6 英生・ヴィクトル
残酷な表現があります。ご注意ください。
明るい日差しが窓に反射し、素っ気ない作りの音楽院の寮の壁を彩るせめてもの飾りになっている。真昼の寮は、学生達のほとんどが授業に出ていることもあって、しんと静まりかえっていた。
ヴィクトルは門の前で立ち止まり、白っぽい光の中でみるとますます醜い寮の建物を見上げる。美を生み出す者たちが暮らすには、いかにも不似合いな場所だが…、ヴィクトルは思う、ここにいるほとんどの学生たちが才能もない、ただ自意識だけが音楽家の人間達である事を考えれば、ふさわしいとも言える。皮肉な笑みを浮かべて、ヴィクトルは門をくぐった。
英生はもう一度部屋を見回した。作り付けの家具の中には、もう何も残っていない。楽譜を入れていたいくつもの棚は、埃くさい日向にくっきりとした陰影を描き、がらんとした中身を見せている。
棺みたいだ…、英生はぼんやりと思う。それとも魂が抜けて、空虚になった死体のような…。英生は白い包帯に包まれた自分の両手に視線を落とした。包帯からわずかに覗く指先は、蝋細工のように青白い。
ここに今あるのは残された死骸だけなのだ。部屋は持ち主と一緒に魂をくりぬかれ、今、死んでいる。二度と鍵盤を弾けない指。英生はそっと両手を持ち上げてみる。が、その手の白い埃に汚れた包帯を通して、鋭い腐臭をかいだような気がして、英生は思わず強く目を閉じた。
軽いノックの音。英生はびくっと目を開ける。返事を待たずに開けられた戸口には、思いがけない人物が立っていた。
「やあ英生。退院したんだってね。今日病院に行ってみて初めて知らされたよ。いきなりだって? どうして知らせない?」
くったくなげに語られる言葉、笑顔。英生は唖然とヴィクトルをみつめる。そんな英生の驚きを気にもせず、ヴィクトルは手に持って来ていた花束を差し出す。
「見舞いのつもりだったが…、退院祝いになったね」
美しく濃淡を見せる青い花々で作った花束を英生は受け取り、戸惑いながらも胸に抱え込む。
「あの…。有難う」
ヴィクトルが自分に起こった事件を知っている事はわかる。なんといってもコンサートの企画がだめになれば、さすがのヴィクトルでさえ、相手に何が起こったかくらいは聞くだろう。が、何で退院の事を知りたがるのだろう。ピアニストでもなくなった共演者になど、なんの興味があるのだろう。ちゃんとピアノを弾けていた時でさえ、英生を練習の間ほとんど無視していたのに。
英生はヴィクトルのこのいきなりの好意に戸惑うばかりだった。だいたい、彼は今のように自分と視線を直接合わせ、笑いかけた事さえほとんどなかったのだ。いつも傲慢な冷たい表情をして、英生がいないかのように振る舞う態度を見慣れていた英生は、じっと自分を見つめる相手をどう扱っていいかわからない。
視線をそらし、口篭りながら返答を返す。
「退院のことは…、あの…ごめんなさい。急だったし、だれにも知らせなかったんです。先生にも…。クナ、…友達にも。だからあなたにも…」
気にするな、という風に手をふって英生の言葉を遮り、ヴィクトルはぐるりと小さな部屋の中を見渡した。部屋のあちこちにまとめてある楽譜の山。それに隠れるようにして、少しばかりの身の回りの品が段ボールにつめられている。
「引っ越し…か」
「ええ。ここを… 早く出たいので」
深い傷を隠し、つとめて冷静な口調で英生は話す。
今までの人生のすべて、大切に思っていたすべてをここに置いていかなくてはならない痛みは、他人には分からない。特に、誰よりも才能にあふれ、幼い時から天才の名をほしいままにして、今も最高のピアニストとして、音楽界に君臨するヴィクトルにはわかるはずもない。
硬くなった表情の相手をみやって、ヴィクトルは宥めるように英生の腕にちょっと触った。そうして気分を変えるように笑いかけ、ベッドを指差す。
「ここに座ってもいいかな」
椅子には山ほどの楽譜が置いてあって、とても座れない。ちらかってはいたが、ベッドだけが一応座れる家具だ。英生はせっかくたずねてきてくれた客に、椅子も薦められない事に気付いて真っ赤になった。
「あ、ごめんなさい。椅子、荷物のせちゃって…。どうぞ座ってください」
かまわないというように軽く声を立てて笑い、ヴィクトルは座り込む。そうして改めて回りを見回した。
「楽譜の山だね英生。君は音楽を食って生きてたらしいね」
からかうような言葉の調子の中に、しかし嘲りはない。ヴィクトルの言葉から皮肉な調子をぬかすと、それは英生と同年代の青年の声だった。そうだ、僕といくつも年が違わないのだ…、英生は改めてそう思う。それはいつもほとんど忘れてしまう事実だった。
英生はもう一度、無造作に足を組んで、むき出しのベッドに座るヴィクトルを見る。ヴィクトルは視線を感じて英生を見上げて微笑み、腰をずらして場所をあけ、英生に座るように促した。
英生は人慣れない動物のように、おずおずと近寄る。ヴィクトルは英生が自分の横に座るのを辛抱強く待ち、まだ抱えている花束をそっと取り上げ、ベッドの横のテーブルに置いた。そうして汚れた包帯に包まれた両手を自分の手で包み込み、いたわるようにそっと撫でる。
「…まだ痛むかい?」
まるで愛撫するようなそのしぐさに、英生は思わずびくっと手を退いてしまう。自分のそんな動作に戸惑ったように英生は言葉を付け足す。
「あ…あの…。いろいろ整理をしていて、その…汚れてますし。指先もさっき楽…、紙で切ちゃって、血とかついたら申し訳ないし…」
ヴィクトルは引き抜かれた手を包み込む形のまま、薄く英生に微笑んだ。それはいつも練習の時に見せる冷たい笑みと同じ様に英生の心を波立たせ、何故か英生の頬は燃え立つように赤くなる。ヴィクトルは味わうように、そんな英生の様子を見守っている。沈黙がのしかかり、英生はどうにかそれを破る言葉を選んだ。
「ごめんなさい…。こんな…ことになって。一緒に弾けなくなって…」
沈黙をうめるために口にした言葉だったが、あらためてこうして言葉にし、耳から聞くとそれは真実の重みを伴って、再び英生を打ちのめす。自分はもう、ピアノが弾けない、その事実はまぎれもない。
この現実! 英生はいきなり両手に顔を埋めた。
「弾きたかったのに!」
必死に押さえていたものが、どうしようもなくあふれてくる。
もう、二度と弾けない、その恐ろしい事実が英生を苛む。そんな英生の震える肩に、ゆっくりとヴィクトルの手がまわされ、ヴィクトルは英生をしっかりと抱き寄せた。乱れながらもサラサラと素直な黒髪に頬を寄せ、唇をあて、つぶやくように話しはじめる。
「可哀想に。君に痛い思いをさせるのは本意じゃなかったんだ」
愛しそうに、味わうように手は英生の背を撫で上げる。
「ただ…こうしか方法がなかった。必要以上に君を痛めつけないよう、指示したんだが…」
びくっと身体がこわばり、英生はヴィクトルをさっと見上げた。ヴィクトルの瞳はあの最初の練習の時の一瞥と同じだ。冷たく、不思議に優しく……そして、あの時はわからなかった、恐ろしく残酷ななにかがある。
ヴィクトルはもう一度、英生の両の手を取って、白い包帯に包まれたそれにうやうやしく口づけた。
「もう君の音を他の誰も聞くことなど許さない」
「どういう…事…。あなたはいったい何を…」
「あいつは私が雇った」
弾かれたように英生はヴィクトルから身をもぎはなし離れようとする。が、ヴィクトルは英生の両手をつかんでいる手に力を込めた。
「…っ痛ぅ!」
両手から伝わる激痛に英生の身体は凍りつく。ヴィクトルは、手を引き戻し、英生を自分の横に引き倒した。ヴィクトルの手の中で英生の白い包帯には、指先の傷がひらいたのか血の色がさしはじめる。ヴィクトルは魅せられたようにその朱を見つめる。
「君は私のために生まれた。はじめて君の音色を聞いた時、わかった」
英生は激しく首を振り、もがこうとする。ヴィクトルはくだけんばかりにもう一度手に力を込めた。下になっている英生の口からかすかな悲鳴がもれる。
「この世でこれほど美しいものがあるとは思わなかった」
痛みで霞んだような目で、英生はヴィクトルを見上げる。男の唇からもれる言葉は狂気以外の何ものでもない。が、その視線には狂気のかけらもない、あの冷徹で冷たい光のままだ。
恐ろしく冷たいものが英生をまた凍らせる。この男は狂ってさえいないのだ。
「私のものだ。一かけらだって他の人間のものじゃない。私のものだ…」
耳元で吐息のように語られる言葉。英生は必死に顔をそむけ、男の腕から逃げようとする。しかし暴れても、もがいてもヴィクトルの力は緩まない。
息が乱れ、呼吸が苦しい。声すら出せない。食事を満足にとっていなかった体には力が入らない。貧血のためか急に体が冷たくなり、目の前が暗くなってくる。
これは現実のはずがない! 何もかも夢だ………。
にぶい痛みがつかまれた腕から這いあがり、意識が暗闇に包まれる中、英生は自分の意志で何もかもをすべて閉じこめ、一切を締め出すように、固く心を閉じた。




