表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約破棄され失意中死んだら、婚約破棄した男に生まれ変わってしまいました

婚約破棄され失意中死んだら、婚約破棄した男に生まれ変わってしまいました  ―自分と結婚とか無理なので穏便な婚約破棄のため頑張ります―

作者: 入相

 

「ナタリー、君との婚約は無かったことにしてもらった」


 先ぶれもなく突然やって来た婚約者のエドワードは、出された紅茶に口を付けないままそう言った。

 窓から差し込む光で輝くシルバーブロンドの髪が美しい。相対するように黒い瞳が麗しいなどと呆けていたナタリー私は、自分の耳が信じられず首を傾ける。

「……何とおっしゃいましたか?すいません。エドワード様につい見とれ」

「君との婚約を破棄したと言ったんだ、ナタリー嬢」

 言葉をかぶせたエドワード様はそう言うことだから、と冷めた声で言うとナタリーのことを一瞥もせずに腰を上げる。


「え……、待ってください」

 思わず腰を上げ伸ばしたナタリーの手が空を切る。バタンと大きな音を当て応接間の扉が閉じて、壁に吊るしてあった絵画が少し揺れた。

 ナタリーは中途半端に腰を上げたまま、馬車が遠ざかっていく音を聞く。

 婚約して3年。ナタリー、15歳の冬の事だった。



 侯爵家令嬢ナタリーは伯爵家次男エドワードの婚約者であった。

 貴族の婚約であるから当然政略的意味合いは強い。しかしながら、お互い幼少から程よい交流があり、淡いながらも好意を抱いていたため婚約は決して不本意なものでは無かった。特にナタリーは婚約後、エドワードの人となりを知り親愛では片付けられない情をいだくようになっていた。エドワードもそれを察し、受け入れているように見えた。


 混乱を極めたナタリーはエドワードが帰る音を聞くと同時に父の執務室に乗り込み、どういうことなのかと尋ねた。何か家ないし先方に問題が発生したのか、それとも自分に不手際があったのかと。ナタリーの父は書類から眼を離すことなく、決まったことだ、次の相手はじきに決まる、とだけ言ってナタリーを追い出す。元々、気安い仲では無かったとはいえあまりにも簡素な対応にナタリーは悲しむ間もなくただただ茫然とした。


 ナタリーにとって彼の家に嫁ぎ、彼を支え、彼の子供を産み、彼と老いることは決定事項で揺るぎのない未来だと思っていた。それ以外の道など想像も出来ないものであった。

 その未来全てが一瞬で崩れ去り、暗闇に突き落とされる。絶望という言葉そのもの、望みが全て断たれたのだ。


 現実が受け入れられなかったナタリーは一か月後には床に伏せるようになった。食が細っていたところで風邪を拾い、こじらせてしまったのである。呼吸すらも辛くなって医者も匙を投げる中、見舞いに来るのは後継ぎである兄だけ。母は幼いころに死んだことになっていた。

 あっけなくナタリーが息絶えた日は何の偶然かナタリー16歳の誕生日だった。葬式は喪主である兄と、特に親しかった使用人数名でひっそりと行われ、兄の希望で貴族墓地の中でも日当たりのいい場所に墓が設けられた。


 その墓地に毎年命日に掲げられる大量の花束と小さな額縁に入った絵の送り主は誰も知らない。





 =======

 

 目が覚めると婚約者になっていた。


 何を言っているか分からない?うん、私も分からない。


 息を吸うたびに走る激痛で意識を失って、ああ、起きてこの痛みをまた味わうくらいなら永遠に眠っていたいと思った記憶がある。

 網膜に光を感じて、まだ生きているのかと諦めに似た絶望を味わうと同時に無意識に息を吐く。しまった、と来るべき痛みに体に力を込めるが吐く息は滑らかに外へと出ていく。ひりつく喉の痛みも、押しつぶされるような肺の痛みもない。持ち上がるはずのないと思っていた瞼に力を込めてゆっくりと目を開いてみた。


 光の靄が徐々に晴れ,世界が現れる。

 真っ白に塗られた天井に、凝った装飾が施された梁。見覚えのない景色に驚いて起きようとすると、健康であった時よりも簡単に持ち上がる体。サイドテーブルに対となるチェア。隅に置かれたチェストにはぎっしりと本が並べられている。

 最低限のもので構成されたシンプルかつ機能的な部屋。明らかにナタリーの部屋ではないけれども、これは自分の寝室だと分かる。


 そうだ、私はこの部屋の主エドワードではないか。伯爵家次男でナタリーの婚約者のエドワード。

 握りしめた手は節だっていて大きい。視界の隅に入る髪は艶のあるシルバーブロンドでナタリーのブラウンとは全く異なる。後頭部を撫でてもそれが項辺りで切りそろえられていることが分かる。そのどれも違和感はない。


 では、この自分がナタリーであるという自認は何なのだろうか。

 病気の苦しさも、未来を発たれた絶望も鮮明に思い出すことが出来る。それは、単なる記憶ではなく体感で、情報ではなく実際自分が経験したことなのだと分かる。

 エドワードでありながらナタリー。ナタリーだがエドワードでもある。

 自分でもよく分からないが不思議と混乱はしておらず、それを事実として受け止めていた。元々自分はナタリー兼エドワードとして生まれてきていて、そのことに今やっと気が付いたような。そのような感覚だ。


 思えば幼いころから音楽や絵画といった女性の嗜みとされるものに興味を持ったり、母や姉の気持ちを読むのが上手かったりした。自分の女であるナタリーの部分が無意識に表れていたのだろう。ナタリーにもともと華美に着飾る趣味が無かったためか女装に走ることが無くて良かった。


「私がエドワード、……」


 ナタリーにとっては聞き覚えのない、エドワードとしては聞きなれた声が落ちる。

 そう、私がエドワード。

 ナタリーでもあるエドワードだ。





 私がナタリーとしての自我を芽生えさせたその日は丁度エドワード16歳の誕生日の日だった。諸所の事情でパーティーは事前に済ませているため今日はナタリーと合う以外に予定はない。なんでも誕生日当日にどうしてもお祝いの言葉を言いたいらしい。我ながらけなげと言うか何と言うか……。

 仕事部屋も兼ねた自室に自分もナタリーも好きな銘柄の紅茶や茶菓子を用意させ、座り心地の良いソファーに腰掛ける。食の好みが似ているのも私がナタリーであるから、今思えば当然のことだ。


 そこで私はハタと気づいた。

 私はナタリーでもあるのだ。この世界にはナタリーが二人いて、自分は自分自身と婚約している事になる。


 自分と結婚するなど酔狂の極みではないか。

 自分とて多少の自己愛は持っているのだから、婚約者であるただのナタリーを愛することは出来る。実際自分に真っすぐな好意を見せてくれるナタリーが嫌いではないし、愛おしいと思う。だが、結婚するということはその先があると言う訳で、子供を産まなければ非難されるのはナタリーの方で……。


 無理だと思った。

 ナタリー兼エドワードである自分とただのナタリーが別の存在であることは分かる。しかし、別固体とはいえ自分もナタリーなのだ。いわばただのナタリーは自分の半身。兄弟や親よりももっと近い何か。限りなく自分に近い他人。

 そんな存在と体をつなげるなど想像もつかないし、したくもない。

 そもそもナタリー兼エドワードである自分は女性でも男性でもない。男性体に違和感はないが、以前から女性にも男性にもそう言った興味を持ったことが無い。いっそ行為に嫌悪感を持つほどだ。

 自認する以前まではナタリーなら大丈夫ではないか、などという淡い期待を抱いていたが今はっきり否定された。なおさら無理だ。


 無理にその様を思い浮かべようとして、吐き気をもよおすほどの嫌悪感に胸を押さえる。

 かといって結婚してから行為を拒み、子供が出来ず非難されることでナタリーが苦しむのは見ていられない。自分が負うべきだった痛みを肩代わりさせているように感じて、共倒れになってしまう。


 意識をして息を吐き、体に籠っていた力を抜く。と、同時にナタリーがやって来たと使用人が声を掛けてくる。

 結婚するにしてもナタリーが16になってからだ。死んだナタリーの記憶では16歳になってすぐ婚姻をする手はずにはなっていなかったし、ナタリーの誕生日までもまだ半年程度の猶予がある。

 ノックの音がして使用人がナタリー様です、と声を掛けてくる。了承の意を伝えるとともに滑らかに扉が開き、ナタリーがほころぶような笑顔を見せた。


「ようこそ。ナタリー」

「エドワード様……。お誕生日、おめでとうございます」

 余程言いたかったのだろう。挨拶もせず、椅子に座ることもなく真っ先に祝いの言葉を紡ぐ。ナタリーの後ろにいた扉を開けた使用人の目が合ってお互い少し苦笑いする。しっかり者のナタリーがこんな子供っぽい態度を取るのはエドワードの前か、せいぜい兄の前くらい。そのことは自分が誰よりもよくわかっている。


 どうすることが双方にとって最適であるか考え迅速に対応しなければならない。この笑顔を濁らせ、ナタリーにまたあのような苦しみを味合わせるなどあってはならない。

 傷つかないように、穏便に、確実に婚約を破棄しなければ。





 伯爵家次男であるエドワードだが実は後継ぎだ。生家の後は長男が継ぐのだが伯爵家に婿に行った叔父夫婦が子供に恵まれなかったため、養子に引き取られそちらの家を継ぐことになっている。

 血筋的に叔父の婿入り先の家系から養子をとるのが普通だろうが、あちら側に妙に気に入られてしまいいつの間にか伯爵家嫡男になっていた。だからこそ、ナタリーとの婚約が決まったのだが。


「あ、エディ。今からお出かけかい」

「お久しぶりです、叔父様。フレディのところに、いつもの用で」

「それは良いねー。気を付けていっておいで」

 一週間ぶりにあった叔父はゆるゆるとした雰囲気でそう言うと手を振って去っていく。

 叔父も義母(叔父の妻)も、そして義母の家族も趣味が生きがいというような人間ばかりで面白いことを探して飛び回っている。まさに趣味の合間に人生を送っているような人たちの集まりだ。そのためあまり屋敷にはおらず,帰ってきた際に一気に仕事を片付けいつの間にか消える.

 私を養子にしたのもその辺りの気質が原因だ。


 馬車に乗りフレディと待ち合わせをしている店へと向かう。

 誕生日のあの日から一月がたとうとしていた。今だ、私は何の行動も起こせていない。

 ふらっとなくなる叔父の仕事をサポートし、色々やっているうちにあっという間に時がたってしまった。ナタリーとしてエドワードを慕っていたことを思い出すと双方が納得する婚約破棄など不可能だと思い知らされる。せめて、私のように死にはしないように絶望はさせないようにしたいが、どうしたものか。


 頭を悩ませているうちに馬車は指定の位置につき、使用人に迎えの時間を伝える。それから乗合馬車に乗り換え待ち合わせ場所まで向かう。

 今日の用事は平民街にあるからだ。

 そのため服装も平民として一般的なそれにしているし、名前も一応愛称が同じエドモンドと名乗っている。


 下を噛みそうなほどの揺れに耐えることを十数分。目的の店にたどり着くと戸を叩くことなく中に入る。

 少々薄暗い室内一面に置かれているのは絵。それも画廊のように綺麗に並べられているのではなく、乱雑にしかし絵を痛めないように配慮して立てかけ積まれている。椅子はなく中心には大きなテーブルが一つ。そこに座るようにもたれ掛かった男が片手を上げた。

「おー、来た来た。ひっさしぶりだな、エディ」

「フレディは相変わらず、元気そうで何より」

 大声を出すこの男はこの絵画工房の主だ。まるで軍人か大工のような大柄で筋肉質な男だが繊細で柔らかな絵を描く。


「今回はあまり数が無いんだけど……」

 挨拶もそこそこに小脇に抱えていた鞄から紙に包んだ手の平二枚分ほどの小さいサイズのキャンパスを出す。

 叔父さんが長期でいなかった事や婚約破棄のあれこれで悩んでいたので時間が取れず、一月で三枚しか完成させられなかった。これに加えて少し大きめの絵を持ってくるつもりだったが、まだアトリエで描きかけのまま置いてある。


 興味の向くまま絵を描き始めた私は着実に腕を上げ売れるほどの絵画を仕上げるようになった。貴族子女であればそれほど完成度の高い絵を描くことは良しとされないが、そもそも男であるからか誰にも咎められなかった。

 当時、もう婿に行っていた叔父がそれを面白がって平民のふりをしてフレディの工房に連れて行き弟子入りさせ、しばらくの間住み込みで働いたりもした。今では師弟関係を解消し、販売も自身で行うフレディに絵を預け売ってもらっている。


「お、今回は女神ちゃんあるじゃないか。丁度いい」

 フレディは絵の一つを持ち上げると光の当たり具合を確かめるように斜めに傾ける。

 その絵はドレスを着た女性が赤子に祝福のキスを与えている物。よくある題材ではあるが、光の入れ方を工夫した女性の実在感を希薄にすることにこだわった。

「毎回言うけど女神ちゃんってなんだよ。今回に限っては意識したけどさ」

「お前が人物画描くときモデルいつも一緒だろ。なら立派なミューズだろうが」

「まあ、そうなんだけど……」


 今回の絵はナタリーが誕生日に祝いの言葉をくれたことからインスピレーションを得たもので、モデルももちろん彼女だ。

 体というものにあまり興味がなく風景画を好む私が、人物を中心とした絵を自主的に描くことはあまりない。その数少ない人物画はほぼ全てナタリーから着想を得たもので、当然ナタリーが登場する。


 確かにミューズと言えばミューズなのだが、今となっては自画像を描いている感覚に近い。だからこそ今までも描く気になったのだろう。

「で、丁度いいってのは何?人物画の依頼でも来てた?」

「ああ、人物画って言うか女神の絵が……、来たみたいだ」


 その発言と同時に外でたたけましく鳴っていた車輪の音が止まる。私がフレディにつられて扉に顔を向けると、しばらくの静寂の後、軋んだ音を立てて扉が開き長いシルエットが現れた。

「お待ちしておりました。ギルバート様」

 抑え目の声量、丁寧な口調でフレディが一歩前に出る。珍しく上裸じゃなかったと思えばそう言うことか。

「三日ぶりだね。フレディ君」

 私より二、三年上程度と思われる男は気さくな口調でエディに話しかた。先ほど扉を開いた使用人らしき男は後ろに控え背筋を伸ばして立っている。仕立ての良さが分かる服、綺麗な発音、優雅な立ち振る舞い。恐らく貴族、それも意匠の傾向からしてこの国と隣接する同盟国の。裕福な商人の可能性も捨てきれないが、貴族としての私がそうだと判断している。


「お越し頂けて良かったです。丁度、例の話が出来そうなので」

「ということは、彼が」

 ぼんやりと隣国の貴族の知り合いを思い出していると二人の視線がこちらにむく。

「わ……、俺に何か」

 エドワードに引きずられて私と言いそうになり慌てて修正する。発音も雑に、仕草にも気を付けないと同じ貴族相手、私もそうだとばれてしまう。この辺りのなりすまし術は叔父夫婦およびその親族直伝である。フレディは察しているかもしれないが隠せるとこまで隠したい。


「何度か絵を買っていただいている他国の商人さんなんだが、お前の人物画がお好きなようでな。話してみたいとおっしゃられたので、今日来ることを伝えておいたんだ」

 机のところまで戻って来たフレディは先ほどとは違い俺の隣に立つ、促されるように向かいには貴族(仮)のギルバートが促されるまま立った。使用人らしき男はまだ扉の前だ。

「もしかしてこれは新作?」

 机に出されたままだった絵を指さしてギルバートが問うのにフレディが答える。余程気に入ったのかあれよあれよという間に値段交渉が終わって売買成立。それ相応に色を付けた額で売れたことは素直に喜ぶべきだが、本人が要る手前での交渉に意図的なものを感じざるを得ない。


「やはり君の人物絵は良い。何よりもこの女性の表情。慈愛に満ちて母のような包容力を感じるとともに、儚げで繊細。この澄んだ瞳で見つめられたらと思うと……、ああ胸が痛い」

「……さようですか」

 私に向けられたその発言にどう答えろと。描いたエドワードとしても、描かれたナタリーとしても羞恥に駆られて仕方ない。背筋から項にかけてが妙にゾワゾワして肩を震わせた。

「このお方は実在すると聞いたんだが」

「ええ、まあ。……そうですね」

 何だか圧が凄い。買ったばかりの絵を握りしめて体を前のめりにしてこちらに迫ってくる。目線だけでフレディに助けを求めると、頑張れとでも言うように綺麗なウィンクを返された。二重の意味でやめてくれ。


「どこに行けば。どこに行けばこの方にお会いすることが可能なのだろうか」

「はい?」

「この方にどうしてもお会いしたい。君の絵を初めて見た日から彼女に恋い焦がれているんだ。彼女に迷惑が掛かるということなら見るだけでもいい。お願いだ、どうか彼女に合わせてくれ」

 頭を下げんばかりの勢いで懇願するギルバートに思わす一歩後ず去る。

「ちょっと、待ってくださいよ。モデルにはしてますけど肖像画じゃないんですよ。本人そのままって訳じゃ」

「それでもいいんだ。いや、むしろそれで幻滅できるなら有難い。彼女を思うと苦しくて、苦しくて。夢の中でも彼女を求めて泣いてしまうんだ」


 今度は扉の前で直立不動の使用人に助けを求めるが、ギルバートの話を肯定するかのように頷かれる。絵の中の人物に恋して泣くってどういうことだ。全く理解できない。エドワードが好きだったナタリーの感覚からしても理解できない。

「なあ、頼むよ。君だけが頼りなんだ」

「あー、やめてください。マジ、やめてください」

 本当に頭を下げたギルバートを慌てて止めて、落ち着かせる。平民ということになっている私とフレディだけならまだしも、使用人がいる前での各下への低頭は駄目だ。逆に下げさせたこちらの首が危ない。横目で窺った使用人が目をつむり黙認の姿勢を見せてくれたのに救われる。


「……俺も身分も名前も分かんないような人なんですけど、いいですか」

 何と言おうと引き下がらなそうなギルバートに折れて、自分の身分がばれずかつナタリーに危害が及ばなさそうなプランを考える。

「ああ、ありがとう。本当にありがとう」

 うっすらと目じりを濡らすギルバートに引き気味の笑顔を浮かべて、出かかったため息を飲み込んだ。





「いいですか。俺もよく知らない相手なので、急に話しかけたりしないでくださいね」

「ああ、分かっている。君の絵が見れなくなるのも問題だからな」

 私がたてた作戦はこうだ。

 まず、エドワードとしてナタリーと景色のいい丘に遠駆けに出る。到着したら絵を描いてくると言ってその場を離れる。一緒に遠駆けに行くことも、絵を描くことも珍しくないから怪しまれることは無い。良い構図を求めて危ないところを通るためついてこないよう言いつけていので追ってくることは無いだろう。その代わり軽くスケッチだけして30分ほどで戻るようにしている。


 今回はその間に着替えて近くで待機させていたギルバートにナタリーを見せる。話しかけて警戒されたらもうここに来なくなり、俺も見かけることがなくなり絵が描けなくなると説明したら接触は諦めてくれた。本当にこっそり見るだけ。

 数分したらギルバートを返し、元の服装に戻ってナタリーと合流。昼食を取って帰る。以上。

 ナタリーに怪しまないようスピーディーに動かなければいけない事、興奮したギルバートを押さえなければならないことがネックだが何とかなる場はずだ。


「ほら、そこで馬撫でてる人です」

 ナタリーから十分離れた茂みの隙間から彼女を指さす。私より体の大きいギルバートは十分に隠れていないだろうが、この角度なら気づかれないはず。

「たまたま、スケッチに来てるとき見かけて」

 真実を混ぜた嘘はバレにくいというのでそう付け加えて、ちらりとギルバートを窺うと彼は目を見開いたまま固まっていた。


「ギ、ギルバート様」

 瞬きだけでなく呼吸さえも忘れているような様子に、心配になり彼の目の前で手を振る。視界のちらつきで意識を取り戻したギルバートはへなへなと座り込むと詰めていた息を大きく吐いた。

「大丈夫でs」

「美しい」

 そう呟いたと共に、勢いよく顔を上げてまたナタリーを凝視するギルバート。


「ああ、なんて美しいんだ。彼女ほど綺麗な人を見たことが無い。いや、人なんて括るのは失礼だ。広大に広がる海よりも、天空を埋め尽くす星よりも、悠久とたたずむ大自然よりも美しい。駄目だ、言葉じゃいい表せない。人間はなんて陳腐な生き物なんだ。彼女の美しさを表現し称えるだけの能力を持たないなんて。なあ、そう思うだろ」

「あ、はい。ソウデスネー」

 同意を求められても困る。褒められるのはナタリーとして嬉しくはあるのだが、エドワード的には引いてしまう。プラスマイナスで若干引く気持ちが勝る。


 影で鼻息荒く褒めたたえられていることなど露ほども知らないナタリーは愛馬のブラッシングに余念がない。高い位置で括っているブラウンの長い髪が、馬のしっぽのように揺れている様は可愛らしい。そう、私的にナタリーは美しいというより可愛らしい存在なのだが、ギルバートは違うらしい。

「国に連れ去ることが出来たらどれほど幸せか」

「え、ギルバート様。彼女と結婚でもしたいんですか?」


 予想していなかった発言に思わず大きな声が出た。慌てて口を押えてナタリーを見るが幸い気づかれ手はいない様子。

「今更何を言ってるんだい。彼女に恋をしていると言っただろう。平民ならばと諦めていたが、馬の扱いなどを見るにこの国の貴族令嬢である可能性が高い。調べれば名前も、家も分かるだろう」

 サッと体が冷えて背中に冷たい汗をかく。ナタリーが貴族であることがばれるのは予想の範囲内だ、だが、彼の思いは偶像に恋する類のもので実際にナタリーとどうこうなることを望むとは思っていなかった。神話の女神に敬想するようなそんな、ある意味で純粋なものだと勘違いしていたのだ。

「そうだ。分かったら、君にも教えようか。こうしてミューズに合わせてくれたお礼にでも」

「いや……。俺はいいです」

 機嫌がいいらしいギルバートはそうかい、と言って簡単にその話を終わらす。


 その後もぶつぶつと呟きながらナタリーを観察したギルバートは私の指示に従ってあっさりと引き下がった。幻滅どころか想いを強くしたギルバートが何も聞いてこないのは私が何も知らないと信じているからか、それとも自分で探し出す自信があるからなのか。

 ぼんやりしている事をナタリーに指摘されつつも、なんでもないふりをして昼食を取る。こんな風に穏やかに共に食事が出来るのも数えるほどしかないというのに、先の見えない不安が勝って楽しむことなど出来なかった。





 それから三週間後。私の嫌な予感は的中してしまった。

「久しぶり、エドモンド君。ああ、今はエドワード君だったね」


 叔父の代理で参加した年齢層高めの立食晩餐会でそう声をかけてきたのはギルバートだ。エドモンドの時は帽子で髪を隠しているし、表情も雰囲気も変えているのにエドワードがエドモンドだと確信している様子。偶然見かけた、というわけではなさそうだ。

「初めまして。フォール侯爵様」

 階級が下の者がとるべき礼をし、ゆったりとした笑みを浮かべる。先ほど主催者から隣国からのスペシャルゲストとして紹介されていたので、こちらが名前を知っているのはおかしなことではない。


「悲しいね。そんな他人行儀な態度取らないでおくれよ」

「恐縮ですが、誰かほかの方と勘違いしておられるようです。エドワードもエドモンドも珍しい名前ではないですから」

 人を避けるふりをして距離を取るが瞬く間に詰められ、逆に人気のない壁際まで追いつめられる。頭半個分ほど高いギルバートと壁に挟まれ完全に逃げ道を失った。

「往生際が悪いよ、エドワード。もう全部調べはついているんだ」

 圧倒的強者の視線。身長も、年齢も、階級も、経験も何一つ勝つことのできない相手だと思い知らされる。耐え切れずに視線を逸らし、負けを認めるしかなかった。

「何をご所望でしょうか」

「わかっているだろ」

 勿論だ。

「ナタリーとの婚約を破棄しろ」


 ギルバートが優秀な人物なのはその雰囲気からわかっていたので、いつかはナタリーを見つけ出し私の正体に気づくだろうことも予想できた。その上で婚約破棄を求めてくることも。ただ、想像より随分と事の進みが早く私自身何の準備も出来ていない。


 婚約破棄をするという目的は私とギルバートで一致している。しかし、ナタリーの気持ちを無視して事を決めるわけにはいかなかった。

 私の願いはあくまで、穏便に両者が納得する形で婚約を破棄すること。一番いいのはナタリー側から婚約破棄を申し出てもらうことだが、それが難しいのは知っている。今、ギルバートがナタリーに迫ったとしても落ちるどころか、逆に警戒して恐れ避けるだろう。破棄後のナタリーの行先を考えるとギルバートのことを嫌ってほしくないのが本音だ。


 ここでは落ち着いて話せないと判断した私は、後日ギルバートを自宅に招くことにした。庭に建ててもらったアトリエには使用人も近づかないので内緒話をするには最適だ。

 ついでに絵も見せてくれ、などというギルバートは最後まで余裕を崩すことなくさらりと晩餐会に戻っていく。格の違いを見せつけられただただ疲労を感じる中、急に出かけて行った叔父を恨むしかなかった。





 アトリエに訪れたギルバートに私は自分が立てたプランを話した。

 まず、婚約破棄を伝えて私はナタリーに出来るだけ冷たく接する。悲しむであろうナタリーをギルバートが支え、頑張ってほだす。上手くいったところで私は絵で食べていくために平民に下ったことを伝える。

 この方法なら最終的にはナタリーを傷つけず、またギルバートの熱烈すぎる思いも受け止められやすいだろうと。


 婚約破棄をすることはお互いにとって決定事項で、ギルバートに至ってはすでにナタリーの家に交渉を持ち掛けているそう。家に関しては兄の子供でも新たに養子に迎えでもすればいい。そもそも、叔父夫婦がお互い趣味に熱中しすぎて妊娠適年齢を過ぎてしまったのが悪い。健康で仲も悪くないのに子供がいないのはそれが理由だ。


「エドワードは随分と自分が好かれている自信があるんだな」

 俺に対してすっかり高圧的になったギルバートが不満そうにいう。自分がナタリーだからこそ、ナタリーの思いを疑わないのだがそれを口に出すわけにはいかない。


「彼女の家族構成はご存じで?」

「もちろんだ。母は幼いころに他界し、邸宅には父と嫡男の兄がいると」

 ここからは些かデリケートな話になるもののギルバートの優秀さを考えればいつかばれてしまうだろう。絆されたナタリーがエドワード相手同様、自ら口にする可能性もなきにしもあらず。

「亡くなったことになっている彼女の母親ですが、実は駆け落ちして消えたんです」


 政略結婚で見知らぬ男に嫁いだナタリーの母は使用人の男と恋に落ちたらしい。そしてナタリーが6歳の時、蒸発。ナタリーの父である侯爵は家の恥だとして彼女を死んだことにした。


 このナタリーの母、実は浮気男とのことをナタリーに語っていたらしい。恋は素晴らしいものだと、彼を思うだけで今日も生きていられると。それと同時に、でもあなたがいるから私はまだこの家にいるのだと。父のことは愛していないが子供たちのことは大好きと。

 そう言っていた母が急に蒸発してナタリーはどう思うか。母はもう自分を愛していないから消えた、そう考えるのは至極当然のことだ。

 母を探すこともなく死んだことにした父への不信はくすぶる。母譲りのブラウンヘアが気に入らない侯爵もナタリーを避け、気にかけるのは兄ばかり。肉親らしく接してくれるのは兄だけだが、気にかけられている分やることの多い兄は十分にナタリーに構うことは出来ない。


 行き場のない寂しさを抱えたまま数年。元より茶会などで顔を合わせ、優し気な雰囲気に好感を抱いていた人が婚約者となり、自分を気にかけてくれるようになった。自分に向き合って話を聞いて頷いてくれて、誕生日を祝ってくれて、遠駆けに一緒に出掛けてくれる。嬉しくて、嬉しくて仕方が無かった。

 この時、幼い頃ナタリーの母が掛けた呪いが芽を出す。恋は素敵で、素晴らしいものだという呪いが。

 ナタリーはエドワードを思うことに夢中になった。勿論、エドワードの事が好きだったが振り返るとあれは恋に恋をしている状態だった。灰色だった毎日が色づいて、未来の全てが明るく開けていた。


「彼女は愛されることにも、愛することにも飢えています。飢えたところに婚約者として私が与えられた。だから失うまいと彼女は私に執着しているのでしょう」

「やけに冷めた言い方をするな。嫌いなのか彼女が」

「いいえ、大事だとは思っていますよ。でも、私にはそれよりも叶えたい夢がある」

 諸所をぼかしながら伝えた後のギルバートの感想に適当な言葉を返す。本当のことを言っていないだけで嘘はついてない。


「まあいい。時期は何時にする」

「こちらの根回しも必要なので時間をください。その間にギルバート様は侯爵家と話を付けて下さると助かります。全ての準備が整うのは冬になるかと。」

「随分時間がかかるようだが、エドモンドに死んでもらっても困るからな。待ってやろう」

「ありがとうございます」

 お前最初と随分キャラが違うなあ、などと思いながら低頭しておく。

 何だかんだでナタリーの自我が芽生えてから二か月近く。窓から吹き込む風は冷たく、木々は鮮やかに彩り始めていた。





 全ての準備が整い今日が決戦の日。


 今年の冬は冷え込むらしくこの地域でも珍しく雪が散っている。文通で進捗報告を行っているギルバート曰く彼の国では雪で交通網が乱れつつあるらしい。元々、この国より寒く雪が降る地域だが今年は例年以上の降雪があるらしい。

 折角なら冬を温かい家で過ごしたかったのだが、私のわがままで作戦時期をずらすわけにはいかない。今日、婚約破棄を告げて明日にはフレディの工房に居候する手はずになっている。生活が安定したらいつか自分のアトリエを持ちたい。


 そんな事を夢見ながら馬車を降り、促されるままに応接室に向かう。

 ふわりと漂ってくるのはお互いの好きな紅茶と茶菓子の匂い。使用人が扉を開ければナタリーがほころぶような笑顔を見せた。

「急にやってこられたので驚きました。寒い中、お越しいただきありがとうございます」

「ああ」

 出来るだけ温度を乗せずに返事をした私は、立ち上がっていたナタリーを一瞥もせず椅子に座る。

 困惑しつつも悲し気な表情を浮かべるナタリーに、心の中で謝りながらも冷たい態度を心掛ける。作戦を決めてから訪問を減らしたり、贈り物をしなかったりと態度を変えてきたのだが恋は盲目とでもいうのかあまり効いていなかった。まあ、私がナタリーに厳しくなりきれない部分もあったのだろう。


 だが、今日はそう言う訳にはいかない。ここで中途半端な態度を取ってナタリーがギルバートにほだされず、私の後を追ってきてしまっては困る。由緒正しき貴族令嬢であるナタリーに平民生活は耐えられるものでは無い。

 ナタリーが着席したのを確認して、紅茶に口を付けないまま私は言葉を発した。


「ナタリー、君との婚約は無かったことにしてもらった」





『婚約破棄され失意中死んだら、婚約破棄した男に生まれ変わってしまいました ―私はただ自分に幸せになって欲しいだけだった―』

というタイトルでハッピーエンドとなる続きを書いています.(タイトル上のシリーズのリンクから読めます)

ここで終わりでも十分だったのですが,ハッピーエンド至上主義のため蛇足で付け加えたものです.物語としてはここで一つ完結しているため,一緒にしたくなく,シリーズ短編という形で分けました.

ifルートのようなものとしてお読みいただければ幸いです.

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ