86.遥か遠く
遥か遠く――視界に広がる水。水。水。
それはまさに広大な水たまり。
向こう岸が見えないなんて――どれだけ大きな水たまりなんだろう。
私達は、丘の上からその水たまりを眺めていた。
シードルさんによると、これが「海」らしい。
知識としては知っていたけど、実際に見てみると――その大きさに圧倒されるばかり。
こんなに大きな水たまりの――大量の水はどこから来たのかな?
そう思って海岸線沿いを見回すとその答えはすぐに見つかった。
川だ。それもかなり大きい。
そんな川の水が、私達の左の手前側からまっすぐ「海」に向けて流れ込んでいる。
その川が「海」に合流する辺りには青い屋根の街並みが見えた。
あれが今回の目的地の港町カリッツァだろう。
それにしても――私は疑問に思った。
あんなにいっぱい水が流れ込んでいたら、いつか「海」が溢れるんじゃないのかな?
不安を覚えた私は、早速シードルさんに聞いてみることにした。
「あの――あんなに水が流れ込んでいて、いつか世界が「海」に沈んだりしないのでしょうか?」
私は川を指さしながら疑問を口にする。
それに対するシードルさんの回答は、考えてみれば単純な話だった。
「ふぉっふぉ。ユニィちゃんは良いところに気付くのぅ。じゃがの――海はユニィちゃんが思うよりもずっと広いんじゃ。それに世界の端から水は零れ落ちるからのぅ。心配せんでも大丈夫じゃよ」
――そうか。そうだった。
「そう――ですね。世界が沈むとか――有り得なかったですね」
そんなことも忘れていたなんて。
私は少し恥ずかしくなった。
――――――
――え? 何言ってるの?
ユニィの疑問は僕も感じたことだけど――鬚じいちゃんがその問いに返した回答。
その回答に僕は混乱してしまった。
――「世界の端から水は零れ落ちる」
一体何の事かさっぱりわからない。
世界はおだんごみたいに丸くて、端なんてないはずだよね? ね?
僕は小声でサギリに聞いてみた。
『ねぇサギリ。世界はおだんごだよね? 端なんてないよね?』
『そんなの私が知ってるわけないでしょ』
――冷たくあしらわれてしまった。
でも、鬚じいちゃんには聞きにくい雰囲気だし――
そうだ! 後で手紙でマーロウに聞いてみよっと。
僕が名案にうんうん頷いていると、鬚じいちゃんの声が掛かった。
「それじゃあそろそろ行こうかのぅ」
じいちゃんの声に合わせて、周囲を警戒していた土術お兄さんも荷車のそばに戻ってきた。
丘の上から見える景色に思わず立ち止まっていたけど――目的地まではあと少し。
僕達は最後の休憩を終えると、眼下の港町に向かう道を下り始めた。
――――――
『何だか変な臭いがするわね』
サギリが顔をしかめながら零す。
その気持ちは良くわかる。
この町に入る少し前から、何とも言えない――水が腐ったような臭いがするのだ。
だから――
『僕じゃないよ』
とりあえず否定しておいた。
もちろん本気ではない。念のため。念のためだ。
そんな僕達に、斜め前を歩いていたロゼばあちゃんから声が掛かる。
『これはね――「潮の香り」というものよ』
『「潮の香り」――ですか?』
サギリが先に聞き返してくれたけれど――僕も疑問でいっぱいだ。
――何でこんなに臭いのに、香りって言うんだろ?
『そう。木々豊かな森に「森の香り」があるように、魚が多い豊かな海には「潮の香り」があるの』
ばあちゃんの回答は、何だか分かるようで分からない。
サギリは何かが分かったみたいだけど――
僕は、単刀直入に尋ねることにした。
『なんでこんな臭いのに「香り」なの?』
ばあちゃんは微笑みながら答えてくれた。
『臭いなんて、慣れれば気にならなくなるわよ――それに、豊かな海の証拠ですもの。その恩恵を受ける人々が「香り」というのも当然でしょう? ほら。恩恵といえば今回運ぶお魚とかね』
お魚? お魚――お魚!!
『なるほど! 良く分かったよ!』
――潮の香りはお魚天国の証。
今日僕は。また一つ――賢くなった。
――――――
荷物を運び終えると、あとは自由時間だ。
お魚天国が僕を待っている――
――と思っていたら、ユニィから釘を刺されてしまった。
「明日は――朝6時に荷を積んで直ぐに出発するから、今日の夜は早めに帰ってきてね」
――え? そんなの聞いてないよ。ゆっくりのんびり帰ろうよ。
僕の感情が伝わったのか、ユニィが申し訳なさそうな顔で説明してくれた。
「魚介類はね。すぐに痛んじゃうから、獲れたてを急いで運ぶ必要があるんだって。特に今は夏が終わったばかりだから――お昼前にはフォリアまで帰る必要があるの」
うーん。
確かにそう言われれば、そうなんだけど――
『それじゃあ――お魚の「くいだおれ」は?』
「えーと。くいだおれ? が何かは分からないけど――倒れるまで食べちゃ駄目だよ?」
――ああ。天国は遥か遠く――
僕は沈み行く夕日に目を細めた。
『――バカなことやってないで、早くご飯食べに行くわよ』
――一人佇んでいたら、サギリに連行された。




