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音の獄 -終楽章ー  作者: 天恢 文緒
12/12

12 クナディン・リャービン・ヴィクトル・英生

 休憩時間に、ロビーは興奮した聴衆であふれた。さかんに皆で今の音楽について語り合っている。その中を英生はそっと楽屋の廊下に滑りでる。そしてヴィクトルの楽屋のドアに手をかけた時、後ろの暗がりから呼び止められる。


「英生!」


 いきなり英生は乱暴に向きを変えられ、大柄な男に抱きすくめられる。


「英生! 英生だ!」

「! クナ」


 強く抱きしめてくる友人に優しい包容を一度かえし、英生はゆっくりと身体を離す。クナディンはつかんだ手を放すと英生が消えてしまうのではないかと恐れるように、英生の腕をとる。


 英生はそんなクナディンを見上げて微笑む。それは英生の懐かしい笑顔だった。しかし、クナディンはその笑顔に昔と違うものを感じ取る。


「大丈夫なのか、英生」


 もう一度微笑みが応える。いつもの邪気のない笑顔ではない。


 それは優しく落ち着いて、教会で見たあの聖なる乙女(マリア)が浮かべていた柔らかい笑み。クナディンは腕をとっている友人が今にもはかなく消えてしまうような気がして、もう一度強く腕を握り、ゆする。


「帰ろう。ハーベイにおまえの居所を聞くつもりでここまで来たけど、おまえに会えたからもういいんだ。さあ、帰ろう」


 見上げた視線をそらさぬまま、そしてその微笑みも変わらぬまま、きっぱりと英生はクナディンの手をはずす。


「彼に…ヴィクトルに話があるんだ。どうしても話さなくちゃいけない。ごめん、クナ。一緒にはいけない」


 優しい柔らかい口調に、しかしためらいはない。クナディンは戸惑ったように英生をみつめる。


「じゃあ、待ってるよ。その…話が終わるのを。長くたって平気だよ。だから…」


 英生はうつむいて首を振る。そして、泣いているのかと思うような間。しかしもう一度クナディンを見上げた顔には涙はない。


「有難う、クナ。そういうふうに言ってもらってどれほど嬉しいか、きっと君には想像もつかないくらいだよ。だけどごめん。僕はもう、本当に一緒には行けないんだ」


 自分をまっすぐに見つめている英生の瞳には落ち着きとはっきりした意志がある。幼かった、いつまでの子供のようだったあの英生はもういない。


 クナディンの中で何かが崩れ、変化する。そう、英生にはもう自分の保護はいらないのだ。うつむくクナディンの腕に英生は慰めるようにそっと触れる。そしてその腕を一度ぎゅっと握り、クナディンから離れていこうする。


「英生!」


 振り向く顔、微かに微笑むその口もと、柔らかい視線は昔とかわらない。


「これだけは受け取ってくれよ。お願いだ。今は…もう嫌なだけかもしれないけど。でも、これ、おまえのためだけに作ったから…。だから…」


 問いかけるような顔をして英生はクナディンの差し出した封筒を受け取り、中を取り出し…。眼をみはった。


「これは協奏曲? ピアノ曲も…!」


 一瞬、あの子供のような輝く笑顔でクナディンに笑いかけ、英生はたくさんの手書きの楽譜を胸にかきいだく。そしてその好意をかみしめるようにそれに顔を埋めた。


 クナディンにもう一度向けられる表情には、感謝と愛情があふれている。そう、最初に彼に曲を作って送った昔と同じように。クナディンはこみあげてきたものを押し殺し、別れていこうとしている友に笑いかけた。


「おまえのためだけに作ったんだ。一度も演奏されなくても…それは英生の曲だよ。だから…おまえの好きにしてくれ。捨てたっていい」


 そして英生の答えを聞かずにクナディンはさっと身を翻し離れて行く。足早に去るその背中に英生は楽譜を抱きしめたまま、つぶやいた。


「演奏されるよ、クナ。これはちゃんと世界にでる。君のこの曲と僕の音楽は」




--------------




「英生?!」


 扉の所に立ち止まり、黒髪の青年は驚いているリャービンに微笑みかけた。


「英生、君は…」


 続けようとしてリャービンの言葉はとぎれる。


 それは最後にみた時の英生とはまるで違っていた。ぼんやりと放心して、夢見るような…そんな表情は今、かけらもない。まっすぐな視線、そして素直な見た人間の心を暖めるような微笑み。


 それはあのピアノを弾いていた時の英生だった。が、どこか…、リャービンは英生に今までとは違うものを感じる。そう、今の英生の回りには以前には感じられなかった凛とした雰囲気があった。


 英生はリャービンの戸惑い感じたのか、安心して欲しいとでも言うように、もう一度笑みかける。が、それも一瞬。すぐにその視線は吸い寄せられるように、求めるように、奥に座るヴィクトルに移される。


 ヴィクトルの手があがり英生に差し伸べられる。自然に重ねられる二人の手。見つめ合う顔。


 彫像のように止まったその一瞬、リャービンは気付く。彼らはよく似ていた。同じものの異なる二つの面のように。何から何まで違っているような二人なのに。


 驚きに打たれて見つめているリャービンを英生は振り向き、穏やかな調子で話し掛ける。


「彼と話があるんです。申し訳ありませんけれど二人にしていただけませんか」


 声には落ち着きと抑制が感じられる。ヴィクトルの家でのあの惑乱は今、影さえない。優しい微笑みを浮かべてはいるが、その威厳あるとさえいえる態度。リャービンは改めて英生を見つめる。


 彼はいつのまにこんなに強くなったのだろう、あの子供のようだった彼が。


 たしかにヴィクトルは許せない行為を英生に働いた。しかし、英生はそれをもう乗り越えている。


 そうしてふとリャービンは思い出す。ヴィクトルが言ったのではなかったか? 英生は強いと、誰よりも強靭だと。そう、彼はもはや同情も憐憫も必要とはしていない。今、確かにここを支配しているのは他の誰でもない、英生だった。


 リャービンは自分の中に巣食っていたわだかまりが溶けて行くのを感じる。澄んだ笑み、そして抑制の中に、静かな落ち着きを宿す英生はヴィクトルの言った通り、端正で凛とした彼の音楽そのものだった。


「君のいう通りにしよう、英生」


 リャービンは心の底から湧きあがってきた安心感に微笑んだ。


 こんな胸の奥が暖かくなるような笑みを自分が最後に浮かべたのはいったいいつだったろう。リャービンは部屋を出ようとして、ふと英生の手にある楽譜に気付く。


「それは…」


 リャービンの視線をたどり、英生は頬をほころばせた。


「ええ。クナに会いました。だから…大丈夫なんです」


 そして英生はリャービンに感謝するように微笑みかける。


「有難うございます。あなたも…クナも。本当に」


 リャービンは微かに頷き、そうして静かに扉を閉めた。




--------------




 ヴィクトルは英生が部屋に入ってきた瞬間から彼しか見ていなかった。


 ヴィクトルにとって英生の存在は美しい音楽と同じだった。その微妙な音の移り変わり、音色の揺らぎは常にヴィクトルを惹きつけてやまない。


 子供のように純な面持ちの英生も、喪失の痛みを知った彼も、憎しみの炎を冷たい氷のような無表情に隠した彼も、その美しさは比類がなかった。しかし今、ここにいる英生は今までで一番美しい。それは疑いもない。


「桟敷にいたね。舞台から君が見えた」


 ためらいもせず、まっすぐにヴィクトルを見つめてくる黒い瞳。それは今までの突き刺すような視線ではない。


 そして今、英生は自ら望んでヴィクトルの側にいる。今朝までは考えられない事だ。だが英生はここにいる。ヴィクトルの手を取り、少し哀しげだが柔らかく澄んだ笑顔を見せて。


 音楽が旋律という美しい軌跡を残して常に変化するように、英生もまた変わっていた。かすかな痛みのようなものがヴィクトルの胸をよぎる。それは喜びなのか、それとも悲しみか…。


 英生はそんな惑いを相手の中に認めたのか、ヴィクトルの指を自分の傷ついた手で包み込むように優しく覆う。


 暖かい手。


 ヴィクトルは自分が冷酷に傷つけたその手の暖かさにたじろぎながらつづける。


「君は蒼白な顔をして…。そして、とても綺麗だった」


 そう、凍り付いた表情。追い詰められた美しい獣のような無表情な必死さ。ヴィクトルはつい先刻まで英生と共にあったその表情を思い出す。危険な美しさ。自分が追い詰めてしまった美しい生き物。復讐の機会をねらう囚われの気高い獣。そんな英生をヴィクトルはどれほど愛しく思った事だろう。


「今夜は君のために弾いたんだ」


 今、英生の微笑みは暖かい。が、そこには今までどんな瞬間にも英生が持っていたあの表情の微妙な揺らぎがない。


 ためらうような、迷うような揺らぎ。どこかよるべない幼さを思わせるそんな瞬間が常に英生にはあった。心を隠そうとしていた時も、ヴィクトルはその揺らぎの中から英生の心をつかみとっていた。


 それなのに今、英生のこの穏やかさには欠けるものがない。この新しい変化はヴィクトルを不安に陥れる。ここにいる英生はヴィクトルに心を覗かせない。その穏やかな表情を見上げ、ヴィクトルはそれに亀裂を作る言葉を捜す。


「なぜ撃たなかったんだ?」


 霞むような笑みがその言葉への答えだった。瞬間、ヴィクトルは貫かれるような鋭い痛みを感じる。


 笑み? この事実に英生が微笑む?


 今までの彼からは想像もつかない。ヴィクトルはこんな英生を知らなかった。今、ここにいるのは彼の知っている英生ではなかった。ヴィクトルの心に恐怖に近い感情がわきおこる。


「何を考えているんだ、英生…」


 その動揺を宥めるように、英生は自分をみつめている男の乱れた髪をそっと撫でつけようとする。憐れみとさえ言える色を湛えるその瞳。英生の瞳に現れてたその表情は、ヴィクトルの胸の奥深くに鋭くつき刺さる。


 その痛みに突き動かされるように、自分がつけた傷あとも生々しいきゃしゃな手をヴィクトルは乱暴につかんで引き寄せた。そしてはかなく見えるくらい痩せてしまった身体ごと、じれたように思い切り揺さぶる。


 英生の細い手首は乱暴なその行為にみるみる赤く色を変えていく。がくがくと揺さぶられながら、しかしその力ずくの行為に英生は逆らいもしない。ヴィクトルはその柔順さに対するいらだちに、思わず片手を振り上げ英生の頬を打とうとし…、はっと、我に返った。


 自分は今、英生を傷つけようとしていた? また?


 その事実にぞっとして、つかんでいた手を離す。瞬間、英生はくず折れるように、ヴィクトルの足元に倒れ込んだ。


「…英生…!」


 自分の思いがけない激情に愕然として、ヴィクトルは慌てて英生を助け起こそうする。手に伝わる細い腕の感触。自分の手の中にある手首の赤いあと。そしてその手に走るまだ生々しい傷跡。


 倒れ込んでいる英生をヴィクトルは抱き寄せる。相手のきゃしゃな身体を痛いほど意識しながらヴィクトルは、壊れ物を扱うようにこわごわと腕に力を入れた。


「すまない。君を傷つけるつもりはなかったんだ。本当だ。君をこれ以上傷つける事は決して…」

「わかっているヴィクトル、大丈夫だから」


 乱れた息を整えながら英生はヴィクトルの肩に頭を寄せ、身体をその腕の中に預けてくる。


 自分を傷つけた人間をすら許し、信頼するその態度。幼子のように無防備なそんな英生の中に、ヴィクトルは最初に彼の音楽を聞いた時の衝撃を重ね合わせる。


 他人を信じきっている、愛する事だけを知っているような純粋な音色。英生自身の中にある魔性も、他人の心に欲望をかきたてる事も分かっていなかったその音楽。優しさと純粋さに満ちていて、が、決して本当には他人と交わろうとしていない、処女のような無意識の潔癖さ。


 しかし今は…そう、英生の瞳は昔と同じ様にまっすぐで澄んでいる。が、そこには今まで決して見ることがなかった落ち着きと穏やかさに満ちた深い共感がある。


「英生。君は…」


 ヴィクトルは英生と出会った最初から、いやそれ以前から変わることはなかった。完成された音楽性。緻密で豊かな音楽。勿論上達はしたし、洗練され磨かれてもきた。しかしヴィクトルはいつまでもヴィクトルでしかない。


 が、英生は? 英生は変わってしまう。陽光が時とともに変化していくように、音が旋律を紡ぎながら無限に変化するように。軽々と舞う伝説の生き物のように彼は変わっていく。想像も出来ないくらいの美しさと共に。


 そう、たぶん、それが英生の本質なのだろう。だからこそ、こんなにもひかれた。どうしても自分の手に入れたかった。欠けていた半身。地に繋がれている者の憬れ。ヴィクトルは苦しそうに英生から顔をそらした。


「どうしてだ。英生。どうしてそうやって私の手から逃げてしまうんだ。やっと捕まえたというのに。そうやって微笑むだけで、また私のものではなくなっている。捕らえたと思っても、そこにはいない。変わりつづける。私が追い付けない程に。こんな…」


 とぎれる言葉。


 なんと似ている事だろう、英生は思う。ヴィクトルに決して追い付けないと思ったのは自分ではなかったか。そして今、彼が同じ事を嘆く。


 英生はゆっくりとヴィクトルの頬に両手を添える。そうしてその頭を自分の胸に抱き寄せた。自分達は似ている、音楽に対する思いだけでなく不安さえも。まるで二つの身体に分けられた一つの心のように。英生はしっかりと自分の胸にヴィクトルを抱き寄せた。


 穏やかに聞こえてくるのは英生の心臓の鼓動。そのタキシードの胸に挿してある花の柔らかい香り。ヴィクトルを抱き寄せているのは細い腕、しかしそれはなんと力強いことだろう。ふぅっと不思議な安堵感がヴィクトルを包みこむ。今、英生は確かにここにいて、自分と心を一つにしているのだ。


「心配しないで。僕は君と一緒だよ。君に音楽がある限り。僕たちは一緒だ」


 英生はヴィクトルの輝く髪に頬を寄せ言い聞かせるようにそっとつぶやく。言葉は染み入るようにヴィクトルの心を潤す。底知れぬような暖かさに包まれ、ヴィクトルは今までのどんな瞬間より英生と一つだと感じる。自分が待っていたのはこの瞬間だったのだろうか。何よりも望んでいたのは彼と一体になることだったのだろうか。


 失われていた半身。今、ヴィクトルは英生の中に安らぎを見る。この瞬間、ヴィクトルは他に何ひとつに求めるものはなかった。


 現実に立ち戻るような廊下からの慌ただしい物音。せいているような声が外からかけられる。


「十分前です! ハーベイさん。舞台にお願いします。ハーベイさん?!」


 英生はゆっくりと顔を起こした。その瞳には凛としたものが宿る。英生を抱きしめたまま答えようとしないヴィクトルの代わりに、英生は声を返す。


「大丈夫です。今、行きます」


 英生はヴィクトルの肩に手をかけ抱擁をとく。そうして、その手を取り立ち上がった。ヴィクトルはじっと英生の眼を見つめている。


「行って。さあ」


 首は横に振られる。


「行って。君は音楽を捨てる事なんて出来ないはずだ」


 ヴィクトルは「音楽」というその言葉にたじろぎ、ためらうように英生から視線をはずした。英生はその乱れた髪を手ぐしで整えてやりながら、自分の方にヴィクトルの顔を向ける。


「行って。僕はどこにもいかない。君のそばにいる」


 掠れるような声がヴィクトルの口からもれる。


「本当に?」


 英生は微笑んで自分からヴィクトルの唇を求める。初めての求愛。溶け合うような長い接吻のあと、英生はヴィクトルの耳元で笑う。


「弾いてくれなきゃだめだ。今夜は僕のために弾いてくれるはずだろう?」


 声に混じる明るさ。ヴィクトルの英生を見つめる。


「アンコールの曲をリクエストしてもいいかい?」


 その顔に浮かぶ悪戯な表情にヴィクトルの口元もほころぶ。英生はそんな相手の目に承諾の印を見て本当に嬉しそうに笑った。すぐに身体を翻して急いでクナディンのピアノ曲の楽譜を探し出す。そして子供がお気に入りの宝物を見せるように、勢い込んでヴィクトルにそれを差し出した。肩をくっつけるようにして一緒にのぞき込む英生のその一生懸命な様子。


 先刻のすべてを包み込むほどに大きかった落ち着きと穏やかさから、英生は瞬時に子供のような好奇心と純真さをもつものへと変化する。きらめきながら変わって行く旋律のような鮮やかな変化。ヴィクトルは思う、どうして彼に惹きつけられずにいられるだろうか。


「これはとても終楽章が奇麗なんだ。僕が大好きな曲。君なら初見でも演奏できる。ね、弾いてくれる?」


 ヴィクトルはその楽譜に一瞬、ピアニストとしての眼を走らせる。


「たしかにいい曲だ。少々アンコールで弾くには難曲ではあるけれどね。…そして、これは君のための曲だ」


 ヴィクトルの言葉に英生は彼を見上げ、楽譜を持つその手に自分の手を重ねる。


「だから君の曲でもある」


 見つめてくるまっすぐな視線、暖かい手の温もり。寄せられた身体から英生の信頼が伝わってくる。


「君の望みなら弾く。君の望みなら何でも」


 ヴィクトルは言ってしまってから、まるで十代の少年のような自分の言葉に少し照れたように笑う。そして英生の肩を素早く抱きしめ、それを手にさっと部屋から出て行った。


 開け放たれた楽屋の扉から聴衆の期待に満ちたざわめきが聞こえて来る。英生はその音を背中で聞きながら、静かに扉を閉めた。微かに聞こえる熱烈な拍手。音楽がはじまる。その一音、一音を味うように英生は眼を閉じる。今のヴィクトルの笑みとともに、音楽は英生の心に切なく響く。


 本当に君を愛している、君が思うよりずっと。英生は思う。


 君をどれほど愛しく思っているか、僕が君にしてしまう仕打の後にも君はわかってくれるだろうか。僕が君の思いをわかったように、いつか君も僕を理解してくれるのだろうか。


 音楽の魔性。それの虜となった人間の残酷さ、それでも君を思っているこの想いを分かってくれるだろうか。


「僕は君と一緒だ、ずっと。本当に」


 ここにはいない人間に語りかけられる言葉。


「…でも、僕はいかなくちゃならない」


 英生は深く目を閉じる。


 どれだけ苦しいだろう。どんなに傷つくだろう。ああ、でも、君は一人でいかなくちゃならない。誰も助けられない。僕でさえ。


 …いや僕が君の側にいれば君はここから動けない。


 君は僕のために今のこの音楽を弾き続けるだろう。二人が一つになった音を。

 僕の求めていたあの音楽を。


 ああ、君は、一人で歩くんだ。もう僕は君の中にいる、残すところなどない程に。


 僕達はもう一緒なんだ、ずっと、永遠に。君が音楽を追う限り…。


「僕は君のそばにはいられない。この音楽にとって僕はもう邪魔にさえなる」


 そう、僕は逝かなくてはならない。どれほど君が恋しくても、君を愛していても。


 楽屋を後にする英生の後を追うように音楽だけが静かに響く。澄んだ空気のようにそれは英生を包み込み、歩みをはげますように回りを踊る。


 弾いている人間の思惑さえ越えたその音。


 時をこえ、生き、成長し、変化しつづける、死すら手をふれることができない音楽という魔。


 そして…


 君は先に進む。僕の理想の具現のこの音楽のその先に。


 君にしか聞えない音を追って。僕と君が溶け合ったこの音楽を糧にして……。


 君にしか行き着けない場所をみるんだ。世界で唯ひとり、君だけが。


 英生は眼を開ける。凛とした厳しさを持つその表情。


「ヴィクトル…」


 君と、そして僕も、この音楽という魔に選ばれた。ここから逃げる事は出来ない。そして、それこそ僕たちの望んだ事。それがどんな結果を生もうと、それは自分達が選び望んだ「幸せ」なのだ。


 微かに聞こえるアンコールを求める聴衆の熱狂的な拍手。しばらくして再び聞こえて来る彼の音色。それはあの終楽章。がらんとした楽屋がその音楽の繊細で高貴な旋律によって満たされる。この世でただ一人のために奏でられる音楽。


 それは、広がり、響き、たぶん生きるものすべての上に、時さえ越えて降り注ぐものになる。


 英生は上着の隠しにあった銃をそっとさわり確認する。先程の冷たさを微塵も感じさせず、手に銃は優しく馴染む。奏でられる音はまわりの空気を澄み切ったものにかえている。英生はゆっくりとホールの扉をあけ外にすべりでた。


 町の喧噪。しかし、英生の中には、まだ音楽が響き続けている。ホールを囲む森のような公園には、今、人通りがない。その中の、ひときわ大きな樹に背をあずけ、響いては消える音を追うように、夜空を見上げた。


 一面に輝く星。見上げるすべての人を魅了する、その光…。


 星を見上げたまま、胸元から銃を取り出し、英生はゆっくりとこめかみにあてがった。

 ふっと閉じられる眼。 唇には微かに笑み。



 ああそれでも。



 僕は聞いてみたかった。



 君の行き着く果ての音。






-------------- 了 --------------

長い話を読んでくださり、ありがとうございました。

暗い部分が多い話でした。最後までお付き合いくださり、感謝します。

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