2 クナディン
くっつきあっているテーブルと椅子の回りを、両手いっぱいのソーセージや揚げ物を持ったウェイトレスが練り歩き、これ以上はもてないというほどのビールのジョッキを抱えたウェイターが器用に客に飲み物を配って歩く。
店は陽気な気分にあふれ、あちらこちらで歌声が聞こえてくる。安くて量も多くうまいここの食事は町の人間達からも愛され、いつも夜になると満員の盛況になる。
クナディンは顔見知りのウェイトレスに声をかけ、まんまと隅の席を確保した。そうして、英生の好みも聞かず、好き勝手にオーダーをだす。そしてひとまず配られたワインをうまそうにすすった。
「ビールよりワインだよ。それにこのソーセージがこのあたりでは一番うまい事を認めるにやぶさかじゃない。なあ、英生」
「うん、ああ、そうだね」
テーブルの上のワイングラスを手に持ったまま、口をつけようともせず心ここにあらずといった友人の反応に、クナディンはよけいな寄り道をせず、話を核心に進める事にした。
「やっぱり、難物なのかい? あのハーベイって奴。うわさ通りに」
きゅっとワイングラスを持った手が握り締められる。英生は言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「難物とかそういうのじゃなくて…。あの人は本当に、僕と一緒に弾きたいのかなって」
運ばれて来たソーセージの山を自分の皿に取り分けるついでに、一つ口に抛りこみ、クナディンはもぐもぐと口を動かしながら、フォークの先で友人を促す。
「二台のピアノのためのっていう企画はあちらからの申し出だったけど。後で聞いたところによると僕を推薦したのはハーベイさんの親しい友人の…」
「リヒテル・リャービンだろう? 評論家の。こうるさい奴だが、批評は的を得ていることもないわけじゃない。ま、他のアホどもに比べれば…だけどな」
盛大にマスタードを塗り付けた一切れをクナディンは英生の皿に放りこむ。
「うまいぞ。ほら英生、ぼんやりしてないで食えよ」
初めて気付いたように英生は自分の皿に視線を落とす。そしてやっとナイフとフォークを手にとるが、切り分けている最中からもう手はとまってしまう。
「本当はあの人、そういう企画、やりたくなかったんじゃないかな。リャービンさんが無理矢理に…」
「無理矢理なにかさせられるような奴かよ、あいつが。天才かなにかしらんが、わがまま放題。バックが世界最高といわれるオケだろうと、その演奏が気に入らなきゃ、いきなり企画を蹴っちゃうような奴だぜ」
ぐいとワインをあおり、ふぅと息を吐く。
「それに、なんだっけ…音楽界の貴公子だっけ? 花のかんばせってやつだ。輝く黄金の巻き毛に宝石のごとく澄んだ金茶の瞳だっけ。女どもが騒ぐこと、騒ぐこと。なにやったって、ハーベイ様ならいいの、だもんな。まったく、あいつほどその手の話題の多いピアニストは今時、ちょっといないよ。それでも見捨てられないのは、単に才能が有り余るほどあるからさ。この世界じゃ、才能さえあれば熊だって神様だしな」
「でも、だって、それなら!」
英生らしくもない強い口調にクナディンはちょっと驚いて、友人の顔を見つめた。その視線を感じてか、英生はきまり悪そうに下を向いてしまう。
「どうしたんだよ。ハーベイとの練習はやってるんだろう? もう確か二、三回は予定が入ってたじゃないか」
「練習なんてやってない。いつも、僕が弾くだけで…。あの人は冷たい目をしてそこにいるだけなんだ」
「そりゃ…また、変わった練習だな」
「それが練習ならね」
低くつぶやく声はひどく情けない。英生はかなり参っているらしい。
「僕が弾きおわるとぷいっと部屋を出て行ってしまうんだ。挨拶してもちょっと会釈するくらいで、言葉を返すでもない」
「…随分無口な奴なんだな」
冗談めかして言ってみたが、英生は笑うでもない。たしかに英生はこういう明確な他人からの無視や悪意には昔から極端に弱い。こういう時にこそ、親鳥を気取っているじいさんがしゃしゃりでるんじゃないか?
「ミルティンはどういってる?」
「先生は今、お忙しいんだ。ほら、ご自分のコンサートツアーの件で。今度はオケと一緒に世界各国をまわる予定だし。それに、今回は何も口を出さないって最初から決めていらしたんだ。そろそろ自分でやってみろって。相手は超一流の演奏家だからめんどうはないだろうって。だから練習にもみえないんだ」
英生はまたうつむいてしまう。
「心配はかけたくないんだ。だっていつかは一人でやらなきゃならないんだし。いつまでも迷惑かけられないし。コンサートも二度めになるわけだし」
「ははぁぁぁ」
これはとんでもない時に、子離れ、親離れを決意したもんだ。クナディンはため息をつく。
たしかにミルティンと英生は気が合うだけあって、二人とも浮世離れしたところがある。が、ミルティンは気難しいハーベイの相手を内気な英生が楽々こなすとでも思ったのだろうか。
確かに、英生は今にハーベイに匹敵するピアニストになるかもしれない。が、ほんの十一歳くらいの時からピアノ界のトップに君臨しつづけている天才ハーベイが相手なのだ。相手が悪すぎる。いや、良すぎるのか…。
どちらにしても、ハーベイと弾けるほどの腕を自分の弟子はもっているのだから、対等に付き合えるはずだとミルティンは単純に思ったに違いない。
どっか抜け落ちている芸術馬鹿ってやつだな…、友人の顔を見ながらクナディンはもう一度ため息をついた、ああ、まったく弟子が弟子なら師匠も師匠だ、いやこれは反対か…。
「練習にリャービンさんは立ち会って下さるんだけど…」
リャービンか…クナディンは評論家としての彼の文章を思い出す。非常に的確で公平な批評だった。腹のたつ批評家たちの多い中、確かに読んでいて「それじゃあ、おまえが弾いてみろ」と言いたくならない数少ない批評家かもしれない。そしてリャービンは十歳以上年齢も違うだろう気紛れな天才ハーベイとも親しいという。
「リャービンさんが言うには、最後まで聞いてるなんて珍しいって。練習も一応すっぽかさないで来てるし。やる気はあるんだっていうんだけど。やっぱり僕が下手だから…」
「おまえ、下手じゃないよ。自分でも知ってるだろ」
英生は首をふる。クナディンはため息をついた。この一見素直そうなお坊っちゃんは、実は外見に似合わず頑固者だ。自分で納得できなければ決して承知しない。特に…自分のピアノに関しては。
「おまえには理想があること知ってる。何度も夜中まで話したよな。おまえの母さんが古びたピアノをポツン、ポツンって片手で弾いてくれて、ピアニストでもなんでもない人の弾いたその音の澄んだ響き。その時感動したような…そんな感覚、それを表現したいんだ。そうだろ?」
英生の手にしたワインがかすかに揺れる。
「そりゃな、おれには早く死んじまった奇麗な母さんなんていないからさ、そんなロマンティックな理想なんてないけどさ。でも俺にだって理想はあるんだぜ? だけどね、そうそう実現できてたまるかよ! 実現できないからこそ理想なんだろーが。それができてなきゃだめだ!!って思い込みは、今、仕舞っとけよ。客観的にみて、おまえは十分立派なピアニストとしての実力はあるんだから」
英生は唇をかみしめて下を向いている。この友人は妥協ってもんを知らなすぎる。ともすれば自分を追い詰めてしまう友の性癖をよく知っているので、クナディンは話題をもっと当たり障りのない方向、今の問題点に移した。
「それにさ、リャービンのいう事なら一応信憑性はあるよな。ハーベイが練習に立ち会うのを許可するのはあのリャービンだけだって話だろ」
英生がかすかに肯く。
「なら信じてもいいと思う。ハーベイはおまえと弾く気はあるのさ」
「本当にそう思う? クナもそう思う?」
勢い込んで言われた言葉の必死さにクナディンは、この友人が眠れぬ夜に何度もこの疑問を繰り返し、そうして自分の力のなさを呪っていたに違いないと思う。ここまで自分を追い詰めて煮詰まるとは、英生はよほどハーベイと弾きたいのだろう。
たしかに無理もない、ハーベイはすばらしい技巧ときらめくような音色を持つ、現代最高のピアニストの一人なのだ。ピアノを勉強している人間なら、彼を無視することはとてもできないだろう。
が、なにか…。妙にチクチクするもの…、この英生の夢中さ加減にはちょっとクナディンを刺激するところがある。
だいたい音楽家というのは自分以外の才能が手放しで褒められるのを心穏やかに聞ける人種ではない。英生は自分がピアノを弾いていればそれで幸せ、自分と争うのは自分だけ。他人の事などあまり気にならないという珍しいくらいの幸せなピアノ馬鹿なので、そのへんの事がちっともわからないのだ。クナディンはちょっと英生の熱中に水をさしたくなる。
「ふふん。でも本当に仲がいいんだな、あのリャービンとハーベイってさ。あの傲慢の権化みたいなハーベイが批評家ごときと友達だとは思わなかったよ。まあ、恋人同士だったって噂もないわけじゃない。とくにリャービンのパートナーは女だけじゃないってのを聞いた事が…」
「リャービンさんはいい人だよ。僕みたいな駆け出しにも親切にしてくださるし、アドバイスもしてくださる」
鋭く断ち切るように英生はクナディンの言葉を遮った。それは、いつもの語るべき時にさえ口をつぐんでいる英生らしくもない行為だった。
確かにリャービンにはいろいろ世話にもなっているんだろうがそれにしても…とむかっ腹をたて意地悪く言い返してやろうとして、クナディンは英生の様子に気付いた。そむけられた顔、「つんと澄ました」と誰かが形容した表情。
…ああそうだった、とクナディンは思い当って思わず苦笑してしまう。こういう真偽のわからない噂話やつまらない嫉妬からでた悪口は、なにより英生は嫌いだったっけ。
そういう態度は、五年前、いきなりミルティンという大御所に気に入られた時の、回りからの心無い噂や中傷に傷ついたつらい経験からきているのだろうが。そして、そのためなのか、英生は常に音楽家達が三度の飯より大好きな「噂話」に常に不愉快だという態度を示した。それは、いつも同じ仕草、同じ表情、今のようなつんと澄ました顔。
「お高くとまっている」とそんな英生を嫌う人間もいたが、クナディンはいかにも英生らしい、変わらない子どもじみた「潔癖さ」を実は非常に気に入っているのだ。
「わかったよ。おれが悪かった。機嫌直せよ、正義の騎士どの」
眉をしかめてクナディンをみやり、ぷっと英生は吹き出した。クナディンは笑っている友人に仰々しく敬礼をして、おもむろに二つのグラスにワインを注ぎ直す。そして英生のグラスにカチンとあてた。
「乾杯」
笑いながら英生もグラスを持ち上げる。
「何にさ」
「さぁて。そうだな、おまえの将来にってのはどうだ?」
「そりゃ有難う。クナに祝ってもらえると心強いな」
「勿論! おれは将来、偉大なヴァイオリニストにして指揮者ってだけじゃない。世紀の作曲家になる男だぜ。そうだ、俺のピアノ協奏曲第一番のお披露目にはおまえを使ってやるよ」
「本当に? クナの曲を弾くのは愉しいから嬉しいな。でも、たしかこの前に作ってくれたピアノ曲は終楽章がまだきちんと出来てなかったよね」
「ああ、あれは…」
「あれ手直しするって言ったきり、楽譜返してくれないじゃないか。どうなってるんだい? あの曲大好きなのに」
「いや、だから…あれ…ええとぉ…。わかったよ! まずあれをちゃんと完成させるよ!」
くすくす笑う友人にクナディンは口元をにやりとゆがめてみせる。
「できないなんて思ってないよな。いいかい? いやだって言ってもぜーったい受け取ってもらうぞ! あれはお前のために書いた曲なんだから、お前以外が弾くなんてみとめないからな!」
笑いながらワインを飲み干す英生の頬に赤みが戻る。クナディンは五年前、同じ様に二人で食事をしながら、片言で必死に意志を通じさせようと悪戦苦闘した時のことを思い出す。
その時分かった事、それは初対面だった異国の少年は自分と同じ様に音楽に深く心惹かれ、その魔力に魅せられた人間だという事だった。あの時の、自分と同じ人間を、親友を見つけたというときめき、それは今も変りない。
「でも、本当に君と協奏曲やれたら素晴らしいな」
夢を追っているようなうっとりとした目でつぶやく英生の言葉にクナディンは力強く肯く。
「勿論、やるさ」」
そして、いたずらっぽい目を痩せて疲れぎみの友人に注ぎ、クナディンは言い足した。
「でもそのためにも、せっせと技術は磨いといてくれよ。俺が新作発表するんだぜ、そこらの学生楽団をバックに使ったりしないからな。どうせなら、シーバース説き伏せて最高のオケ使ってやる。その時にオケの連中から、あんな素人との共演は嫌ですなんて言われたくないからな」
「言ったな!」
声をたてて笑う英生は、先程の疲れ切ったような雰囲気をぬぐいさっている。クナディンは英生の皿に山とソーセージと野菜を積み上げ、しっかり食べろと促した。
「それじゃ、まずは腹ごしらえだ」
「…今日は本当に有難う。クナ」
あまりにも素直な感謝に照れてクナディンは英生の肩をバンとたたいた。
「いいってことよ! ほら、んなことよりもっと食えよ! 痩せこけると音質が悪くなるんだぞ。これ、ほんとだからな。 んじゃ、あとワイン一本、それに二皿追加だ」
皿を山ほどもったウェイトレスは通りすがりにOKとウィンクをする。クナディンはそれに手をひらひら振って合図を返し、それからおもむろに英生に向き直った。
「あ、それからな、言い忘れてたけど、俺、今日は財布からっけつなんだ。だからここはおまえのおごりな」
英生は顔を真っ赤にして吹きだした。