5.とまどう心
「仕事とは、一体何をなさるおつもりなのですか?」
ルチアがそう尋ねると、ルークは内緒、と人差し指を口元に当てて微笑んだ。
穏やかな表情なのに、それ以上は言及するなという警告を示すような瞳。ルチアは口を噤んだ。
「聞き分けの良い奴は嫌いじゃない。まぁ、その時が来るまではリラックスしてて構わないから」
そう言い残し、部屋を出て行こうとするルークをルチアは慌てて服の裾を掴んで引き止めた。
「あっ、貴方は……一体」
何者なの? と聞こうとしたルチアの口に、ルークの人差し指がそっと蓋をするように触れた。
「あんまり騒ぐとその口、塞ぐぞ」
そう耳元で囁かれ、ルチアの心臓がどくんと大きく波打った。頰は一瞬にして熱を持ち、まるで林檎のように赤くなった。
甘い囁きのようでいて、脅しともとれる不思議な声音が、耳に残って離れない。
ルチアは胸元に手を当てながら惚けたように立ち尽くし、ルークが出ていくのをただ見つめていることしかできなかった。
★
応接間での会話の後、ルークはルチアを見つめることを、すっぱりとやめた。以前は食い入るように見ていたのに。
喜ぶべきことなのに、何故か心がもやもやする。まるで心に霧がかかってしまったみたいで落ち着かない。
ルチアはレオンとの食事後、ぼんやりと部屋で外を眺めていた。
──変ね。折角一人ではない、暖かなお食事ができたというのに、どうしてこんな気持ちになるのかしら。
食堂での食事は生まれて初めてのことで、とても素晴らしいものだった。
レオンと二人、長いテーブルに腰をかけ、運ばれて来る料理に舌鼓を打った。食事中なので会話こそ少ないものの、一緒に食べる人がいるということがどんなに料理を美味しくするのか思い知らされた。
メイドは始終震えていたことを除けば、それはそれは素晴らしい食事会だった。
食器を落とさないようにと必死になっていたメイドのことを思い出し、申し訳なく思いながら、ルチアは星を眺めた。
星は好きだ。真っ暗な夜が寂しくないように、灯りを灯してくれているみたいだから。
だから星よりもずっと大きくて明るい月はもっと好きだ。満月まであと三日ぐらいだろう。満月が、今から待ち遠しかった。
ふいに、ルークの瞳を思い出す。海のようだと思ったけれど、夜空にも似ている気がする。あの目で見つめられると、心臓が掴まれたように苦しくなる。何故なのだろう。
★
レオンは翌日、王都へ出向くために外出をするのだそうだ。
この屋敷からは、そんなに大きくはないが、森を抜けなければならないため、レオンは朝早くに出発することになった。
ルークもついて行くのだろうと当然のように思っていたルチアは、何故かレオンの見送りの際に隣に立っている彼を見て、大いに驚いた。
「えっ! どうしてルーク様が?」
「どうかなさいましたか? ルチア様」
丁寧な口調と物腰柔らかな態度に違和感が拭えず、ルチアの顔は引き攣った。
でも彼に名前を呼ばれたことが、思いの外嬉しくて、心が少し晴れるのを感じた。
「あ、あの。よろしいのですか? レオン様と一緒に行かなくて」
「心配には及びません。従者は私だけではありませんし、王都に出向くならば、それなりの身分の者でないと。私は腕っ節には自信がありますが、まだ護衛になったばかりで未熟ですし。それに……」
じっと見つめられた。深い海のような、夜空のような美しい双眸に、引き込まれそうになる。
「それに?」
「ルチア様、ご無礼は承知の上でお願いします。このお屋敷の庭を案内してはいただけませんか?」
「えっ」
ルチアは慌てて周りにいたメイド、執事、そして父上の側近の顔を見た。
誰も反対するものはいない。それもそのはず、ルチアが閉じ込められていることは、レオンとその従者たちには内緒だからだ。
「……無理に、とは言いません。差し出がましい真似をしてしまい申し訳ないないのですが」
「します! 是非! 案内させてくださいっ」
ルチアは必死に大きな声で返事をした。
外に出られるのだ。自由に歩き回ることができるのだ。このチャンスを逃すわけにはいかなかった。
ルチアの返答に、ルークはにっこりと微笑んだ。不思議と、その笑顔はとても自然なものにみえた。
★
屋敷の庭はとても広く、美しい花が咲いている。
ルチアは、一歩一歩を大切に踏みしめて歩いた。草の上を歩くのは久しぶりだった。少し前に男爵とともに歩いたが、あのことはもう思い出したくなかった。
ルチアがゆっくりと歩いているのに、ルークは先へと進んで行くことはなく、歩幅を、スピードを合わせてくれていた。
「随分と、大事に、噛みしめるように歩くんだな」
口調が戻っている。そのことに、何故かルチアはホッとした。その方が、彼らしいと思ったからだ。
「え、ええ……まぁ」
彼はルチアが閉じ込められ、外に出られないことを知らないはずだ。
怪しまれてはまずいと少し歩きをはやめた。背後でくすっと笑う声が聞こえた気がしたが聞かなかったことにする。
「ここがバラ園です」
紹介といっても、特に説明できることがない。見てわかることを、口にするしかない。
窓から庭が見えていても、案内するほど詳しくはないのだ。
ルークは屈んで、バラの花に自身の鼻を近づけた。いい匂いだ、と小さな声で呟き、目を細めた。そんな彼を見て、ルチアの胸がきゅう、と締め付けられた。
「お前も嗅げよ」
「え、あっ、はい」
その言葉に従い、ルチアはルークの隣に屈んで花の香りを吸い込んだ。
ルチアの部屋にも花は飾られている。だが、その花よりも、このバラの方が何倍も美しく、生き生きとしていた。
「綺麗……」
「次行くぞ」
徐にルークがルチアの手を握り、立ち上がらせた。
触れた手が、熱い。その熱が広がって顔にまで達するのがわかった。
パッと手を離され、ルークはガゼボへと向かって歩き出した。
ルチアは離された手がなんだかとても心許なく思えて、ぎゅっと服の裾を握りしめた。