抱されているこの状況がその象徴だ。
「あの」
ようやくのことで頬を優しく拭く布を遮り、手首を掴んで視線を合わすことに成功した。
太陽にも等しい橙を見据えると不覚にも心臓が高鳴ったが、押し留めるかのようにして言葉を紡ぐべく口を開く。
「当分のあいだは、ここに滞在されるのですよね?」
夫である人物はゆっくりとまた微笑み、すぐさまの肯定も否定もしないでいる。私は覚悟を決め、侍女が聞いたらおそらくは眉をひそめるであろう言葉を継いだ。
「もう一度、二人だけで一緒に過ごすことはできませんか。もう少し時間があれば……あなたの跡取りも」
「形ばかり和解した父から仕事を頼まれていてな」
不穏な出だしに嫌な予感はしていたが、繰り出された言葉は案の定不安を裏切らないものだった。
「スイス軍が鎮圧されてからだな。そしたら、あなたが提案してくれた仕事に専念するのが楽しみだ。そうなったら休暇取るわ」
「今度はスイス軍、ですか……」
思いがけず泣き出しそうになり、必死になって懸命に堪える。互いを静かに思い始めているのはわかっている。にもかかわらず煩雑な仕事というものが、容赦なく壁のように私の前に立ちはだかる。
「そんで、あなたが書いてくれた手紙読んだぜ」
手紙……? と訝しんで目を細めると、間違いなく自分の字で書かれた「ルイ様へ」と認めた表題を見せてくれた。
「……!! のっ……それは、」
「悪いかなとは思ったが、俺宛だったから読んでしまった」
顔から火が出そうなほど熱くなる。
昨日の夜、まだ熱を出す前につらつら書き綴っていた私信だ。書いているうちに真夜中独特のテンションになってしまい、正直無我夢中に書きまくってしまった恥ずい文章だ。てっきり破棄したとばかり思っていたのに、
「いやあ……あなたは詩人だよな」
「や、やめ……」
「あなたは俺のことを愛し始めてくれてるんじゃないかと思うよ」
卑下するかのような言葉だ。
こればかりはどうしても否定をしたく、手紙をめくっていた指先へと手を伸ばし、握りしめた。
「私は」
はら、と羊皮紙が落下し散乱する。自身の側へと引き寄せると、俄かに真摯な眼差しが近くなる。
眸の色合いに思わず息を呑んだが、勇気を振り絞りこれだけは、と告げる。
「もうずいぶん前から、ルイ様を愛していましたよ」
時が止まったかのような静寂に、わずかな火が跳ねる音のみが加わる。
あなたは美しくて優しい女性で、俺には勿体ないんだよな、と続いた折にはまたいつもの調子ではぐらかされるのかと思ったが、きちんと正式に愛を告げられる。しばし優しい時間が流れ夢心地となった。
「あなたが好きな詩という手段で、思いを表現してくれたのが嬉しい」
ふわふわとしていると詩が好きなことを褒められ、たくさん書いてねなどと促される。やはりなにを考えているのかよくわからない男には違いないが、私は一生を添い遂げたいと思う。
「そういや、ここに来る途上で面白い少年に会った。書記官だな」
「書記官……ですか……?」
「うん」
書くことが好きだからあなたの仲間だな、と笑う。
「近い将来、招聘しようと思う。ヴァロア家の伝記作家として、」
てっきり睦言まがいの台詞の一環として話されたものかとも思ったが、うとうとと再び眠気が襲ってきていた私にとってはもはや重要度の低い事項に成り下がった。
伝記作家コミーヌの招聘は、私が病で亡くなる三年後に実現する運びとなる。