210.黒
「キュロちゃん」
ソニアの声に頷きを返す。
膝を折ってソニアの前に屈むと、すぐに僕の背中に跨った。
「シャルレノさんも。あの黒い霧が晴れたら――行きます」
僕達の視線の先――ホールの中央よりも向こう側は広範を覆う霧。その漆黒に遮られている。
霧の中がどうなっているのかは分からないけど――あの時と同じであれば。
僕は霧の中を覗こうとして目を細めてみた。
――うん。やっぱり何も見えないね。
やっぱり、霧が自然に晴れるのを待つ必要があるみたいだ。
――しかたがないので、待つ間にソニアの作戦をもう一度反芻することにした。
まず霧が晴れたら。
そこから心術による精神汚染が定着するまでの時間。立ち尽くしているその1、2分が勝負だ。
だから僕はすぐに、ソニアを勇者のお兄さんの所に連れていく。
ソニアがお兄さんをアレでどうにかしている間は周囲を警戒して。
魔人は銀騎士のお姉さんが受け持ってくれることになったから、僕は魔竜を主体に警戒すれば良いはずだ。
勇者のお兄さんさえ正気に戻れば、お兄さんの術で他の人達も元に戻せる。
もしそれができなかったら?
――その時は。ソニアだけを連れて逃げよう。
それにしても――そこまで思い返してちょっと不思議に思った。
何でソニアは他の人にこの事を言わないんだろう?
その方が簡単なはずなのに。
うーん。
いくら考えても分かんないし、後で聞いてみようかな。
――あの時はすぐに晴れたはずなのに。
作戦の反芻も終わって。
霧が晴れるまでの時間が。待つだけの時間が――随分と長く感じる。
恐らく。
実際の時間は変わっていないはずだけど。
気持ちの持ち様だけで、認識上の時間はいくらでも変化する。
でも――時間が前に流れる限り。奇跡でも起きない限り。
必ずその時は――訪れる。
だから――――
ああ。そうか。
――この感覚は。
全身に感じるこの悪寒は――――
僕は気づく。今更ながらに気づく。
奇跡が起きて。運命が変わって。
――一体。何が変わったのか。
『――ユニィ』
思わず両膝を地面についてしまうほどの悪寒。
それを齎した『力』の向かう先は。
「何これ――」
「ソニア様――伏せてください」
僕の背中でソニア達が何かを言っている。
多分。僕と同じものを見ているんだと思う。
見上げる僕の頭上。
直径200mを超える円形のドーム――だった場所。
今――そこにあるのは黒い穴。
いつも見ている黒い穴。
いつもと違う黒い穴。
「それよりも――キュロちゃん!」
ソニアの声に我に返った。
時間経過なのか黒い穴の影響なのか、目の前の黒い霧は既に霧散している。
僕はそれを認識すると同時に、一歩目を踏み出した。
銀騎士のお姉さんは――既に一歩先を進んでいる。
そして、肝心の魔人は――天井の黒い穴を見上げたまま動きが無い。
その姿は靄みたいに見えているから、表情は分からないけど――驚いているのだろうか。
――この隙に。
僕とソニアは、そのまま立ち尽くす勇者のお兄さんの元まで辿り着いた。
同時に。先程まで魔人が居た場所からは、剣戟の音が響いてきた。
――いくら銀騎士のお姉さんが強いといっても、魔人を一人で抑え込むのには限度がある。
こちらも手際よく進めないとね。
背中から飛ぶように降りたソニア。
その手には既に、例のアレの入ったガラス瓶が握られている。
そして。
栓を開けて。その瓶の口をお兄さんの口にねじ込んで――って。
――え? え?
それ飲ませるの? 飲ませちゃうの?
何かヤバいの入ってるんじゃないの? それ。




