密室お味噌汁殺人事件
「何を馬鹿な事を。夫である私が妻を殺したというのですか?しかもこんな、窓も一つしかない館の隅の一室で、鍵は部屋の中にあったというのに?
刑事さんから聞いた話では、部屋には薬を飲んだ拍子に零れたと考えられる液体の後があったそうですが、彼女が部屋で毒物を飲んで、自殺したと考えるのが妥当じゃありませんかね。『名探偵』さん」
鷹揚に頷く刑事を横目に、佐々木氏は先生に、笑いながらそう言った。だが、その笑いがどこかぎこちなく僕には見える。
「ええ、そうですよ。まずは中川君、例の物を」
僕は、「はい」と答えると、鞄の中のファイルから一枚の写真を撮って先生に手渡す。
先生は、「まずはこれをご覧ください」と、その写真を佐々木の方に向けた。
写真には、部屋の中で死亡した佐々木夫人の写真が写っていた。買い物から帰る後ろ姿、隣人と談笑する横顔、ベランダに干してある下着を取り込む瞬間・・・など様々だ。
「これは・・・?」と首をひねる館の主人、メイド、専属の医師、そして刑事をよそに、明らかに動揺している人物が一人。
「そうです、記者の本堂さん。あなたが撮った佐々木夫人の写真ですよね」
本堂はびくりと肩を震わせると、消え入りそうな声で「はい・・・」と呟いた。
「貴様っ・・・!やはり妻のストーカーという話は本当だったのかっ!!」
佐々木が掴みかかろうとした瞬間、先生の「中川君!」という言葉に、僕は地面を蹴って佐々木を取り押さえる。中高での陸上部の経験から、瞬発力に置いては自信があるが、大柄な彼を完全に取り押さえるのは難しい。
「佐々木さん!」
その細身から出したとは信じられないほどの芯の通った声に、騒ぎは瞬時に落ち着いた。急に勢いを失った僕は、前方に倒れ込む。
先生は、無言で鞄から写真の束を取り出すと、空中に放り投げた。写真に写っているのは、こちらに笑顔で手を振っている佐々木夫人や、本堂のカメラで彼女が隠しとっていたのであろう、眠る本堂の横顔。中には、あられもない下着姿ではにかむ彼女の様子も映っていた。
「皆様も、これを見れば本堂さんと佐々木夫人の関係についてお分かりいただけたのではありませんか?」
「だ、だとしたら何だというのですか?部屋は密室、私には入ることは出来ず、ましてや毒物なんて所持していませんよ。もし私がみそ汁に入れる毒物を持っていると疑っているなら、身体検査でもして見せましょうか?」と彼はまくし立てる。
「私はただ、『液体』とお伝えしただけですが、なぜそれが『みそ汁』だと分かったので?」と先生は微笑む。
「そ、それは」とどもる佐々木をよそに、先生は鞄からカプセルを取り出すと、中の血液を皿の上に移した。
本堂が「何です、その、血は・・・?」と恐る恐る尋ねると、先生は彼と佐々木氏を見据えながら、こう答えた。
「勿論、佐々木夫人の血液です。そして、これが『証拠』ですよ」
困惑している一同が、仕方なく僕の方を見つめる。まぁ、そんな顔をされても僕には分からないのだが。
一分、二分、と時間が過ぎていく。僕が、皿を睨みながら立ち続けている先生に「あの、そろそろ・・・」と声をかけた瞬間、先生は人差し指を唇の前に当てると「シーッ、ご覧なさい」と口に出した。
僕が皿を覗き込むと、血の表面に何か小さな粒粒が出始めている。
液体だ。
透明な液体が、まるで小さな気泡の様に分離して、液体中から湧き出ているのだ。
「これは、水・・・?」
そう言いかけた瞬間、血の水面で集まった水の塊が、皿の淵を伝うように先生の足元に零れた。一同がはっと息を呑む音が聞こえると同時に、佐々木がそれに手を伸ばした。
液体は、佐々木の手に触れ、そして、彼の体に溶けた。
先生は「『液体』になれば、彼女の体内から殺人を行う事も、ドアの隙間から逃走する事も可能だった。ですよね?」と佐々木を見つめた。
先生に向き直った佐々木は、寂しげに微笑むと、こう口に出した。
「妻にあのみそ汁を作った時、『この味も、あなたも、変わらないわね』と、彼女に言われました」
地面に横たわる妻の方へと歩く佐々木。その姿が一瞬滲んだように見えた僕は、不思議そうに眼を擦る。
「それが彼女なりの、呆れの表れだったのかどうかは知りませんが、ちょっと嬉しかったんですよ。あぁ、まだあの頃を覚えていてくれたんだ、ってね」
見間違いじゃない、佐々木の姿が水面に波紋がたつ様にぼやけ、崩れ、形を変えている。
「密入国、いや、『密入星』までしても、会いたかった人だったのですか?」
「・・・彼女も、姿形が変わっても、変わらず愛してくれれば、良かったんですけどね」
彼は、その八本の「触手」で、もう冷たくなった妻の亡骸を包み込むと、静かに嗚咽を漏らし続けた。
30XX年、ミズール星の紛争が、他の星々の仲裁により落ち着き、地球への正式な入星が可能となるのは、それから更に150年後の出来事である。