11 英生・クナディン
オーケストラの音にピアノが混ざり、そうして高く、低くそれらを越え、従えて旋律を紡ぐ。
決して大きくはないのに隅々まで響く音色。ヴィクトルの音楽だった。聞き慣れた、しかし強い魅力をいつまでも減じないその音色。大胆で色彩豊かな解釈の彼の音楽。
英生は思い出す。最初にヴィクトルの演奏を聞いたのは、まだ日本にいる時だった。CDから流れて来るその音。
回りの人間達の指摘するまだ十五才にもならない少年の達者な技術より、英生はその心を掴む表現に驚いた。鮮やかな表現。美しい音色。それらを自在に繰る感性。今、それは磨きをかけられ、聴衆の心をこんなにもつかむ。
こんなに美しいものを表現し、作り上げられる人間が…、英生は眼を硬く閉じる。彼ほど悪い人間だなんて…。
ふっと音がとぎれ一楽章が終わる。あたりを支配していた緊張がゆるむ。英生は握り締めていた手のこわばりを解き、ジャケットの隠しに手を入れる。そうして黒く光る銃をゆっくりと取り出した。
ずしっとしたその重さを意識した時、二楽章、アンダンテの最初を示すように、指揮者の手があがる。
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一音めから、その音は水際だっていた。
今までとはまるきり違うその音色に、聴衆にため息のようなざわめきが広がる。それが奏でられた瞬間、クナディンは凍り付いたように舞台のピアニストを見つめる。
信じられないがこれは英生の音だった。透き通る純粋で無垢な響き。生硬く思えるほど端正で高貴な音。自在に変化する色彩豊かで豊潤なハーベイの今までの音とは根本的に違っていた。
横で椅子のきしむ音がして、クナディンは隣でリャービンもまた非常な驚きに打たれているのを知った。しかし問いかけようとした声がとまったのは、曲につれて変化するその音色のせいだった。
視線が再びピアニストに戻る。クナディンは疑問も懸念もかき消すような、思考そのものを吸い取ってしまうようなその音楽にいつの間にか惹き込まれていた。
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ヴィクトルの音色は万華鏡を見るように変化する。
勿論分かっていた。そうしてそれは英生だけが聞いていた、あの日の午後の音楽になるはずだった。織りなす綾の音色に。彼が英生を滅ぼしてまで手に入れたあの音色に。あの二人の音楽に…。
空間を満たすその美しさに英生は唇をかみしめる。この美を紡ぎ出す者になりたかった。出来うることなら…、そう、僕は…、この音楽を産み出す者になりたかったんだ。
ライトに照らされた舞台の人はこんなにも遠い。ああ、それなのにその決して越えられない深い溝を越えて、それでも聞えてくる君の音。こうして。すぐ耳の側で。まるで息さえかかる近さ、その鼓動が聞えるほどに。
英生は息をとめ、ゆっくりと銃を持ち上げる。消してしまおうこの音を。ヴィクトルの、そして自分の醜い心が産み出した音楽。一度だけ現れ、消えることが運命だった音。
その時、ふっと音楽は終楽章に入り曲想が変わった。引き金にかけた指に震えながら力を込める。が、次の瞬間…。
ヴィクトルによって奏でられた最初の音は…。
…ね、英生、奇麗な音色でしょう?…
おぼろげな記憶の果てにある夢の音。まさに英生がずっと追い求めてきたその音色、そして追っても追っても追い付かないその音色だった。
幼い時に亡くした母を思うときに感じる英生だけが持っている漠然としたイメージ。それを砥ぎすまし、高め、いつかこんな音楽が表現できたら…と、英生がピアノを弾き続けながら理想として追い求めていた夢の音。
美しくて高貴、なのにひどく深いところで官能を揺さぶる音。透明でありながら豊潤、いつか胎内で聞いたような、そんな血肉に染み込む逃れようもない血潮にも似た波の音。懐かしさのある、しかしまだこの世には現れたことのなかったはずの音楽。
ふっと力が抜け、かすかな音と共に銃は絨毯の上に滑り落ちる。
ヴィクトルはどうしてそれを知ったのだろう。英生の心の中にしかなかったその音を。英生の夢見ていたものを。
二人で奏でたただ一度の音。それを越え、その先に広がる世界を彼は見つけていた。英生一人では見つけられなかった世界を。
舞台の上のピアニストは音を紡ぎ続ける。それらは見えない糸のように英生の回りを取り囲み、柔らかく美しい繭のように英生を、そしてその紡ぎ手を閉じ込めていく。
音は酷いまでに優しく、それでいて猛々しく、身体のあらゆる部分、指先、髪の毛の一本一本にいたるまでしみ込む。乾ききっていた大地に降り注ぐ雨のように、音色は英生の心にしみとおる。語りかける。たった一つの真実を。
一つになってしまいたい。
溶け合ってしまいたい。
あなたと。
あなたを形作っているその世界すべてと。
英生はむごく甘い罠が今、自分の回りで閉じた事を知る。
ここは牢獄だった。
美しい音色で作り上げられた牢獄。
決して切れない鎖で英生はここにつなぎとめられたのだ。でも…英生は思う。自分はそれを望まないと言えるだろうか。この音の獄につながれたくないと思っているだろうか。英生の唇に哀しそうな笑みが浮かぶ。答えは分かっていた。
そう、たぶん自分の追い求めていた音色、音楽がこうしてこの世界に現れるにはこれしか方法がなかったのだ。自分が恋い、追い求めていた音は、決して英生一人ではつかまえられなかったのだから。同じように、ヴィクトル一人にも。
この音楽は奏でられるために二人の人間を必要としていた。それ自体が意思あるもの、生あるものように。この狂おしいほどの愛を奏でる音楽は、自分だけでなく、ヴィクトルをも望んだのだ。
そう、それなら……、英生は痛みに似た想いで静かに眼を閉じる。
最初に獄につながれたのは彼とは言えないだろうか。この美しくむごい音の獄に最初からずっと閉じこめられていたのはヴィクトルだったのではないか。
舞台に輝く華やかなライト。厚いオーケストラの音を従えて君臨する王者の風格。聞く人間すべてを支配するその美しい魔性の音楽。奏でられる音は降りそそぐ雨のように英生を打つ。
ごめん、ヴィクトル。
僕こそ君を巻き込んだんだ。求めるものをこうして実現するために、知らぬうちに君を獄につないだのは僕。
でも僕がどうしてこの音楽に逆らえるのだろう。この苦しいほどに美しい音楽。これを奏でるためなら僕はきっと同じ事を何度でもするだろう。
ああ、僕も君も、音楽のためにならなんと残酷になれるんだろう。でも、この激しい音楽への思いを通してこそ、僕達は誰よりも深くつながっている。僕達のこの絆、これを何と呼ぶのか…僕は知らない。
音は語る。波がくり返し寄せるように、何度も何度も。二人の音楽に対する想い、ヴィクトルの英生に対する想い、そして自分の持っていたヴィクトルへの嫉妬、それらすべては結局、この音楽を豊かにするための糧、彩るモザイクでしかない。
聴衆は静まりかえり、引き寄せられるように聞き入っている。
これほどの美しさにどれほどの残酷さが隠されているか、無垢な音にどれほどの苦さが混ざっているか。
たぶん、そう、そんな事はどうでもいい事だった。
英生は微笑む。それは美しかった。たとえようもなく美しかった。
次回で完結になります。




