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伝記作家コミーヌ  作者: ノブオカ
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邂逅

一、


「一抹の憂いも遺さず死にゆくことができる、と断言すれば、それはおそらく嘘になるだろう」

ごほ、と咳とともに鮮血が噴き出す。傍らにいる老いた妻の嗚咽がますます激しくなった。

「だが私は信じている。息子はやがて言葉ですべてを描き尽くそうとするだろう。書くのだ。おのれの首を惜しむな。事実も感情もすべて、あるがままを書いて書いて書きまくれ。息子は私と同じく、言葉に魂を売ったのだ、」

部屋の隅に控えていた司教がすっと歩み寄った。むせび泣く妻に厳粛ぶる司教一人、僻地の領主に仕えた単なる書記官が死ぬには充分過ぎるもてなしだ。

「現世から」

司教の低い声が響く。

見える。〝この時代〟は過程でしかない。

人は幾度も過ちを繰り返し、学び、そして立ち直るだろう。

世界を変えるのは英雄ではない。地団駄を踏みながら泥臭く悪あがき、そして仕事を成そうとする……われわれ一人ひとりの、名もなき人間たちだ。

生きて、書け――フィリップ・ド・コミーヌ……!!

「去れ、」

静かに息を引き取った。

穏やかな笑みを浮かべた死者の部屋に、妻の号泣のみが木霊した。




二、


なにかに気がついたかのように少年が書物から顔を上げた。

大きな紫苑色の眸で一通り辺りを見回したのち、再び書物に熱中し始めたときだった。


「父親が亡くなったというのに呑気に読書三昧か?」


声の主に応じて振り返れば、後方入り口に先ほどとは別の気配を発する人物が佇んでいる。

若いが自分よりは年上だ。二十歳手前といったところか。

「構いません。あらゆる事象よりも読書と執筆を優先するよう、常々父からは言いつかっておりました。高貴な身分であられるルイ王太子様にその死を伝聞されるとは名誉なことです。父もあの世とやらで喜んでおりましょう」

「なぜわかった?」

俺がルイだと、と続け、王太子の癖なのか口の端を歪めて嗤う。

一目でその身を明かしたことに対する驚愕そのものはまったくない。

怜悧な頭脳をもつ人物とはかねがね噂に聞いていた。異様に勘が鋭いとも。


「書物庫には機密も多く、書記官含め特定の者しか出入りは叶いません。僕は鍵をかけていた。とすると公が容易に鍵を明け渡す人物とは、やんごとない身分であられなければならない。例えば、フランス王国からの重要な客人とか」

王太子はふっと嗤いとともに息を洩らした。

「幼いわりにずいぶん先手を読んだ推理を凝らすんだな。たいしたもんだ」

「そうですか? ほかの者は冷たいとか、場合によっては悪魔とか言いますけど。現に父親の今際にも駆けつけないぐらいですし」

「俺も父と仲が悪いから、なんとなく気持ちはわかる」

何度か頷いてから王太子は室内へと歩を進め、棚から書物の一冊を手に取った。

ルイ王太子は昨年諸侯をそそのかし、実の父親であるシャルル国王陛下に反乱を起こした。

長男である以上ゆくゆくは自動的に戴くことになる王冠をこうも急くとは、不思議な人だな、と傍観していたものだ。

もちろん反乱はあっさりと鎮圧され、王太子はオーベルニュへと流刑されることとなったと聞いた。

「俺は戦ごとが苦手なんだな。騎士道精神というやつも正直よくわからない。月並みだが、単純に人が死ぬのが嫌なんだな。父が王冠が欲しければ戦えと言うので、やむなく反乱を起こしたが……」

「……」

「戦ごとの目的は領地だ。だったら上の人間が権謀術数を駆使して領地を併合すりゃあいい。手段は二の次のはずだ、」

本来はな、とつけ足してから、また口元を歪めて嗤う。おもむろに書物を開き黙読し始めた。

この人が正式な手順を踏んで王位を継承した暁には、腹に一物もって単身ここに乗り込んできそうだなとある種の嫌な予感を憶えた。

まあ流刑の途上で客人ぶってここに立ち寄るのも似たような状況だが。

「だがおまえの説明には致命的な欠陥があるぞ」

王太子の視線は書物へと伏せられたままだ。

「欠陥とは?」

「書物庫には機密が多いのだとおまえは先ほど言った。なら何故公は俺に鍵を明け渡した? これなんていわゆる異端書のたぐいだ。太陽が中心であり、地球はその周りを回ると書かれている。おおかた公の祖先さんが偶然蒐集したものを、うっかり後生大事に取っておいてしまったんだろうな。これを公の敵側である俺が騒ぎ立てたらどうなる? 教皇にチクッたら? お家取りつぶしになっても不思議じゃないぜ、」

「公はルイ様が思っているよりずっと賢明な方です」

へえ、と王太子はようやく視線を上げた。

「無策のまま鍵を明け渡すような御仁ではありません。公は僕が書物庫にいることを委細承知した上で、あなたと引き合わせた。つまり、」

「刺し違えろと?」

背後に隠し持っていた短刀に添えた指がびくっと跳ねた。

王太子は腰の剣に指先をかけるどころか、開かれた書物から未だに手を離すことさえしない。子どもだと思って完全に舐められているのだ。

僕は震える指で短刀を鞘から引き抜いた。

落下した鞘が床にぶつかり、からん、と乾いた音を立てる。

呼吸は荒くなる一方だった。切っ先を王太子に向けたこのまま、勢いに任せて突進すれば僕は役目を完遂することができる。

「いいぜ」

王太子は書物をぱたんと閉じ棚に戻すと、傍らの椅子に腰かけた。僕に横顔を見せる格好になる。

「敵地で書記官の子どもに殺される――それもまた一興だろう」

ゆっくりと脚を組む。殺気など微塵もなく、あまりにも隙だらけだ。

罠ではない。本気で言っているのだ、

荒ぶった呼吸を繰り返す。なにを考えているんだこの男は。

何故こうも自分の命に頓着しない? わからない。

いずれにせよ、千載一遇の好機を逃す手はない。それはわかっているのに、


何故、足が動かないのか。


切っ先を向けたまま大きく肩を上下させる。

一向に動く気配のない僕を王太子は横目で一瞥し、つまらなそうに伸びをする。

それから顔を傾け、沈みゆく夕陽を小窓から眺め始めた。

「おまえ、天動説を信じるか?」

「……え?」

王太子の眸色に近い紅が、だんだんと沈み部屋を染めてゆく。

なんだ? てんどうせつ?

「俺は信じん。ありゃあ棄却されるべき通説だ、」

ひどく真剣な表情をしている。呆然としていると王太子は立ち上がり、先ほどの書物を再度手に取り広げた。

「さっき読んだこれに触発されてな。太陽を中心に据え地球が回るとするこの新説を〝地動説〟とでも名付けると、天が動くのだとする従来の説はいわば天動説だろう」

死の際に接して惑星の公転の話をしているのか?

冷たい汗が背中を伝うのがわかる。

しかもなにかの間違いで収集された奇書に書かれている内容を、易々と信じるだと?

「……あなたはかつてのどの王たちよりも信心深いと……教皇が礼賛している、そう聞きましたが……、」

こんな異端書をあっさり肯定して、正気ですか……? そう続けたかったが、はくはくといたずらに息を吐くばかりで声が出ない。

「そんなもんただの演技だ。信奉するフリをして莫大な寄附金を与えれば、あいつらは静かになるからだ、」

あまりに正直すぎる告白に僕は鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。

王太子の祖父である、シャルル六世……〝狂気王〟の血が、確かにこの男にも流れている。

だが、なんだろう――

「俺は信じん。神なんぞおらん、」

この躍動感は。

僕は待っていたのだ、この狭い書物庫でずっと、

「――おまえもそうじゃないのか?」

僕と面白い議論をしてくれる人物を。

短刀の柄が指先から抜け落ち、からんからんと音を立てた。

戦意喪失して目線を伏せる僕を不思議そうに見つめてから、王太子は扉へと向かう。すれ違いざまぽんと肩を叩かれた。

「安心しろ。おまえの命は公にとりなしといてやる、」

「……、」

見上げると橙の眸が僕を映している。王太子はしっかりと笑った。

「またな、」

ぱたん、と閉まる扉を背中で見送った。

僕は書物庫内の机に向かうと、すぐさま筆記具を動かし始めた。

書き留めたい――あの男のことを、

ふつふつと湧き上がる野望と躍動感。のちにこの思いが結実しようとは、――王室に伝記作家として招聘されることになろうとは――このときはまだ想像だにしていなかった。



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