おくりびと
車が動かない。
勇気は振り絞っている。
鍵も振り絞っている。
でも車は動かない。
空腹が行動力を促進する何よりの栄養とばかりに、美奈子は車へと乗車した。
乗る前に車両の前後を確認し、シートベルトとミラーの位置も確認した。
そして、鍵を差し込み、勢いよく回す。
しかし、車は動かない。
美奈子は焦っていた。
まだ、1cmも車を動かしていないのに早速の故障か?
鍵の回し方が悪かった?
では、どうしたらよかったのだろうか?
何度か鍵を回したり、抜いたりしてもエンジンがかかる気配は無く、エンジンランプやオイルタンプの警告灯だけが点灯する。
それが焦りを増長させ、空腹からくる苛立ちと合わさり、美奈子はハンドルを強く叩いた。
すると、大きくクラクションが鳴り響き、美奈子は慌ててハンドルから手を離した。
平日の日中である為、本来目立った人通りは無いはずなのだが、今回の場合は運が悪く女性が一人こちらを見ていた。
女性の表情は微笑ましそうだったが、美奈子は申し訳なさそうに会釈をし、そして車の鍵をまた捻る。
案の定車は動かなかった。
美奈子はハンドルに身を預けるように項垂れる。
車をこのままにしておくわけにもいかず、小言を覚悟で天子へと連絡を入れようとした矢先。
窓を叩く固いノック音が聞こえた。
美奈子がそちらへ視線を送ると、そこには先ほどの女性が笑いながら手を振っていた。
キャラメルの様なベージュ色の髪に、柔らかく当てたパーマが上品な印象を与える女性だった。
髪型の雰囲気そのままに母性溢れる柔和な笑みを称えた表情は大人の余裕と自信を感じさせる。
上品さと親しみやすさを兼ね備えた麗人の姿に美奈子は思わず見惚れていた。
見覚えの無い人物、無論こちらに来て日の浅い美奈子にとっては道行く人のほとんどが初対面ではあるが。
目の前にいる人物に何の警戒心を抱くこともなく、反射的に美奈子は体を傾け、なんとか指が届く助手席側の窓ハンドルを回した。
「車、クラッチ踏まないとエンジン掛かんないよ」
女性は開いた窓から覗き見るように、美奈子の足もとを指さした。
そういえば最近のほぼ全てのマニュアル車はクラッチを踏まないとエンジンがかからない。
美奈子は慌ててクラッチを踏んで鍵を回す。
すると、せっつく様にセルが鳴り唸る様なエンジン音とともに車体が小刻み揺れる。
無事にエンジンがかかったことを確認した美奈子は、女性への謝辞も早々に車を動かそうとクラッチを勢いよく離す。
すると車体は癇癪を起こしたように大きく揺れると、その場でエンジンを停止させた。
その様子を見ていた女性は、笑いをこらえきれずその場で吹き出し大声を上げて笑い始めた。
「絶対やると思った!それにサイドブレーキも切ってないんだもん」
「あ、あのぅ……」
「いや、ごめんごめん、あまりにも予想通りだからついつい」
女性は目元に溜まった笑いの残滓を拭うと、開いた窓から腕を入れ助手席側のドアの鍵を開けた。
「たとえば、私が臨時の運転教官やるから、その代わりにちょっと私も車に乗せてもらえるとなんて」
女性は、そこで後部座席の益田のジャケットを指刺した。
「多分、目的地同じだから」
美奈子の変事も待たずに、女性は遠慮なく助手席側のドアを開ける。
「私の名前はぁ……そうね、”リリ”で通ってるから、宜しく」
発進時に3度程エンストを起こした後に美奈子が運転する黒い軽バンは、制限速度からさらに-10km/時ほどに抑えた速度でゆったりと道路を進んでいく。
「ありがとね、ちょうどバス一本逃して途方に暮れてた時だったから助かった」
リリは羽織っていた濃紺のジャケットを脱ぐと顔を仰ぐように、悠々と左手を振った。
おっかなびっくりハンドルを握る美奈子は、恐る恐るとリリの方を見る。
ジャケットの下に来ていたノースリーブの白いブラウスから、艶めかしい肩口のラインが見え隠れする。
天子と同じようにシンプルなパンツスタイルながら、天子は適当に有る物を着た様なラフさがあるのに対して、リリの格好は洗礼されている。
年齢・職業不詳、突然親しげに話しかけて来て、おもむろに助手席へと腰かけたの隣の女性はいったい何者なのだろうか。
頼みを断りきれず見知らぬ他人の命を自分の拙いハンドルで預かったことに後悔しても遅い。
益田のジャケットを指さして「目的地が同じだ」と言っていたから、つまり益田の知り合いだということはわかる。
「前、見てないと危ないんじゃない?」
「へ……?って、ふはぁ??」
美奈子が慌ててブレーキを踏むと、タイヤが大きく悲鳴を上げ、断末魔の様なブレーキ痕を残しながら車体は勢いよく停止した。
前方の車との距離は人一人分が通れる距離、前方のドライバーもさぞ肝を冷やしただろう。
「すすすす、すいません……」
美奈子は、同じく車内で肝を冷やしたであろう人物へと顔を向け謝った。
「いやいや大丈夫、流石天子ちゃんとこの子ね、久しく絶叫マシーンなんて乗って無かったけど、いいスリルが味わえたから」
”リリ”は動揺など一切感じさせず、にこやかに笑っている。
大人の余裕もここまでくれば、ある種の狂気かも知れない。
未だ心臓の音鳴り止まぬ美奈子だったが、一つ引っかかったことがあった。
「社長をご存知なんですか?」
天子ちゃん、と親しげに自分の上司のことを呼んでいたのだ、全く知らぬ中ではありえないだろう。
「じゃないと流石の私でも図々しく乗せてなんて頼まないわよ、天子ちゃんとこの車に知らない女の子がいたから声かけてみたの。」
「まさか目的地まで一緒とは思わなかったけど」と言った後に、リリは悪戯っぽく笑った。
「祥一君も困ったもんだね、あの天然ジゴロはいつになったら治るのやら」
リリは後部座席にかけてある益田のジャケットを見ると、わざとらしくため息をついた。
益田の事を気安く祥一君と名前呼びし、ジャケットを見ただけでそれが益田の物と分かり、益田に小言を述べる事の出来る人物。
益田とはどんな関係なのだろうか。
美奈子は、弱火で火にかけた鍋の中身の様に小さくゆっくりと感情が煮えているのに気が付き慌ててそこに蓋をする。
そんなことを考えている間にゆったりと進んでいた車はやがてイセミヤの狭い路地へと入っていく。
車体を擦らないように一層の注意を払いながら進んで行くと、”Club Oleander”と金色の筆記体で書かれた看板が見えてくる。
「ゴメンね、店の前まで送ってもらって」
リリは車から降りると美奈子へと手を振った。
昼を回ったこの時間、おそらく益田は店にはいないだろうとリリは言う。
夜になれば益田と会うからその時に渡しておくと、リリは益田のジャケットを手に取った。
「あ……」
美奈子が思わずジャケットに手を伸ばすと、リリはそれを苦笑して制する。
「祥一君に会いたいのはわかるけども、ただでさえ女は足が早い生き物よ?男を待っている時間があるなら、その時間使って男を待たせるくらいに女を磨かないと」
リリは軽やかに車のドアを閉めた。
益田に会えなかった寂しさと、リリの言った夜に会うと言う言葉の意味に後ろ髪を引かれながらも、断腸ならぬ断髪の思いとばかりにクラッチを入れた時だった。
車は再びエンストした。
エンストしたのは単純に美奈子の操作ミス、というだけではなく、車の前で野良猫が大きく欠伸をしながらふてぶてしく横たわっていた。
「あらら、このお大尽様は昼間っからこんなとこで」
リリは、猫に向かって車の前から立ち去るように小さくジェスチャーをした。
それでも猫は、理不尽な人間に対して仏頂面で美奈子とリリを睨め付け、喉を鳴らす。
あくまで挑戦的な猫に対し、リリは実力行使とばかりにそばへと近寄り手を出した。
その瞬間。
猫は百獣の王の親戚だと主張するかの如く、鋭く牙を剥きあからさまな敵意を示す鳴き声を上げると、
爪の立った腕を振り上げ、リリの手の甲から払いのけた。
「痛!」
リリは咄嗟に手を引込め、反対側の手で引っかかれた手の甲を抑える。
猫はのっそりとした様子で立ち上がると、重たい足取りでその場から立ち去って行く。
その様子を見ていた美奈子は、車から飛び出してリリの傍まで近寄って行った。
手を抑えて屈みこむリリと同じように屈みこむと、手の様子を覗く様に声を掛ける。
「手、大丈夫ですか!?」
「多分、軽く引っかかれただけだから」
心配する美奈子にリリは笑顔で答えた。
大丈夫とは言われてもそのまま放っておくことも出来ず、美奈子は急いで車まで戻ると自身のカバンから絆創膏を数枚取り出した。
「……そういえば私なら怪我が治せるのか」
そこでようやく美奈子は自分が魔法少女となっていた事、自身の能力で他者の怪我を治癒出来た事を思い出した。
しかし、今日知り合った他人の目の前で堂々と能力を行使するのも気が引ける。
そこで、美奈子は絆創膏を張った後に能力を行使しようと考えた。そうすればリリには傷口が塞がって行く様は見せずに済む。
「片手だとリバテープ貼り辛いですよね、私が貼りますよ?」
「リバテープ?」
「リバテープ」
美奈子は、リリに絆創膏を見せた。
「あぁ、キズバンね、でもあの子、野良だったから一応水で洗ってからじゃないと」
すると、美奈子は自販機でミネラルウォーターを購入すると、再びリリの傍へと駆け寄った。
「水ならここに、処置は早い方が良いですから!」
「……店にも水道くらいはついてるんだけどね」
そう言いながら苦笑するリリだったが、美奈子に押し負ける様な形で怪我をした手の甲を差し出した。
「染みますか?」
「ん、ちょっとだけ、けど大丈夫よ」
美奈子はリリの表情を見ながらゆっくりとペットボトルから水を掛けてゆく。
ある程度水を掛けた後に、周りの水分を軽くふき取って絆創膏を手の甲に貼った。
一枚だけでは傷を塞ぎ切れなかった為、不恰好に幾枚か張り合わせる事になったが、それは当座の話である。
美奈子は絆創膏の上から、自分の手をかざした。
何か複雑な呪文があるわけでもなく、何となく「治れ」と念ずる、いや、念ずるなどと大層なものでもない。
「治れ」と思えば治るのだ。
「ずっと手を握ってどうしたの?」
リリが不思議そうに美奈子の顔を見ている。
「あ、その、綺麗なネイルだなって思って」
「これ?良いでしょ、」
咄嗟の言い訳だったが、改めてみるとリリの爪には手の込んだネイルアートが施されていた。
薄い透明感のあるピンクを下地に、白百合と黒百合が指に交互に描かれている。
「ともかくネイルに傷が付かなくてよかった、手の甲の傷については後で大きなキズバン張らなきゃね」
「これじゃお店出られないから」と、不恰好に張られた絆創膏を見て“リリ”は苦笑した。
新たな絆創膏を買う頃には、傷は塞がっている事だろうと美奈子は内心悪戯っぽく笑っていた。
リリが驚く顔が見られないのが残念だ。
「あぁほら、血が段々滲んできた」
「そんな馬鹿な!」
美奈子は思わず大声を上げた。
見ると、リリの絆創膏の表面が赤黒く染まっている。
傷口は水で流して、自身の能力で塞いだはずである。
では何故、絆創膏の表面が血で滲むのか。
「どしたの、そんな大声上げて?流石にこんなすぐには治らないでしょう」
“リリ”は可笑しそう笑うと、ゆっくりと立ち上がり、股から臀部辺りを軽く払う。
「貴女、天子ちゃんのとこにいるだけあってやっぱ面白い子ね、名前は?」
「えっと、美奈子です」
「美奈子ちゃんね、また会う事もあるだろうから、今後とも宜しくね」
リリは手を振りながら、Oleanderの中へと入っていく。
一人残された美奈子は、茫然とその場に座っていた。
何故、能力が行使されなかったのだろうか?
まさか、自身から能力が無くなってしまったのか?
ともかく非常事態だろうと、天子の元へ向かう事を思いついた矢先である。
腹が不機嫌な唸り声をあげ、中に何か詰めろと要求してくる。
先ずは、腹を拵えてからだ。




