195.ひとは必ず何かを忘れていく
「キュロちゃん。大丈夫?」
ソニアの声が――背中に響く。
それでも“僕”は、痛みを無視して強がりを返した。
『うん。何とか――大丈夫だよ』
――そんな訳がない。
先程から感じる背中の痛さは、サギリに叩かれた時の比ではなくて。
この痛さからすると、また背中の骨が折れたとしか思えないから。
“僕”は上半身だけをねじり、後ろを。
先程まで僕達が居た場所を振り返る。
そこに立っていたのは。その姿は。
――ああ、まさに。
まさに――真竜。
いつか見た。初めて会ったあの日に感じたその視線。
見つめただけで僕を射殺す、冷酷で無機質で無感情な目。
その目が視線が。
左手に構えていた盾を振り下ろした格好のまま、未だに僕を捉え貫いている。
「ゼムおじさん――どうして?」
ソニアの呟き。それも無理はない。
無口おじさんが見せる顔は、明らかに普段の顔とは違う。
まるで魔物に対するような。
そんな敵意の籠った目で“僕”達を睨んでいる。
『何だよ――これ。動け――動けよっ!』
“僕”がソニアを庇おうと体を動かそうとしているけれど、喚いても騒いでも――激痛が走るばかりで体は動かない。
あまりにもの激痛に、僕まで気を失いそうになる。涙で視界がにじむ。
にじみ歪む視界の中で、おじさんがこちらに一歩を踏み出した。
「――しっ」
おじさんが一歩目の足を下ろす直前。
左横から影が飛び掛かった。
金属音を立てて弾かれるその姿は――アニキだ。
一瞬、僕達を守ってくれたのかと思ったんだけど――
「――イスカお兄ちゃん?」
その顔は――とてもじゃないけど僕達を守るという雰囲気じゃなくて。
それこそ、おじさんと同じく魔物に相対する時の――
『兄さんも? 何で。何でだよ!』
――僕は自分の間違いに気付いた。
気付いたけど――“僕”達に伝える術がない。
視界の端に映る勇者のお兄さんと暴走犬お姉さん。そちらでも戦いが始まっている。
いや――それだけではない。銀騎士のお姉さんも、他の銀騎士の人達も皆――
「ああ良かったわ。あなた達は――術に掛かってないみたいね」
“僕”が首だけを何とか動かして声の方を見る。
そこに居たのは毒術お姉さんだった。
慌てて表情を確認したけど、他の人のような敵意は感じられない。
どうやら――お姉さんだけは無事だったようだ。
「ヤーデお姉ちゃん! お姉ちゃんは大丈夫なの? みんなどうなっちゃったの?」
「――心術による幻覚よ。私は自分も使えるから咄嗟に抵抗できたんだけど――」
「げんかく? それって治せるの? ――ねぇお姉ちゃん。治せるの?」
「――無理よ。もちろん、薬を飲ませれば治せるわ。でもね。術に掛かってすぐの放心状態の時ならともかく、あの状態になってしまったらもう無理なの。だから――あなた達は諦めて逃げなさい」
その言葉を聞いて、ソニアが目に見えて落胆する。
一人無事だったお姉さんなら治療法を知ってるかと期待したんだけど――どうやら手遅れということらしい。
それなら。
今の僕が――“僕”がするべきことは一つしかない。
『ねぇソニア。一人で逃げて。このホールの外に出れば、仮面おばあさんが居るでしょ? まずはそこまで。それから――』
「嫌っ! 嫌だよお姉ちゃん。キュロちゃん。私。私――」
『ごめんねソニア。僕。もう走れないから』
正直。体を動かすたびに背中に激痛が走っている。
「そんなの――そんなの嫌だよ。したんだから――約束。いつかみんなが困った時、私がみんなを助けるって!」
ソニアが叫んだ瞬間。
全身が冷たくなった。何かの術? ――いやこれは。
まるで自らの存在そのものが消滅してしまいそうな――そんな。
僕は思わずソニアの肩を掴んだ。
だけど――その言葉は紡がれてしまった。
――僕の記憶の通りに。
「――『奇跡:運命改変』」
揺らぐ。
意識が――揺らぐ。
――ああ。
“僕”の記憶が解けていく。
解けた記憶が霧消する。
僕は手繰る。手繰る。手繰る。
解けて細くなってしまった記憶の糸を――手繰る。
少しでも欠片でも――
やがて――手繰る記憶の色が。
変わった。
見覚えのない白い部屋。
知らない人族達。
見たこともない天高く聳える巨石群。
聞いたこともない奇妙な鳴き声を放つ鉄の獣。
そして――2本の足で真っ直ぐ立って歩く僕。
僕は――ああそうか。
光が差す。
世界の眩しさに目が――開く。
第5エピソードの本編はここまでです。
駆け足&複雑な構成ですみません。
次回、1話本エピソードの締めを挟んでから第6エピソードとなります。




