第九話 プセヒパーテン傭兵団は敗走する
雪が降る中、プセヒパーテン軍は帰途にあった。
補給商隊はとうの昔に散り散りになって逃げた。
今付いてきてくれているのは十数台しかない。
当然兵団全体――六千人から四千人に減っていた――を養うことなど到底無理だ。
通りの村々はとうに略奪され尽くしていて、全軍の腹を満たすことなど敵わない。
切られて腕を失った者、弾を食らって息も絶え絶えに歩く者、足の骨が折れてもなお銃の留鉤を杖代わりに歩く者。
惨憺たる状況だ。
レナーテ、ラツェル、ヨス、他の中隊長たち、ゲオルグ、ベルンハルト、ハンナはじめとする娼婦たち、補給商隊の商人たち、そしてプセヒパーテン。
兵も将校もみな疲れ切っていた。
雪の降る中、略奪品すら置き去りにして、敗残の兵たちは共和国を北上し、帝国国境までの帰路をただとぼとぼと歩き続ける。
しかもその道は往路の整備された街道とは違い、ほとんど手入れの行き届いていない大軍が通るには難しい小道であった。
それでも敵の広げた網の目を避けるために通らざるを得なかったのだ。
なぜこうなったのか。あの輝かしい勝利は何だったのか。半月前に時間を戻さなければならない。
「他の軍がみな敗退したらしい。我々は孤立しつつある。帰還するしかない」
秋が終わり、共和国領内で冬を迎えるころ、プセヒパーテンは失意以外何ももたらすことのない言葉を表情一つ変えずに言う。
「確かなんですかい?」
ヨスは信じられないという面持ちで落ち着き払った様子の隊長を見る。
「そんな、だってまだ行程は半分、帝国の都市を出発してからまだ一月半しか経ってない。雇い主はこれ以上金を払わないよ。赤字赤字。それじゃあ兵たちに給料も払えない」
誠実に給料を支払うことだけは確実に履行したいレナーテが懇願するように言う。しかしどうしようもない。事実は事実だ。軍事的状況は変えられない。危機が迫っている以上、急ぎ撤退すべきであった。その時、テントの中に飛び込む影があった。
「報告します」
その場の将校十数人全員が息を切らせて入って来た伝令の方を見る。
「帝国への街道沿いに配した守備隊からの早馬です、まさにその街道沿いに敵の軍勢が出現したと」
「ありえねえ」
ヨスがつぶやく。
他の将校たちもざわざわと騒ぎ立てる。
冷静さを欠くのも当然だ。
これでは退路を断たれる形になる。
敵が唯一残ったプセヒパーテン軍を包囲しにかかっていることは明白だった。
迅速な行動が要求される。プセヒパーテンは立ち上がる。
「だ、そうだ。者ども、出立の用意だ。さっさと陣幕を仕舞え。北にいる軍を突破して帝国へ帰還する」
レナーテたちは不安を抱えながらも指示に従い、動き始めるのだった。
大急ぎで北へ向かってとって返す。
せっかく守備隊を置いて略奪する予定の品を管理していた村々だったが、何も回収せずただ通り過ぎざるを得ない。
兵たちは不満げだ。
そのフラストレーションたるやいかばかりか。
しかしそこばかり気にもしていられない。
敵がこの先に待ち構えているのだ。
恐らくレナーテたちが北上を始める前からすでに、街道沿いに展開した敵軍は陣地構築を済ませているだろう。
そこに正面から突っ込まざるを得ないということになる。
そこを突破しなければ後方から追い上げる大群から逃げきれないからだ。
やがて敵陣が見えてくる。
なるほど確かに街道沿いに展開している。
だがその威容はプセヒパーテンの予想を超えていた。
その数は一万近い。
ここに戦闘を仕掛けることは深刻な出血、いや明白な大損害を意味する。
しかしやらねばならない。
そうしなければ前と後ろから挟み撃ちだ。
余りの兵力差に怖気づく兵たちにプセヒパーテンが発破をかける。
「ここを貫けなければ明日はない! 死にたくなければ命を賭けて突っ込むのだ!」
まず親衛隊の騎兵が闇に乗じて敵砲兵陣地を壊乱し、次に先の戦闘でもっとも武功を上げたレナーテ中隊を戦闘に槍兵の密集陣が敵軍をかき分けて進む。
破竹の勢いだった。
しかしそれは罠だ。
意図的に後退する敵に誘引され不自然に縦に延びてしまったレナーテたちの槍隊に横槍が突入する。
槍隊は正面に対しては高い攻撃・防御力を発揮するが側面に対しては非常に脆い。
だからこそ側面を守る歩兵と共に行動するのだが、彼らもまた尖った穂先を並べて突っ込んでくる槍兵にはなすすべもないのだ。
すなわち横槍で突っ込んでくる槍隊こそ槍隊にとっての天敵。
中央で構えていたレナーテは、迫ってくる敵の槍隊に気づくと即座に方向転換を指示したが間に合うものではないのだ。
しかも横槍は両側面からレナーテ中隊を襲っていた。
挟撃の恐怖にたまらず逃げ出す兵士たち。元来、傭兵は命を賭して戦ったりしない。
例え踏みとどまって戦わなければ死ぬかもしれない状況でも同じだ。
恐怖と威嚇によって陣形は簡単に壊滅するのだ。
そうなればレナーテとて退かざるを得ない。
隊の後部で懸命に撃っては装填しを繰り返すラツェルの首根っこを掴むと後方へ下がった。
ヨスや他の中隊も善戦するが、圧倒的兵力差を正面突破で覆すことなどできない。
仕方なく退却に移り始める。
こちらが潰走したと見るや敵軍はうって変わって攻勢に出始める。
追い散らされていくこちらの兵士たち。
どこまで行っても金のためにしか戦わない傭兵だ。
死にたくないのだ。
少しでも旗色が悪くなれば退却し始める。
戦闘の結果は、惨敗。
勝利の女神は二度は微笑まなかった。
彼らは多大な犠牲を出して退却せざるを得なかった。
敗退した日の翌日、ザーザーと滝のような雨が降る日。
今度は敵陣を迂回して帝国へ戻る道を探すわけだが、整備された街道があるわけでもない道なき道を行くのは困難が付きまとった。
まず補給商隊の馬車である。
強行軍でほとんどが脱落した。
必然、糧秣の絶対量が減り、補給は滞り、兵たちは飢えに苦しむことになる。
その上隊内には疫病が蔓延し始めていた。
「砲は捨てな! 略奪品を乗せた馬車もだ! ぐずぐずするな! 敵軍に追いつかれるよ! 死にたいの!?」
「怪我をした人たちはどうするんです!? 彼らを置いていくんですか?」
ラツェルは馬上で檄を飛ばすレナーテに問いかける。
負傷し歩けなくなった兵士を連れ帰る手段などない。
そしてそういう兵士が大量に出ていた。
ラツェルは彼らに同情したわけではない。
ただ一月半前にレナーテが閲兵式で言った言葉が反故にされたような気分になっていたのだ。
ラツェルのレナーテに対する信頼が揺らいでいた。
「理不尽な死は回避するって言っていたじゃないですか。こんなのおかしいですよ!」
その言葉にレナーテは悔しそうに唇を噛む。
そう言ってやるな、と声をかけるものがいる。
ベルンハルトだった。
彼も無傷ではなく、飢え、不快な熱を感じていたが、そんなものは決して態度に出さずに威厳を保ち続けていた。
「ラツェルよ。これが戦争なのだ。一度でも大きく負ければ艱難辛苦が降りかかるのだ。怪我したもの、隊列から落伍するもの、置いて行かれるものは道沿いで乞食にでもなって生きるしかない。そういうものなのだ。それが習いだ。レナーテ殿はえらい。わしはこれまでも同じ規模の敗北を経験したが、その時よりはるかに死傷者も減っている。中隊長としての手腕故だろう」
レナーテはそれでもうつむいたままだ。
雨が髪を濡らして涙の様に顔を伝った。
落伍者は増えるばかりだ。
その時、叫び声が聞こえた。
曰く、後方から敵騎兵! と。
追いつかれたのだ。
行軍隊形で槍陣も満足に展開出来ていない状態では格好の餌食にされる。
レナーテは叫ぶ。
「ラツェル! 伏せて!」
雨で火縄銃が使えない以上、ラツェルは騎兵に対し何ら有効な武器を持っていないことになる。
なすすべもなく殺されるだろう。
地面に臥せってあとは馬に踏まれないことを祈るしかない。
ラツェルはその通りにした。
レナーテは馬首を敵の方へ向けると剣を抜いて騎兵たちの群れに向かう。
一騎、二騎、レナーテの横を通り抜けて背後の味方を襲いに行く。
三騎目がレナーテを主敵としてランスを突き出し、突進してくる。
火花を散らす勢いで迫りくる切っ先をいなすレナーテ。
コンマ数秒遅れれば串刺しになる神業だ。
返す刀で敵騎兵の顔面を打つ。
へこんだ兜が彼の受けたダメージの大きさを示していた。
たまらず落馬し、雨でぬかるんだ地面にぐちゃっと投げ出される。
――もう一騎。
レナーテは馬首を返し前を走る騎馬を後ろから突いて討ち取るとラツェルたちのいる方へ取って返す。
今の攻撃で敵は満足したのかすでに姿は見えなかった。
少年は無事だろうか。
必死で探す。
そして泥の中にその姿を見つけると急いで近づき、馬を降りて拾い上げる。
幸い外傷はないように見えた。
呼びかける。
返事が返ってくる。
ああ、よかった……。
レナーテはラツェルをきつく抱き留めたのだった。
夜が来る。
陣幕を張る時間はないので、みな馬車の影で折り重なるようにして眠る。
ラツェルもハンナの娼婦用馬車のそばで、レナーテに抱きしめられながらまどろむ。
彼女の豊かな乳房に顔を埋めるという行為も、もうこうすることが習慣になっていたので気恥ずかしさは消えていた。
凍えるような空気の中、彼女の腕の中だけが暖かな世界だった。
「今日も生き残れたね」
レナーテがぽつりと口にする。
ラツェルは無言でうなずく。
レナーテはずっと気になっていたことを訊いてみることにする。
「なぜ槍の群れの中に突っ込めたんだい? 怯えて逃げ出すと思ってたわけじゃないけど、意外な行動だったからさ。戦争が嫌いな割に、随分がんばれたじゃない?」
ラツェルは顔をレナーテの胸にいっそううずめるとじっと考え込む。当時の心境を思い返す。
「怒りがわいてきたんです。言いようのない怒りが」
意外な答えにレナーテはラツェルを撫でる手を止めその小さな頭を見下ろす。
「なんなんでしょう、一体。僕の中にそんな感情があるんでしょうか。あるとしたらなぜなんだろう」
――私はこの子の何を知っているんだろう。
レナーテは思う。
まだ出会って一月半だ。
だが共有された時間が濃密なのは自信があった。
生死の境を共にくぐり続けたのだから。
「私にはよくわからないけれど、その気持ちはきっと明日を生きる力になってくれるよ。でもこの前みたいなマネはやめなね。今度も生きてられるとは限らないから」
レナーテは約束してくれ、と伝えるために改めてぎゅっとラツェルを抱きしめるのだった。