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音の獄 -終楽章ー  作者: 天恢 文緒
3/12

3 リャービン

 ほーっと息を吐いて、リャービンははじめて自分が息をつめていたのを知った。


 日差しはテラスから練習室に入り、二台のピアノの足元で明暗を分けている。弾きおわった音は余韻を残して、消え去った今もまだ部屋を支配している。が、その魔術もすっと立ち上がったヴィクトルのしぐさに霧散する。


 一人だけの拍手。


「すごいな。これは…。これほどになるとは正直言って予想もしなかったよ」


 リャービンの手放しの賞賛にヴィクトルは片頬で苦く笑って見せ、さっと上着を取り上げた。そして、ともに音楽を作り出したもう一人のピアニストには挨拶もせず、部屋から出て行く。


 リャービンはその取りつく島もないような後ろ姿を見送り、残された男に目を移した。


 今しがた出て行ったヴィクトルと二、三つしか違わない、この年若いピアニストはほんの少し前にデビューしたばかりだ。が、さすがミルティンの弟子だけあってそのテクニックは非常に確かである。そして、なにより彼は透き通るような音質を持っている。


 岡崎英生、この日本人のデビューコンサートを聞いてリャービンは強く魅せられた。その時の演奏を記録としてミルティンが録音していたことを知り、ぜひ聞かせたい人がいるといって無理やり借り出した。そしてそれをヴィクトルに聞かせ、ぜったいこの魅力的な演奏をする青年と共演をすべきだと説いたのだ。


 今までの経験から九十%はだめだと思っていたこの企画に、彼は思いのほかあっさりと承諾をだした。リャービンは長年の夢の企画が今度こそ実現すると大喜びしていたのだが。もうすでに二人でするべき練習を三度、ヴィクトルは一音も弾かずにすませていた。


 最初の日、彼は練習に遅れてきた。練習に時間通りにあらわれないのはいつもの事なので、リャービンは待っていた英生に先に練習しているように言い、気紛れな友人の到着をゆっくり待つつもりで自分もそばの椅子に腰掛けた。


 英生が弾き始める。その音はデビューコンサートの時、彼に感じた才能は本物だったと確認するのに十分だった。透き通る音色に思わず聞きほれていて、ふと気付くともう一人、聴衆が増えていた。扉の所に立ったまま、ヴィクトルが身じろぎもせずに演奏を聞いている。


 最後まで弾きおわった英生は、ゆっくりと余韻を楽しむように顔をあげ… はっと共演者に気付いた。びっくりして思わずガタガタと音をさせて不器用に立ち上がる青年にヴィクトルはつかつかと近づく。


 同じような状況で前回、とめる間もなくヴィクトルが自分できっぱりと共演を相手に断った事が思い出され、リャービンは思わず腰を浮かした。しかしヴィクトルは英生に触れるほど近くに寄っただけだった。


 そうして、しばし相手の瞳を真正面からみつめる。その凝視に思わず真っ赤になった英生にふっと表情をゆるめ…、そして何もいわずに踵をかえしそのまま部屋から出て行ってしまった。


 それがどういう意味なのかわからなくて、おどおどと助けを求めるように自分を見る年若いピアニストに、リャービンは無理に笑ってみせた。


 そうして、この企画をやめた方がいいのでは、と思い詰めたように申し出る英生に、そんなことはない、次の練習を止めないように、と説得したのだが…、本当はあの時、リャービン自身、ヴィクトルがこのピアニストと本当に共演する気があるのかどうか、自信がもてなかったのだ。リャービンも彼の英生に対する不可思議な態度に戸惑っていた。


 ヴィクトルは何につけても好き嫌いをはっきりあらわす人間だ。前回、同じ様な企画を断った時は、相手のピアノを一楽章すら聞かなかった。


 しかし、今度は? 何を考えているのか?


 が、リャービンの心配をよそに彼は練習のたび、きちんと時間にあらわれ、ピアノにさわりもしないが、それでも英生の演奏をじっと聞いていた。英生はこの常識から考えると無礼な態度に戸惑いはしていたが、リャービンの言う事を信じたのか、やめるともいわず、ただだまって自分のパートを弾きつづけた。


 そして今日、いつものように英生が一人で弾きはじめると、ふいにもう一つの音が加わった。


 びくっとして手を止める英生を誘うように、ヴィクトルは弾きつづける。その演奏は英生の戸惑いを溶かした。そして奏ではじめられた英生とヴィクトルの音は一体になる。


 それは素晴らしかった。素直に透き通る英生のピアノにヴィクトルの表情豊かなきらめく音が絡み、戯れるようにまとわりつき、そして次の瞬間には、ヴィクトルの豊潤さが、英生のすがしさを彩る。それはどちらが一つでも生み出せない世界を形作った。


 至福の音色……。


リャービンはただただ聞き惚れるだけだった。演奏が終わっても、彼らの音楽の余韻は魔力のように部屋に漂い、術士の一人が断ち切らなければ、その呪縛が解けないほどだった。


 たぶん、よく考えれてみれば、ヴィクトルはこの英生というピアニストが気に入っていたのだ。嫌なら演奏を聞かせた最初から断っていたはずだ。が…なぜ…。英生に対する態度は、一緒にやる気がある、ないという事を、たとえ相手が大家と呼ばれる相手にでも常にはっきりと言う彼らしくもなかった。いったいなぜ…。


「あ」


 まだ曲の余韻でぼんやりしていたのか、まとめようとしていた楽譜が英生の手から落ちて床に広がる。慌てて拾い上げようとするピアニストの子供っぽい様子に微笑んで、リャービンは足元の楽譜を拾い、差し出す。


「あ…ありがとうございます」


 英生の頬は演奏の余韻を残してかほんのりと赤い。近ごろ特にひどく顔色が悪くなっているのが気掛かりだったが、彼にはどんな薬より素晴らしい演奏が良薬になるらしい。まだ演奏の中にいるかのような、そんなうっとりと濡れたような黒い目をしている。


「素晴らしい演奏だったね。ヴィクとあれほど弾ける人間は他にいないよ。僕が見込んだだけあるね、君は」


 ぱあっと晴れていく空のような心からの笑顔。自分の心をそのままに映す正直さ、気取りのなさは、英生の人となりなのだろう。


 こういう素直さを愛さない人間はいない。リャービンも英生の笑顔に思わずひきこまれるように微笑みかけていた。まったくミルティンはいろんな意味で、とんでもないピアニストを育て上げたものだ。


「心配していて…。本当は、もうだめなんじゃないかって思ってたんです。でも、友達がやってみろって言ってくれて。リャービンさんもそう言ってくださいましたよね。だから。有難うございます」


 素直な喜び。本当にあのふてぶてしくてわがまま、自分勝手なヴィクトルとたいして年も違わない男とは思えない。ヴィクトルはリャービンが最初に出会った十五才の時から、すでにこんな可愛らしさはかけらもなかった。きらめく才能を持ち、そして鋭い刃物のように鋭利な、魅力的な人間ではあったが。


 そう、たしかに英生には彼とはまるで違う魅力がある。この子供のような純粋さは、得難い音色になって彼の演奏を彩っている。ヴィクトルも自分と同じ様にそれに惹かれずにはいられなかったのだ。これほど違う個性を持っていながら、一つのものを織り成す事が出来るのは音楽の奇跡だ。あの至上の音楽を…。


「楽しみだね。コンサートが」


 嬉しそうに肯く英生の笑顔を見ながら、リャービンはこのすばらしい奇跡を作り出せる人間に対していつも覚えるかすかな羨望を感じる。自分には作り出せない、味わう事しかできないこの世界…。


 彼らはたとえようもない美を作り出すというその一点だけで、リャービンを捉えてはなさない。今、目の前で邪気なく子供のように微笑んでいるこの英生という青年にもまた、リャービンは強く惹かれるものを感じていた。

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