4 英生
教室までの道のりはいつもと同じだった。すりへった古びた石畳の道を数分歩き、そうして大きな公園通りに出る。それからいくらも歩かないうちに学院の門が見えてくる。
英生は自然に微笑んでいた。驚くくらい周りが美しい。あの家のレンガも昨日より明るい。花壇の花もずっと生き生きしている。ああそうだ…英生は思う。今までは周りを見ずにうつむいて歩いていたのだ。あの、二人で弾いた、あの時の前までは。
そう、あの時、あの瞬間。それを思い出すだけで英生は充実感と幸福感に満たされ、自然に微笑んでしまう。溢れるような喜び。今日は、ミルティン先生に報告しよう。今度の演奏会はうまくいきそうだと。そして、勿論クナにも、もう大丈夫だとつたえよう。
急く心のまま、英生は近道の裏道へ入った。百メートルも歩けばすぐそこにレッスン室の入り口が見える。
そのとき、後ろから声がかけられた。
「オカザキ ヒデミ?」
英生はびっくりして振り返る。後ろに人がついてきている気配など、まったくなかったのだ。声の主は、まったくこの学院には不似合いな黒いサングラス、そして黒い革と銀の鎖、腕にびっしり色鮮やかなタトゥーをいれた男だった。もちろん、同じような服装をしている学生もいないことはない。しかし、この男は、まるでそういう人間達とは違った雰囲気を身にまとっている。
「あの…、なにか?」
呼び止められたことにまったく心当たりがない、といいたげな英生の本当に不思議そうな表情に、男は少し眉をあげる。
素直に見返してくるその視線はあまりにも邪気がない。いったいこいつが何をして、こんな災難に巻込まれることになったことやら。まあ、勿論、そんなことを気にしていては、こんな商売はあがったりになる。
「あんたがヒデミか。いや、なに、たいしたことじゃないけどさ、ちょっと、用がね」
「あ、ごめんなさい。約束の時間があって今は無理なんです。でもレッスンの後なら…」
「そいつは残念だ。でも悪いな、こっちは急ぎなんだよ」
「え? でも…」
目の前の男が苦笑しながら軽く手を振って言葉を遮る。そして、いきなり英生の後ろにまわりこみ、がっしりと身体を押さえこむ。抵抗する間もなく、後ろから手が伸び、英生の口と鼻を布で覆った。もがこうとした時には、すでに甘い嫌なにおいが流れ込み、膝がカクンと崩れ落ちる。倒れこみそうになるのを、後ろから黒革の男はしっかりと抱き留めた。
意識が遠くなる中、最後にのこった英生の聴覚に、かすかにその男の声が聞こえる。
「安心しろよ。必要以上酷いことなんてしないぜ。余計な怪我はさせるなって命令だしな。それに、こんな素直な坊やいじめるのは俺の趣味じゃない」