10 クナディン・リャービン・英生
「リャービンさんですね」
ロビーで声をかけて来た青年にリャービンは振り向いた。この大柄な青年にリャービンは見覚えがあった。
「君は…ええと」
「クナディン・グリュミオーといいます」
そう、たしか、一昨年度のヴァイオリンコンクールで一位になった青年だった。そうして、同時に作曲部門でも十代で賞を獲って評判になった…。
「そして岡崎英生の友人です」
笑いかけようとする笑顔が凍り付く。リャービンは動揺を隠すためにプログラムに眼を落とす。クナディンと名乗った男はよほど性急な性格の持ち主なのか、自分の心に囚われているからか、リャービンの動揺に気付かなかったらしい。畳み込むようにリャービンに話し掛ける。
「英生を知りませんか。どこにいるのか、知りませんか」
「どうして私が知っていると思うんだね」
「だって、あなたは…」
つまる言葉。リャービンは男を見上げる。大きな身体をしているが、やはりまだどこか子供っぽさが残る表情が内心のためらいを映している。
「だって、あなたはハーベイの友人だ」
背筋に冷たいものがはいよる。リャービンはあの時以来、ヴィクトルとは交友を絶っているような形になっているが、やはり、彼をかばいたい衝動を押さえる事はできない。
「ヴィク…ハーベイとは友人だが。その…英生は…」
「見たんですよ。ハーベイと一緒にいる英生を。つい一昨日の事だ。あれは確かに英生だったし。車のそばに立ってたのはハーベイだったと思うんだ」
急き込むようにクナディンは語る。そうしてじれったそうにリャービンの腕に手をかけた。
「お願いです。あなたは知らないかも知れない。でも、絶対ハーベイは知ってます。だからお願いです。楽屋に案内して下さい。彼に直接聞いてみたいんだ。英生がどこにいるか。彼なら知ってるはずなんだ。だって一緒にいるのを見たんだから!」
大きくなってしまった声にロビーにいる人間達の視線が集まりはじめる。リャービンはクナディンの手を優しくはずし、無理矢理笑いかける。
「とにかく今は時間がないよ。開演までもう少ししかない。そうだ、君、席はどこだね」
確かに開演までの時間がなさすぎる。クナディンは勢いをとめられ、ちょっとたじろぐ。そうしてあわててポケットをさぐり、チケットを確かめた。
「えっと、あの…その…たしか後ろのほうかな」
「今日は桟敷のある劇場での演奏会だからね。私の席に招待するよ。そこでなら話もできるだろう? ここでは…眼を集め過ぎるしね」
クナディンはリャービンを一瞬、値踏みするように眺め、決意したように肯いた。
「ご招待、お受けします」
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「お客様、開演五分前になっておりますので…」
会場を案内する係りの声を背に英生は扉を締めた。たった一人だけの桟敷席は暗く、グランドピアノが置いてある舞台の方向だけが明るい。
英生はゆっくりとバルコニーに近寄り、カーテンに手をかけた。オーケストラが音合わせをはじめる。まだがらんとしたピアノの椅子。すぐに光輝くそこに彼が…。
タキシードの内に隠している冷たい塊が英生を息苦しくさせる。感触を確かめるようにそっとそこに手を当ててみる。
拳銃。命を奪うことのできる冷たい塊…。
大きく一つ息を吐いて英生はカーテンの影の柱に寄り掛かった。息が苦しかった。英生はぐったりと柱に寄り掛かり、必死に呼吸を整える。何度も深呼吸をし、落ち着くように自分に言い聞かせる。
恐いのだろうか、英生は考える。これからやろうとしていることが? それとも…。
満場の拍手が聞こえ、英生ははっと顔をあげる。ステージには金のライトを浴びて指揮者と、そしてヴィクトルが立っていた。英生はとっさにカーテンの影に隠れる。
指揮者が指揮台に登り、ヴィクトルはいつものように傲慢とも見える軽い一礼を客に向かって与え、さっとピアノに向かった。
拍手は鳴りやむ。
空白の一瞬。
英生はカーテンを握り締め、次の瞬間を待ちわびる自分に気付く。そんな自分の心に戸惑う前に、オーケストラの最初の一音は奏でられはじめる。
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「見たって? その…英生を?」
音楽に引き寄せられるようにバルコニーから身体を乗り出すようにしていたクナディンは、その声に振り向く。
「ええ。一昨日。英生は青い車に乗っていた。たぶんあれはハーベイの車なんじゃないのかな。彼は青い車に乗ってませんか」
質問に答えず、リャービンは小さな声で確認するようにつぶやく。
「英生は友人なんだね」
「そうですよ。あいつが最初にここに来た時からの友達だ。あいつときたらいつまでも幼くて、心配ばっかりかけて…。今度の事ではミルティンなんか、みんながどうにか説得しなきゃツアーをキャンセルするところだった。どこに違約金を払う金があるっていうんだろう、あのじいさん。まったく!」
「あの方が…そこまで」
クナディンは真正面からリャービンを見据える。
「お願いです。英生の居所を知っているのなら教えて下さい。知らないのならハーベイに会わせて下さい。彼なら英生の居所を絶対知っているはずなんだ。早く英生を見つけたいんです」
まっすぐな真摯な凝視を浴びて、リャービンは居心地悪げに身体をずらし、プログラムに眼を落とす。
「…今日のプログラムでは、途中の作品にはヴィクトルは入っていない。その間に楽屋へ行ってみて君に会ってくれるかどうか聞いてみてもいい」
クナディンの顔がパッと明るくなる。
「有難うございます!」
リャービンはためらうようにその顔をみつめ、言い継ぐ。
「しかし…どうするんだ、見つけて? 彼がどうなっていると思って…。いや、その…」
「見つけたあとの事はほんとはあまり考えてないけど…。とにかく元気になるまで一緒にいてやります。その…彼が望めばだけど」
英生が失ったもの、音楽を思い出させる自分をそばにいさせてくれるだろうか。それが慰めになるのだろうか。不安の色がクナディンの顔に現れる。が、リャービンの同情するような視線に気付き、ついと顔をそらせた。
「それに約束してた渡すものだってあるんだ」
「渡すもの?」
「ええ」
一瞬泣きそうに顔を歪ませ、クナディンはあわてて舞台に向き直る。そうしてそれから彼はもう振り返らなかった。




