81.躱せない
今回少し長めです。
魔物までの距離は残り200mほど。
魔物は、まだ藪の中から出てくる様子はない。
こちらの方は見ていないけど、気付いていない――訳はないよね。さすがに。
あと190m――180m――
考えを巡らせている間にも、魔物との距離は縮まっていく。
後ろが気になるけど――前からも目が離せない。
あと160m――150m――
先頭を走るロゼばあちゃんのペースは変わらない。
『ねぇサギリ。ユニィは――何をするつもりなんだろう?』
サギリからの返事はない。緊張していて声も出せない――のかな?
あと130m――120m――
もうすぐ魔物までの距離が100mを切ってしまう。
100m。
それは狼型の魔物にとって、一息で詰めることのできる距離だ。
緊張が高まる。
僕は――念のため「切り札」をいつでも発動できるように準備する。
あと90m。
ついに100mを切った。
そこまで近づいて――ようやく魔物がこちらを振り向く。
でも――こちらに飛び出して来ようとはしない。
あと70m。
ここまで近づくとその大きさが良く分かる。
体長2m30――いや35cmぐらいだろうか。
このまま行くとその横を通過することになるけれど――
当然そうなるわけがない。
残り40mというところで、手前の木立の陰に隠れて――一瞬その姿が見えなくなる。
――『サーチ』!
僕は迷わず『サーチ』の術を発動した。
瞬間。
紫色の光の一つが木立の裏側に伸び――横へとスライドする。
『ユニィ! ロゼばあちゃん! 前に出て来るよ!』
僕は『サーチ』の術を維持したまま、ユニィと先頭のロゼばあちゃんに声を掛ける。
「うん!」
ユニィの声が聞こえた時には――その姿は既に目の前にあった。
――まずい。
僕はすぐさま「切り札」を発動しようとして――頭上を横切る影に気付く。
あれは――何?
咄嗟のことに、僕は「切り札」のことも忘れてその影を目で追う。
追ってしまう。
そしてそれが陶器の小瓶だと気付いた時――
「おぉぅ」
後ろから変な声がした気がする。
でも、僕は視線を――宙を飛ぶ小瓶から離す事ができない。
視線の先の瓶は口が開いており、小瓶の回転に合わせるように――黒い液体が撒き散らされている。
――液体? 何の?
疑問と同時に――僕の感覚の一つが、強い警鐘を鳴らした。
『何この臭い!』
強い刺激臭に思わず顔をしかめると――サギリと目が合った。
サギリの目も涙目だ。
――そうか――そうだよね。
そしてそれは――目の前の魔物も例外ではない。いやむしろ。
彼らの優れた嗅覚がこの臭いに耐えられるわけがない。
こちらに向かおうとしていた魔物は、「ギャゥン」という一声を残して藪の向こうへと消えていった。
その姿は見えないが――紫色の光は逃げていく魔物を示している。
僕はその光を目で追いながら――ユニィの自信の理由を理解した。
どうやら――危機は去ったみたいだね。
ほっとする僕の視界の端で、ロゼばあちゃんが小瓶を拾い上げている。
よくあれに触れるね――と思ったけど、もしかしたらロゼばあちゃんはこの臭いに慣れているのかもしれない。
ロゼばあちゃんは、その小瓶を鬚じいちゃんのところに持っていった。
そして。鬚じいちゃんは瓶の中を覗き込むと――天を仰いだ。
「1本全部使うてしもうたんじゃな――勿体ない」
そしてそのままユニィと話し始めた。
「今の――布――振り――」
――漏れ聞こえる内容から推察すると、どうやらあの液体は一度に全部使うものでは無かったらしい。
少しいつものユニィが垣間見えて安心した。
――緩い空気が流れていた。
油断とは少し違う。
でも僕は。僕達は。
もっと早く。
魔物がこちらを襲わなかった理由に気付くべきだったのかもしれない。
『リーフェ! 光!』
その声を発したのはサギリだった。
僕は咄嗟に。逃げていった魔物を指す光を目で追う。
――相変わらず逃げている。
『何だよー。サギ――』
言いながらサギリの方を向く。
そして――理解した。
横にスライドしていく紫の光。それも――
『みんな! 魔物がまた――今度は4体だよ!』
「なんじゃと?」
一気に緊張が高まる。
今。僕達は立ち止まった状態だ。
この状態からでは、相手がさほど足が速くなくても――逃げきることは難しい。
走りださなければ。
そう。一歩でも多く。一歩でも早く――速く。
そして――荷車がわずかに動き始めた時。
僕たちの視界に。木立の向こう150mほどの位置に――その魔物が見えた。
――猪型だ。体長は狼型の魔物より二回りほど大きく3m前後。
その大きさの分、狼型と比べて小回りが利かないから、普通であれば躱すことは容易だけど、この状態では――
「『ウォーターハンマー』! 『エアブラスト』!」
鬚じいちゃんの声が響く。
先程とは違い、静観する様子はない。
次々と水術と空術を発動している。
――1体の魔物がバランスを崩し転倒した。
残り3体。
ロゼばあちゃんも尻尾を巻付けて荷車を引っ張る。
荷車が徐々に速度を持ち、動き始める。
早く――速く。
既に魔物達は50m程の位置まで近づいている。
――また鬚じいちゃんの術で、1体の魔物の体勢が大きく傾いた。
転倒はしていないが、大きく速度は減じた。もう脅威ではないだろう。
「こっちも!」
ユニィの声に思わず振り向いてしまう。
荷車の後方には1体の狼型の魔物がいた。
先程とは違う個体のようだ。番かもしれない。
その間も荷車は速度を上げていく。
一歩一歩。早く速く早く。
思っていたよりも速度が出ている。加速している。
もしかしたら、サギリが術を使っているのかもしれない。
――だけど。それでも時間が足りない。加速するための。走り抜けるための。
近づいてくる。
猪型の魔物の鼻息が聞こえる。
狼型の魔物の跳ねる足音が聞こえる。
――だから。
僕は作り上げる――時間を隙を。
――もう。躱せない。
予め発動していた『サーチ』の術。
その座標を示す全ての光に乗せて。
『『ポケット』!』
術が並列展開される。10cm程の黒い穴が魔物の眼前に現れる。
もう――躱せるはずがない。
2体の猪型の魔物は横倒しに倒れていた。
衝突の衝撃で気絶しているのかもしれない。
狼型の魔物は、突然の衝突に驚いて逃げていった。
そのまま走り抜けた僕達には、その後の魔物達がどうなったのかはわからない。
ただ確実に言えること。
それは、僕達がみんな無事だということだ。
――臭い液体まみれのユニィを除いて。
本エピソードは次話まで。
3章も終盤に差し掛かります。




