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音の獄 -終楽章ー  作者: 天恢 文緒
8/12

8 英生

英生の独白のみです。暗いです。読みにくくて申し訳ありません。

 日溜まりの匂い、甘やかな音色。優しい声。


…綺麗な音でしょう? ねえ、英生、綺麗でしょう…


 夢の名残は淡くなって消えさり、英生の心には懐かしさと恋しさだけが残る。


 夢のかけらのような光がしみいるように意識に入ってきて薄く目を開けた。部屋は明るい。厚く重ねられたカーテンの隙間を見つけ、朝の光が部屋に射し込んできたのだ。


 英生はまばゆい光の筋から目を外らせ、もう一度目を閉じる。しかし醒めてしまった身体に眠りは訪れない。英生は諦めたようにため息をつき、ゆっくりと身体を起こした。


また長い無為な時間のはじまりだった。


 さやさやと木々の葉は音をたてる。おりからの風は頬をなでていく。下から見上げた陽を透かす葉の色は深い緑、足元の草は光をはじいて明るい。


 ひんやりとした感触の土に腰をおろして英生はそんな回りのものの、一つ一つを目で、そして心で丁寧に追う。それらの美しさは束の間、現実から心を離してくれる。押しつぶされそうな耐え難さはそうしたものに心を奪われているほんの一瞬、忘れることができた。


 何も考えてはいけない。考えては…。


 鋭い痛みが英生を襲う。両手から這い登る痛みはもうすでにない。しかしそれよりもっと深い痛みをもたらす傷が……… 瞬間、苦しげに英生の眉はひそめられる。考えてはいけない! 考えては…。息を整え、英生はまた必死に一瞬、一瞬を集めはじめる。


 うつろうはかない美を追ってどれくらいたったか、英生はふと、しみいるような音色を聞く。


 それは今朝、夢の中であらわれたあの音色に似て、おぼろ気にしか覚えていない、本当に小さいときに無くしてしまった母を思い出させた。


 幽かな音色は樹を、草をかすめて風に乗る。


美しい…。


英生は身体を起こし、ゆっくりとその音をたどった。


 ふと気付くと家の中。いつのまに…と英生はテラスの扉に手をかけたまま回りを見回す。外の明るさに慣れた眼には部屋は暗く淀んで見える。


 この家の中にはあの男が…、英生の顔は嫌悪に歪む。くるりと背を向け、もう一度、庭に戻ろうとしてふと幻だとばかり思っていた音色が実際に聞こえているのに気付いた。


 踏み出そうとした足は止まり、その一歩は踏み出されないまま終わる。


 この…音色は……! 英生は振り返り、耳を傾け、愕然とする。


 これは……!?


 それは英生の、彼自身の音だった。英生が長い間かけて作り上げてきたその音色、必死に作り上げてきた自分の音楽だった。凍りついたように立ちすくむ英生の回りで音は渦巻き、踊る。


 気付かないほど徐々に、音質は変わる。それはまたヴィクトルの華麗な音色に取って代わる。華やかで大胆なきらめく音。ヴィクトル・ハーベイの持ち味の音。しかし、そうした中にもふとした瞬間、透き通り静かな繊細さをたたえた音が混ざり…。


 そう、それはあの日、最初で最後の二重奏の時に作り上げたあの音楽に似ていた。二人で作り上げたあの世界の音に似ていた。


 ふっと貧血のように眼の前が暗くなり倒れ込みそうになるのを扉に手をついて支える。足ががくがく震えて立っていられない。英生は扉に体をもたせかけたまま、流れてくるその音色を聞いている。


 彼は…天才なんだ。


 今更のようにその認識が英生を胸に冷たくつき刺さる。


 ヴィクトルは、ほんの数回の英生の演奏を聞いただけで英生が今もっている最高のものを自分の中に取り込んだのだ。似ているというようなレベルではない。彼は英生の作り上げてきた音楽の本質を理解し、それを自分の中に昇華させた。


 音楽は続く。美しさが…増していく圧倒的な美しさが英生を包み込む。それはすでにヴィクトルの音色、そうして英生の音色でさえなかった。彼、独自の大胆で華やかなきらめきは瞬時に薄れ、微妙に透き通り、次の瞬間はそれらが一体となって豊かに響くのだった。


 こんな事が……! ありえるのだろうか! こんな…事が!


 冷水を全身に掛けられたかのように身体は冷たくなっている。が、英生の胸の中には今まで覚えた事もないほどのにがく苦しく灼熱したものがつきあげて来る。


 ………これは…嫉妬? 嫉妬?! 今になって? 弾けなくなった今になって?

 英生は醜い笑みが口元に張り付くのを感じる。

 

 いや、弾けないからこそ?

 弾ける彼に嫉妬するというのか?


 自分を嘲笑う笑みは深くなる。

 今更自分をだましてどうなる。


 そう、弾けたとしてもこんなふうに自分には弾けなかっただろう。今まで誰かのように弾きたいとは一度も思った事はない。しかしこれは違う。これはヴィクトルの音ではない。英生の音を包み込んだあの日の二人の音楽を再現する音。一度だけ現れ、消えたはずの音楽。それを彼は一人で作り上げているのだ。


 そう…たぶん、自分は一生こんなふうには弾けない。


 決して追いつけない才能……。


「…っ!!」


 激しい吐き気が込み上げてきて、英生は身体を二つ折りにして倒れ込んだ。口の中に苦い液を感じる。


 憎い…。英生は今、はっきりとヴィクトルを憎いと思う。


 ここまでの才能。自分にはない才能。それなのになぜ自分は彼にピアノを弾けないようにされなければならないのか。


 これほどの才能の違い。彼にとっては英生の音を盗む事など造作もない事だっただろう、それを越える音楽すらこうして作り上げられる男だ。いったいどうして、何で自分は彼にピアノを奪われなくてはならないのだろう。どうしてこんなささやかな才能しかない人間から、彼はすべてを奪えたのだろう…。


 嗚咽のような、声なき叫びが唇から微かに漏れ出す。


 嗚呼、でもいっそ弾けない方がいい!


 この音楽を聞いてしまった今、もう二度と弾けないと諦めた方がましなのかもしれない。たとえ手が傷ついていないとしても、決して捉える事ができない音楽。自分には決して…決して…。


 強い感情のまま、英生は思い切り傷ついた手で壁を打った。


ピアノ…すべてだったピアノ…。弾けない…。弾けない!!ヴィクトルのようには!!! 決して!


 再び傷ついた手が熱を持つ、しかしそれより身体の中が燃えるようだった。熱い灼熱した塊が身体の内を焼き焦がしている。獣にも似たそれは、英生の内面を情け容赦もなく食い荒らす。思わずかみしめた唇が切れ、鉄臭い血の味が口に広がる。この殺意にも似た嫉妬。今にも身体という薄い殻を破って、外に噴き出してしまうのではないかとすら思える、この激しい獣。


 英生は自分の中にある底知れないぞっとするほど醜いもの、今まで知らなかった自分の奥に秘められていた深い恐ろしいどろどろとしたものを知る。


 嫉妬。


 学院で自分にむけられていたその感情を今までどう思っていた?


 汚らわしい?


 卑怯?


 英生は自嘲に唇を歪める。なんと自分は何も知らない幸福な子供だったのだろうか。なんと残酷で高慢な人間だったのか…。何ができるというのか? 高みを見つめることはできても、登る術が最初から奪われていた人間に?


 理解しようもしなかった自分。その「持たざる者」の苦しみを知ろうともせず、ただ…、汚い嫉妬心と思い込んでいた高慢さ。自分も同じ、いや自分こそ憎しみと嫉妬に支配された最も汚らわしい人間、軽蔑にさえ値しないような人間なのに。


 英生は硬く眼を閉じた。眼の奥に熱い塊が込み上げて来る。そしてそれは英生の心の何かと共に溶けだし頬に流れ落ちる。


 英生は悟る。これは何も知らない子供だった自分への決別の涙。もう、二度と戻れない自分への鎮魂の涙だった。そうして、英生はつい先程までの意識を閉じ、憎しみや絶望、それらすべてを自分から切り離して逃げ込もうとしていた聖所(サンクチュアリ)を今、切り捨てる。


 そこはもう英生がいられる場所、戻れる場所ではない。鋭いナイフにえぐられ続けているようなこんなに激しい痛みから英生はどこへも逃げだす事は出来ない。どんな瞬間も…この醜い思いから、醜悪な自分自身から逃れる事は出来ない。


 そう…もう逃げない。


 英生は息を整えながら顔をあげる。そうしてゆらりと立ち上がった。その顔に先程までの無表情な夢見るような表情はない。


 そう、この憎しみがある限り、僕は逃げない。


 乾いた冷たい瞳に強い光を宿し、英生はいつまでも澄んだ音色の聞こえる扉を見つめつづけた。


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