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音の獄 -終楽章ー  作者: 天恢 文緒
7/12

7 リャービン・ヴィクトル

狂っているよね…という表現がありますので、ご注意ください;;;;

「どうして、こんな事をしている? ヴィク」


 大きな窓から外の明るさを取り入れた部屋。


 今、その部屋のなかに二人の男が、一人は座り、一人は窓のそばに立っている。


「こんな事? 何の事だい」


 繊細だがすっきりとしたデザインの椅子に腰掛けた男の方を振り返りもせず、立っている男は出窓から広い庭を眺めたまま質問をかえす。


「英生だよ! どうしてここに置いている? ミルティンや友達たちが今、血眼になって捜してるんだぞ。こんな所に隠して…」


 ヴィクトルはやっと椅子に座っているリャービンを振り返る。庭からの光を浴びて金茶の髪が、白金に透き通り、その整った顔を縁どる。表情は薄い影の中にしずみ、リャービンには読み取れなかった。


「隠してはいないよ。彼は…」


 また視線を窓にやる。そこには黒髪の青年が、暗い影を落としている生い茂った樹の下に、ぼんやりと何をするでもなく座っていた。


「…ここにいたいから、いるだけさ」

「ここに? あの英生が? 馬鹿を言うな!」

「何故? 英生がここに居たくないとでも言ったかい」


 リャービンはいらいらと肘掛けを叩いていた指を止め、きっと相手をにらみつけた。


「言ったかだって? 言うもんか!」


 ヴィクトルの金茶の目は影になって黒に近い色に変わっている。リャービンは陰影に彩られた友人の顔に、微笑みを見たような気がして、ふと不安になる。一呼吸置いて、気持ちを落ちつかせ、静かに話しはじめた。


「今の英生は言葉さえ忘れたようじゃないか。いつもぼんやりと宙を見て。医者には見せたんだろう? なんと言っていた?」


 ヴィクトルは肩をすくめる。


「今日の君は分からない事ばかり言っている。なぜ英生を医者に見せなくちゃならない? 怪我はもうよくなってきてるよ。医者は必要ない」

「手の怪我の事じゃない」

「じゃあ、何だい」


 もう一度真正面から見つめられ、リャービンはいごこち悪げに目を外らした。


「…彼は…心を病んでいる」


 はじかれたようにヴィクトルは笑い出す。その笑いには明らかにリャービンの神経を逆なでするものがあった。リャービンはつい声を荒げてしまう。


「何がおかしい! ピアニストが指をつぶされたんだぞ! 死んだも同然だ。英生が狂うのも無理はないだろ!」


 ヴィクは笑いやまない。リャービンはその笑いを断ち切るように言葉を続ける。


「一日中ああしているだけじゃないか。昨日もそうだった。ああやってろくに食べもせず、ぼんやりとしていて、一言も話さない」


 おりからの風に青々と茂った葉が揺れる。光がちらちらと踊り、樹々の葉はさやさやと音をたてる。が、その下で座り込んでいる青年は、ぼんやりと宙に視線を漂わせたまま、身動きもしない。


 リャービンはそのいたましい変わり様を見て、思わず眼をそらした。


「信じたくない気持ちは分かる。私だってそう思いたくはない。でも、それが事実だ。彼は心の均衡を欠いてしまったんだよ、ヴィク。彼には辛すぎたんだ」


 リャービンの脳裏に、子どものように嬉しそうに微笑む英生の顔が浮かんでくる。あれは、つい数ヶ月前の事だ。


 彼は音楽を本当に愛していた。ピアノを弾ける事が何よりの幸せ、というような子どもじみた純真さを英生は持っていた。暴漢に襲われて、手をめちゃくちゃにされるという事件が、どれほど彼を苦めたか…、リャービンはそれを考えると、言い様のない悲しみが湧きあがってくる。そう、英生はその音楽のように素直で…とても…


「繊細だった。澄んでいて純粋だった。いや過ぎたというべきか。英生は弱かったんだ」

「弱い? 英生が? そう思うのなら、君は何もわかってない」


 微笑んだまま、そういいきる友人に、リャービンは悲しみが怒りに変わるのを感じる。


「わかってない? 何がだ! 君こそ英生の何を知っているんだ! ほとんどしゃべった事さえないじゃないか! 練習の時に彼を無視していたのは君だ! 彼がそれでどんなに…」

「私が英生の何を知っているかだって?」


 ヴィクトルはかすかに笑う。


「知っているとも」


 そうして今度はリャービンに向けて、はっきり笑顔を見せる。金茶の目、きついその視線を柔らかく見せる造作の微妙な陰影、ヴィクトルは魅力的になろうと思えば、いくらでもそう装える。


 その笑顔は危険だった。ヴィクトルがこうして挑戦的なまでに微笑む時は…いつも何か……何かがあったのではなかったか。しかし今、その視線はリャービンからはずされ、微笑みは窓の外の青年に向けられる。


「英生…。彼は…音楽だ」


 友人の口をついて出て来る言葉の、その激しい感情に波打つ瞳の色とは反対の、独り言のような静かな調子にリャービンは口をつぐむ。


「彼はまるで周りの空間全てに向けて、惜し気もなく放たれる恋歌のようだ」


 リャービンはヴィクトルの言っている意味がわからず、友人をまじまじと見つめる。


「音色は静かで普通の人間が聞くと、ただの美しい音色にしか聞こえないかもしれない。でも、彼の音楽には、それだけではないものがある。聞く耳のあるものにしか聞こえないもの…。そう、選ばれた誘惑かな」


 視線は窓の外の青年をみつめたまま…。


「その音色は静かで、涼やかだが、それでいて秘めたものはとてつもなく強烈で熱い。澄んでいて繊細な音の下に、とても強く激しい英生自身がいる。それは隠されてはいるが…」


 ヴィクトルは眼を伏せ、自分に向けるように言葉を続けた。


「聞いた人間に対して支配的で強制的なまでの力を持つ。 ……彼に囚われる罠」


 そうして薄く笑って友人を見る。


「彼の音楽は、その優しい澄んだ音色に誘われるまま、潜んだ危険に気付かないで浸ってしまいたくなる。そうじゃないかい?」


 ヴィクトルの目は、再び自分の内を見るかのように深い色を宿す。


「彼は邪気なく人を殺せる物語の中の聖なる獣のようだ。自分の持っている危険性を知らない純真さ。そういう生き物はこの世のものではないほど美しい。彼の澄みきった純粋さは、人を否応なしに巻き込んでしまう。だれでもだ。ミルティンでも君でも、…そして私でも」


 リャービンはただヴィクトルを見つめる。考えもしなかったが、確かにそれは…。あの音色は……。聞いただけで惹きこまれるその魅力は…。


「彼は誘惑そのものだよ。だれにとっても」


 浮かんだ笑みは、端正な顔に暗い影を刻む。


「だが私にとっては運命に近い。彼は私のために生まれたんだ。あの音色…。あれは私の欠けていた半身だ。君が最初に英生の音楽を聞かせてくれた時から、それはわかっていた」


 リャービンは何か言おうとして喉がからからに乾いているのに気付く。


「………あの時まで、自分がこんなに欠けた存在だとは思いもしなかった。小さい時から、天才と褒めあげられ、自分でもそうだと思っていた。それがあの音を聞いた瞬間、わかったんだ。自分は欠けた存在だと。そう、彼と一体にならなくては完璧ではない」


 自分を笑う声は低い。リャービンはヴィクトルの、そんな自嘲的な笑いをはじめて耳にした。


「この私が誰かをこんなに必要とし、それに支配されるなんて。駆け出しの? ピアニスト? 名もない…。このハーベイともあろうものが。

イライラしたさ。間違いであって欲しかった。でも間違いではなかった。最初に彼の音楽を、はじめて実際に聞いた時。あの…時」


 リャービンの脳裏に、最初の二人の出会いが浮かんで来る。日差しの差す明るい部屋。一人はピアノを弾き、一人はそれに聞きいっていた。


「まったく…最初の一音を聞いた時から、彼を飲み込んで、その音色と一体になりたいという思いが突き上げてきた。どうしようもなく強い誘惑。あれほど苦しくて…、そして甘やかな思いをしたことはない」


 いつもの大理石を思わせる肌には、まるで密事の時のような紅みがさしている。ふだん、冷たい冷静さで身を覆っているこの年若い友人の、はじめてみせた激情の顔に、リャービンは少なからぬショックをうける。それは見てはならないものを見ているようで、どぎまぎと目をそらさずにはいられないような光景だった。


 その妙に妖しい空気をふり払うように、リャービンは冷たく声をかける。


「でも、弾かなかったじゃないか」


 ヴィクトルは哀れむように微笑む。


「弾いていたさ。君が気付かなかっただけだ。彼が高まれば高まり、静まれば静まる。導かれるまま何度も何度も」


 ヴィクトルは樹の下にすわる英生を見てうっとりと微笑む。


「英生と実際に弾いた時は…、あれは…、あれほど素晴らしかったことはない。君が聞いていたと思うと残念だ。あれは他人に聞かせるものじゃない。私と英生だけのものだ」


 濃密な、人を拒絶するような、重くとろりとしたものが、この窓際にたつ友人と、庭の樹の下に座る青年を包み込んだような、奇妙な錯覚をリャービンは覚える。


 ヴィクトルは手を伸ばせば届くほどの距離にいるのに、彼と英生はリャービンの想像もつかない遠くにいるような…、そんな感覚がはいあがってくる。リャービンは頭を振ってその思いを追い払う。


「だがヴィク…彼はもう弾けないんだ。共演も夢になってしまった。そこまで英生に思い入れているとは思わなかったが…、でも、もうおしまいだ」

「おしまい? まさか。 何を聞いてたんだい? 英生が…、英生自身が音楽だと言っただろう? 彼はピアノなど弾かなくても音楽だ。私や他の誰とも違う。おしまいなものか。やっと私一人だけの……、英生を手に入れたのに」


「…何を言っているんだ……」


 ヴィクの言葉にある何かがリャービンを不安にさせ、言葉は喉にひっかかって途切れる。ヴィクトルは窓の外をみていた目を、古くからの友人に戻した。そうしてリャービンの座る椅子の所まで歩み寄り、すっと足元に跪く。


 顔は仰向いて、友の目を見つめたまま、慰めるようにその手に自分の手を重ねる。リャービンは友人のめったに見せないそんなやさしいしぐさに戸惑いながら、その顔を見おろした。ヴィクトルの端正な顔には不思議な笑みが浮かんでいる。瞳はあの金茶の色。


「手をつぶさせたのは私だ」


 時は一瞬凍りつく。


「人を雇って、英生の手をつぶさせた」


 あえぐような声がリャービンの口からもれる。


「嘘だ…どうして…」

「どうして? わからないのかい? あれを聞いた君が?」


 リャービンを見つめるヴィクトルの笑みは深くなる。


「彼は私のものだ。私だけの。あれを聞いた君なら、分かってくれるだろう。あれがどれほど、個人的なものだったかを。他人に聞かせる音楽ではない事を。誰ももう彼の音色を聞くべきではないんだ。そう、私以外は」


 一瞬、リャービンはあの昼下がりの、二人が紡いだきらめく音を聞く。めくるめくような快感……あれは………。


 うめくような低い声が漏れる。


「狂っている…」

「今度は英生じゃなくて、私が狂っているのかい? いや違う。わかっているだろう?」


 リャービンはまったく知らない他人を見る目で、友人を見下ろす。深い微笑みを浮かべた整った顔、その繊細な、それでいて強靭さを感じさせる指。ピアノを弾いていないときでさえ、音楽の魔力を感じさせるその手。


 ここにいるのは確かに親しい友人のヴィクトル・ハーベイだ。が、しかし彼の知っているハーベイは、音楽以外のものには、本当は何一つ執着をもった事がない人間だったのだ。他の何においてもクールで冷淡に見える彼は、その実、音楽に対してだけはいつでも、誰よりも熱く真摯だった。


 それを知ってリャービンは、彼にどれだけ惹かれたかわからない。そう、彼は音楽に対してだけは…。


 その時、ふいにもう一度、あの昼下がり、一度だけ奏でられた音色がよみがえる。彼らの作り上げた至福の音楽。それはリャービンをしっかり捕らえ離さない。いつまでも頭のなかで鳴り続ける。そう、ヴィクトルには音楽しか価値がない。


あれは…………確かに……………。


なんてことだろう……。英生は…。


「リャービン、何で泣くんだい」


 リャービンは自分が泣いているのにはじめて気づく。


「泣かないでくれ。君は素晴らしいことをしてくれたんだ」


 涙はとめどもなく流れ落ちる。


「リャービン」

 限りない優しい声音でヴィクトルは呼びかける。魔力を秘めた両手で友の手を取り、そっと握り締める。

「リャービン…」


 しかしリャービンは頑なに目を閉じ、英生とヴィクトル、そして彼らを出会わせてしまった自分のために苦い涙を流し続けた。

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