2.はじめて
「私ばかりが話してしまってすみません」
話が一区切りついた時、伯爵子息からそう言われ、少女は慌てて否定した。
「いえ、そんな……滅相もございません」
「次は貴女様のことをお聞きしたい。ご趣味はおありですか」
「趣味ですか……。そうですね、読書、でしょうか」
部屋から出ることの叶わなかった少女は、本に囲まれて育った。
身の回りの世話をしてくれているメイドと、言葉やマナーを教えてくれた教師以外とは会話をしたことがなかった。
会話といっても必要最低限。怯えられながらのものだったけれど。
彼女とって、知らないことを教えてくれて、きらびやかな世界を見せてくれる本が、唯一の友達だったのだ。
「ルチア様は読書家なんですね。どんな本をお読みになるのですか?」
少女は、公爵子息の言葉にハッとした。
そうだ。自分の名前は、ルチア。
名前を呼んでくれる人なんていなかったから、自分の名前なのに、忘れそうになっていた。
父はお前か、娘、としか呼ばない。先ほどの挨拶でもルチアという名前を一度も口にしなかった。
「な、名前……どうして」
「え? 手紙に書いてありましたから」
ルチアは納得した。
婚約の契約書には名を記さなければならない。きっとそのために、前もって手紙を受け取って、知っていたのだろう。
「そ、そう、でしたか。あ、本……『アナスタシアの歌』という本が好きです。レ、レオン様は……?」
恐る恐る、公爵子息の名を口にする。
生まれてこのかた、人の名前を呼んだことはなかった。名前を教えると呪われる、悪魔に魂を売るようなものだ、とメイド達が噂をしていたのを聞いたから、教えて欲しいと言えなかったのだ。
不思議な聴力のために、メイドの会話が耳に入ってきて彼女らの名前を知っても、決して口にはしなかった。
この耳のことを知られれば、益々みんなを怯えさせ、苦しめてしまうことがわかっていたからだ。
「『アナスタシアの歌』は名作ですよね。私も恋愛小説は大好きなんですよ。でも、最近はもっぱら歴史書ばかり読んでいますね」
軽やかに笑いかける公爵子息──レオンを見て、胸がじんわりと暖かくなるのを少女──ルチアは感じた。
こんな風に、誰かとお話しすることができるなんて夢のようだった。
ずっと、こんな日を待ちわびていたのだ。
ほんわかとしたのもつかの間、またもや視線が突き刺さる。黒髪の従者がルチアを食い入るように、穴が開くほど見つめている。
ルチアはその鋭い眼光を放つ瞳から目が離せなくなった。深い、海のような底知れない不思議な青い瞳。絵でしか見たことのない海だけれど、海の底はきっとこんな色なのではないだろうか。
ルチアの視線に気がついたレオンは、徐に黒髪の従者を近くに来るように招き寄せた。
「紹介が遅れました。こちらは私の専属護衛、ルークです」
ルークはルチアに深々とお辞儀をした後、顔を上げて口を開いた。
「ご紹介賜りました。ルーク・デオンです」
「は、はじめまして、ル、ルチアです」
ルチアが挨拶を返すとレオンが小さく吹き出した。
何かを粗相をしでかしてしまったのかとルチアは青ざめ、おろおろした。
レオンは何か言おうと口を開いたが、それをドアのノックが遮った。
「レオン様」
召使いがレオンを呼んだ。どうやら父の呼び出しらしい。
すぐ戻ります、と託けてレオンは部屋から出て行った。
ルークも当然ついていくだろうと思っていたのに立ったままなので、ルチアが不思議に思っていると、彼は口を開いた。
「ルチア様。失礼ながらお尋ねいたします。貴女、何かやましいことを隠していらっしゃらないか?」
「な……」
──なんでわかったの……?
ルチアが答えられないでいると、ルークは一歩、また一歩とゆっくり近づいてきた。前の婚約者である男爵を思い出し、ルチアはカタカタと震え始めた。
──また、お父様を苦しめてしまう。私のせいで……。
ぎゅっと目をつぶり、鎖骨部分を両手で押さえた。ちっぽけな抵抗ではあるが、ルチアにはそれが精一杯だった。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
涼しげな声とともに、レオンが戻ってきた。これ幸いと、ルチアはルークから距離をとろうと思ったが、その必要はなかった。
ルークはルチアから離れ、ぴしっと背筋を伸ばして壁側に直立していたからだ。
──どうして……? 一瞬で移動したというの?
ルチアが困惑した表情を浮かべているので、レオンが心配そうに具合でも悪いのですか? と聞いてくれた。
これ以上ルークと一緒にいるのは避けたかったルチアは頷いた。
「それはいけない。無理をさせてしまいましたね」
とレオンは言うと、ルチアを部屋まで送るようにメイドに言付けると帰り支度を始めた。
そして、2回目の婚約者顔合わせが幕を閉じた。