この街で いちばん ステキで 暮らしたい
美奈子はこれから自宅となるアパートの部屋を見渡して、呆気にとられていた。
東京からこちらに来る際に、取るものも取り敢えずにしてももう少しマシな準備ができただろう。
あの様な強行軍にあって、部屋にあったほとんどのものを東京に置いたままであった。
衣類、家電、寝具、あとは元彼。
そもそも家が無いのだからどこで雨風をしのげば良いのかすらわからない。
家を借りるにしても引っ越し作業で一度、東京に戻らなくてはならなかったが、なんとなく戻りづらかった。
幸子が入室してきた一件もあり、住んでいたアパート周囲の人たちからどの様な声をかけられるか、どの様な視線を向けられるか、それらを考えると出さねばならぬ足も引っ込む。
いっそまた新しく買い揃えるかと、財布の紐がどこまで緩むかその具合を確かめていた矢先、
「諸々、少し待ちな、こっちで考えてるから」
と天子に言われた。
待ったところでどうなるのだ、そもそもどこで待てば良いのかと聞いてみると、
「当座は事務所で寝泊まりしてれば良いさ、そうすりゃ万事は解決されている」
と言うから、月曜の夜から三日ほど事務所で寝泊まりをしていた。
事務所での生活は中々に勝手と居心地が悪く、冷水しか出ないコイン式シャワーは5分で水が止まる為に百円を使いまわしながら利用し、美奈子がこちらに来てからその役割を寝具に変えている応接セットのソファは、元は寝具でないだけに朝起きるたびに型で抜かれた様に体が固まる。
天子の髪が海辺の海藻になっているのも、不健康そうな表情なのも事務所で寝泊まりしている事が無関係ではなさそうである
そもそも爆発事故の現場であり、そのすぐ近くのコンビニでは実行犯と目される人物がアルバイトをしているのだから、オチオチ寝られるわけもない。
極め付けは衣類の不足を事務所の人間達から借りる算段になった際、中学生の歌音子の下着が一番サイズ的にフィットした事で表情が固まってしまったことであった。
歌音子への配慮か、自身のプライドのためか、美奈子は丁重に断りを入れ、下着は自分で算段することにした。
断られた歌音子の方は
「別に人の褌借りてなんのケチ付くでも無い、ワシもお前さんもとっくにさがりぼんぼじゃっちゅうに何を照れとるんかのぉ」
と笑っていた。
単語単語についてはなんとなく意味が分かるのに、一つの文として読むと全く何を言っているのか分からないとは、ある意味で外国語よりも凄い日本語を使う子だと美奈子は思った。
そんな歌音子を眉を八の字に曲げて切なそうに見ていた天子がある日、
「部屋の算段が付いたから、今日からそこに入りな」
と鍵を渡してきた。
部屋の算段がついたとて、そこには家具から何から何もないわけだから結局しばらくは事務所生活だろうと、不承不承と渡された鍵でアパートの扉を開けると。
なんということでしょう。
築二十年、家賃四万五千円(駐車場代込み)六畳一間1Kの殺風景な畳敷きの一室には、真新しい家具や思い出の家電の数々が。
彼との愛の巣となるはずだったダブルベッドは東京で売り払われ、その資金で六畳一間の狭い空間にふさわしいロフト型のパイプベッドを設置、もう虚しい空間の広がるベッドの上で寂しい夜を過ごす必要もありません。
ベッド下の空きスペースには、彼との憩いの場として購入したにも関わらず結局は疲れた仕事終わりに一人で寝そべっていた二人がけのカウチソファを設置しました、ロフトベッドに上がる事が億劫になった日もこれなら問題ありません。
彼のために美味しい物をたくさん作ろうと買った四百リットルクラスの大きな冷蔵庫、中にあった賞味期限切れの食材達は一掃され、依頼人の我儘な胃袋も充分に満たせる程の食材を一気に詰め込めるスペースが誕生しました。
「匠が知恵絞って、予算も大幅下回ってのご提供ってね」
呆気に取られて口を開けている美奈子の後ろにはいつの間にか天子がニヤつきながら立っていた。
驚く美奈子の顔を一目見ようと黙ってついてきたらしい。
「ウチの福利厚生も中々のもんだろう?これだけやってもアンタからは金は取らないし、毎月の家賃だって取るつもりはないよ」
「なんせ、ここは私の持ちもんだから」と天子は笑いながら指で鍵束を回していた。
「あ、ありがとうございます」
「バンビが、アンタの元いたとこの扉なんざぶっ壊さなかったらもっと早く算段付けてやれたんだけどねぇ……私はあの子にノックのやり方まで教えなきゃならないのかね?」
礼を告げ頭を下げる美奈子を見て、天子はバツが悪そうに顔を歪めた。
天子の表情に反して、美奈子としては寧ろよくこれだけ物が短期間に自分の元へ帰ってきたなと感心していたくらいである。
そのことについて、天子に聞いてみるとあくまで社外秘の機密事項としたうえで
「こっちには当座の現金が欲しい人間が、こっちには今すぐ使える安い労働力を必要としている人間がいる、互いの思惑が合致したとき、良い仕事ってもんが生まれるんだ、言語や国籍や法律の垣根を超えてね」
天子の言葉の裏をおそらく碌な答えが出てこないだろうというのは容易に想像できので、それ以上美奈子は理解しない様に努めた。
言葉の表の方に小さく企業コンプライアンスのかけらでも見受けられれば上出来である。
「この冷蔵庫が難敵でねぇ、なんせ玄関の扉を潜らないもんだから、紐で括りつけてバンビにベランダから引っ張らせたんだよ、私はチャールズ・バークレーを除けば冷蔵庫が飛ぶ姿を初めて見たね」
チャールズ・バークレーとは何者だ?と疑問に思いつつ天子に合わせて適当に愛想笑いを浮かべていると、天子は思い出した様に小脇に抱えていた物を美奈子に渡した。
「アンタの驚いた顔見るだけが用事じゃなかったんだ、これこれ」
天子が渡してきた物は、薄いベージュのジャケットと車の鍵だった。
ジャケットについては見覚えがある、益田から借りて美奈子が袖を汚してしまった物。
それを天子がクリーニングに出して持ってきたのだ。
随分と親切にしてくれると美奈子も感謝していたのだが、これには裏があり天子がジャケットを出したクリーニング屋、これはそのまま天子が経営しているクリーニング屋だったのだ。
普段は、飲食店などへおしぼり下ろしていたり、制服のクリーニングを請け負ったりしている。
要は、警備料なるみかじめの他にも諸々、金銭を徴収する手段を講じているのだ。
天子本人は、「スジモンのシノギと違って、うちは市場適正価格でやっている」との事だが真相は不明である。
ジャケットの一件も、「わざわざ他所を稼がせる必要は無い」、ただそれだけである。
そして車の鍵については、アパートの外の駐車場に天子が送迎で使用していた黒い軽バンが止まっていた。
「アンタ、免許はマニュアル大丈夫かい?」
「えぇ、一応、実家が田舎だったのでマニュアルの軽トラックが乗れた方が良いと母が……」
美奈子はそう言ったものの、運転免許を取得してからマニュアルどころかオートマ車すら碌に乗っていない。
所謂、ペーパードライバーである。
そんな美奈子の心状とは裏腹に、天子は機嫌よく鼻を鳴らした。
「アンタのお袋さんは賢明な人だねぇ、田舎じゃ車は死活問題さ、乗れる車の種類が多い事に越したことはないよ」
田舎、と言うより過疎化の進んでいる地域では公共交通機関などの交通インフラが脆弱であることは否めない。
例えばデカデカと掲げられたバス停の時刻表に対して二、三時間おきに慎ましく一本だけバスの到着時刻が刻まれていることなどザラである。
環境問題を危惧し、排気ガス削減を謳い、公共交通機関の利用を推奨する自治体は、まずはバス停に使われている無駄な資源やスペースについて考えた方がよっぽど環境的だろうし、そもそも過疎化が進み利用者数の減少などにより赤字となった路線については撤廃や縮小が相次ぐ中で利用する交通機関が無いではないかと文句の一つでも言いたくなる。
そういった地域において、マイカーと言うのは天子の言うとおり死活問題であり、買い物一つ出るのにもこれが無いとままならい。
さらに美奈子の住むアパートは、事務所の前の坂をさらに登った先にある。
事務所から距離自体はそこまで無いが、それでも登り坂を毎朝自転車で登校している学生達を思い出し、自分に毎日それが出来るかと考えた結果、同じ努力をするにしても美奈子は運転に対しての恐怖感を克服する方を選んだ。
「運転の練習がてらそれを益田に返してきな、今日のアンタの仕事はそれで終わり、荷解きの手間はそんな無いだろうけど買いだしやらは必要だろうし、残った時間はそれに当てたらいいよ」
そういうと、天子はそそくさと帰って行こうとしたが、その際に振り向きざまに
「益田のとこ行ってもちゃんと帰ってきなよ」
と、念押しされた。
そんなことを言われればまるで子供の使いではないか、と美奈子は内心不平を述べる。
なんの不安があってあのような事を言うのだろう。
天子の背中が見えなくなるまで見送ると、美奈子は新居を見渡した。
部屋の間取りはもちろんの事、家具や調度品も変わっている物があるが、
それでも元彼がいないという点を除けば、東京にいた時とそうは変わらない部屋の雰囲気を感じ、どことなく引っ越しをした感覚が薄い。
彼は今どうなったのだろうか、生きていれば御の字、それ以外の可能性については深く考えないように努めた。
天子の話では前の部屋にあった物は一応片っ端から持って来たつもりだが、確認はしておけという事である。
引っ越しの際に使った人足の中には、窃盗という行為に対して倫理的な抵抗を持ち合わせていなかったり、そもそも個人財産という概念についてあまり理解をしていない人物もいるとの事だった。
そもそも仕事とは何かについて分かっているのかも怪しいような人達に良く仕事を任せられるな、と思いつつ美奈子は部屋にある物を改めた。
見当たらない物は特にない、衣類などが無くなっているとなんとなく気持ちが悪いので特に入念に確認したが特に不足があるようには思えなかった。
だが、見覚えの無い物ならあった。
自分が所持している衣類の他にも、女性物の衣類が何着も出てきた。
下着も何点か出てきており、それを見るにおそらくかなりのスタイルの持ち主である。
たとえばそう、まだ事務所に寝泊まりしていた時、下着を借りるという話になって確実にサイズが合わないだろうからとハナから確認すらしなかったあの人の様な。
「どういうことだろう……」
美奈子はそれら衣類を一応元に戻しておいた。
部屋の中全体をあらかた確認し終わり、どこか手持ち無沙汰となった美奈子は畳の上に寝転がった。
「お腹空いたな……」
手には先ほど天子から渡された車の鍵が握られている。
胃袋を満たすのに必要なのはアクセルを踏む勇気だけである。




